3, 6月の終わり。少年、少女の空言。
「私、実は過去から来たんです」
目の前の同級生、かつ謎の文芸部入部希望の少女、宇野空音が放ったこの言葉で俺の思考回路はショートした。正確に言えば現在の状況も相まった結果だが。
顧問から相談を受けた翌日の今日、昼休みに俺は彼女のクラスに出向いた。共同執筆ができないなら入部しないというなんともつかみどころのない案件。これをこのまま野放しにしておくのは良い判断とは言えない。早急に話をつけなければ。
とはいえ、相手とは初対面。教室に堂々と乗り込んでいっては相手の警戒心、または恐怖心を煽り別のトラブルに発展しかねない。
こんな時には良い手がある。俺はその教室の前後にあるドアに視線を動かす。
教室前方側のドア付近でグループを作った女子の塊が会話に花を咲かせていた。このような状況では、会話に参加しているようでただ聴き手に回っているだけの人間が数人いる。
彼女らに頼んで入部希望の少女を呼び出してもらうのが得策だ。他人を間に挟むことで呼び出すという行為が相手に与える印象は大きく異なってくる。
昨日顧問と話した際のように、しかし少し声のトーンに柔らかさをくわえて話しかけた。
「すいません、文芸部のものなんですけど、宇野空音さんって今いらっしゃいますか?」
詳しい要件は話さず、自分の身分だけ明かす。これくらいで大抵信用は取れる。
「あ、はい。いますよ。宇野さーん、文芸部の人が呼んでるー」
軽快に放たれた呼び出しから少し遅れて、その声の主が教室後方のドアを指差した。
目線をそちらに向けるとそこには、少しまごついた様子の少女が立っていた。
白っぽい肌とは対照的な深みのある艶やかな黒髪が首ほどの高さでまとめられており、かなり整った容姿をしている。しかし、少し垂れ気味な目をしているせいか、何処か儚げな印象も持ち合わせていた。
「あ、あの、えと、何かご用でしょうか…?」
少し怯え気味な少女は小さな口から言葉を発した。眉間にしわを寄せ、口元は震えている。
どうやらかなり気弱な少女のようだ。間にクッションを挟むだけでは与える印象を緩和できなかったらしい。想定が甘かった。
だが、ここから軌道を修正していくのもまた、『嘘』の仕事。
俺は一呼吸置いて、心の中の自分に語りかける。
ーー柔らかくゆっくりとした話し方をする、温和で、少女と同じように気弱な生徒。自分はそのような人間。ーー
淡々と自分に『嘘』をつく。自分を騙して、人格を作り上げる。
目元を緩ませ、柔らくあげた口角を動かしながら俺は言葉を紡いだ。
「あ、ごめん…あの、そんな警戒しないで。もしかして何か怒られるとか、勘違いしてるかもしれないけど、えと、ただ聞きたいことがあるだけだから」
「わ、わかりました。はい」
目の前の少女の眉間が緩む。いい感じだ。自分と同じような雰囲気の人間というだけで、人は気持ちが楽になる。
「えっとね、君が文芸部に入りたいっていうのを顧問の先生から聞いてて、それで、僕と共同執筆したいって聞いてるんだけど…」
彼女は不思議そうな表情をしていた。しまった。まだ名を名乗っていなかった。少し慌てた様子を装って俺は言葉を続ける。
「あ、ごめんごめん。まだ名乗ってなかったね。自分は一年三組の楠木宏星っていいます。それで…」
「楠木さん!?楠木さんですか!?」
突然少女がこれまでとは打って変わって声を張り上げた。予想外のリアクションに俺は多少圧倒され、二、三歩後ろに足踏みする。
「あ、はい。そうですが…」
「わぁ! 私、あなたの作品大好きなんです! 情景の表現とかすごくリアリティのある描写をされていて、まるで景色がその場に広がってくるような臨場感でした! それに何より、人物のダークな裏側をあんなに緻密に…」
と彼女は早口でまくし立てていたが、俺が若干後ずさりしていることに気がついたようだ。打って変わって、しゅんと縮こまってしまった。
「す、すいません…興奮しちゃいました」
「いや、そこまで楽しんでもらえたなら嬉しい限りだよ」
あまりの熱弁に、本心のまま少しひいてしまったが改めて自分への嘘を強く持つ。
一度落ち着いたようなので本題を切り出そうとしたが、落ち着きを取り戻した彼女が口を開く方がコンマ数秒早かった。
「あの、入部の件なんですが、多分わけがわからない条件だと思ってると思います…。その件についてしっかり話したいと思ってるので、放課後もう一度教室まで来てもらえませんか?」
最初の怯えた目とも、熱弁の際の見開かれた目とも違う、かたい印象を持たせる双眸が俺を捉えている。
本心からいえば、面倒くさい。放課後のくつろぎは至福の時間だ。あまり失いたくはないのだが、ここまで完璧とは言えないまでも、良い流れはできている。切ってしまうのは惜しい。
俺は再び自分に『嘘』をつき、面倒に思う自分を打ち消した。背筋を伸ばし、少し真面目な口調へと切り替えた。
「わかりました。放課後、もう一度来ますね」
敬語を用いて、自らの意思をより明確に伝える。
彼女は目元を軽く緩ませ、少し不安げな笑顔を浮かべた。
「ありがとうございます…お手数おかけしてしまって、すいません」
俺はいえいえと軽く会釈と別れの挨拶を交え、その場を離れる。
自分の教室に帰りながら状況を整理していると、ふと頭に何かが残るような感覚が俺を襲った。
かしこまってこちらを見据えてきたときの彼女の瞳。かすかに震え、しかし後ろめたさを一切感じさせない凛とした視線。なぜか、脳裏にはその表情が微かに焼き付いていた。
放課後、荷物をまとめ終わった俺は再び彼女のいる教室へと歩みを進めていた。
相手から肯定的に示された、貴重な時間を使っての対話。よく考えてみればリソースと見返りが釣り合っているような気がしなくもない。
そうでなくても、話し手から出された状況下であるということは、対話において互いに大きなアドバンテージとなることが多い。
一対一のコミュニケーションでは、どちらか一方が何か会話のテーマを出さない限り進展はない。話し手と聞き手が明確に決まっている場合は、役割に応じた行動が必須となる。
話し手自らが対話の場を用意するか否か。自らが作り出した状況下であるというだけで、人の感情は安心と動きを持つようになる。よって、会話はスムーズに動き、かつ心情はより鮮明に表されるようになっていく。
心情の把握は聞き手にとって重要であり、自らの言葉、そして『嘘』の展開、加えて相手の『嘘』からの考察にとって大きな要素となりやすい。
端的に言って、今の状況は事を進展させるにはかなりうってつけの状況だ。
昼に自分についた『嘘』を、再び心の奥底に囁き、自分を自分ではなくする。 物腰の柔らかい人柄を作り上げ、自分へと貼り付ける。
宇野の教室に到着した俺は、落ち着きとともに態度を定着させるため、ゆっくりと深呼吸をした。安定した虚偽をまとった俺は教室前方のドアから教室を覗き込む。
姿を捉えた際、彼女は机の上においた自分の通学用かばんをじっと見つめるような形で静止していた。
置物のように思えた。行動自体も、それも含めた彼女の纏った雰囲気さえも。頭に残るあの瞳とも違う、湿ったガラスのように鮮やかに曇る彼女の双眸はどこか虚ろだった。それのせいだろうか。放課後という開放感ある時間、それに湧き立ちはしゃぐ他の生徒の群れの中で、彼女だけどこか、別の場所にいるような気がしてならなかった。
そんな彼女の目が、急に、俺の知っているおどおどとした雰囲気をまとった。
気がつけば彼女の視線が俺へと向いている。
どうやら俺は無意識に彼女の目をしばらくじっと見つめてしまっていたらしい。そんな行動を起こされては動揺するのも無理はない。
だが、これは痛手だ。最適に近い対話の状況に動揺という不安要素を加えてしまった。
ひとまず彼女に軽く会釈をし、教室のドアから離れる。
彼女の動揺をなくすためにはさまざまな手段が考えられるが、ここから実行に移すタイミングが少なすぎる。
もう数秒で彼女と目を合わせることになる。そこで不自然な間を作ってしまっては動揺を煽りかねない。
となると取れる手段は一つ。
方針を固め終わったとほぼ同時に、宇野が教室後方の扉から姿を現した。
目に飛び込んできたのは、引きつった口元、少ししおぼつかない足取り。
あの時のように、いやそれ以上にも見える動揺が彼女を覆っていた。
速やかに俺は自らにかけた『嘘』をさらなる『嘘』で一時的に上書きし、言葉を発した。
「なんかごめん…! あの、なんだかぼーっとしてて眠たそうだったから、話しかけるの躊躇ってたんだけど…。そのままどうしようか考えてたらフリーズしちゃってたみたいで…」
状況に合わせた虚偽の意思を述べ、それに基づいた行動を行なっていたと釈明する。
過去の現象を用いてそれ自体を改変する。事実が少し絡んだだけで『嘘』は途端に強度を増す。
加えて、それを伝える対象は動揺の真っ最中。動揺の中では人は自らの欲求、具体的に言えば都合のいい事柄を正直に欲する。
俺は駄目推しに「ごめん!」と少し強めに言葉を発しつつ両手を顔の前で合わせ、オーバーに謝罪をした。少し力んだような声は、人の良心へ強く、深く響きやすい。
ひとしきり謝り倒したところで、彼女の目元の震えが止まった。
「あ、そうだったんですね…。ちょっとびっくりしちゃいました。気を使わせちゃってすいません」
彼女の声は微かな震えをまとっていたが、不安の種はぬぐい取れたようだ。あとは、この『嘘』が疑われない内に対話を進めてしまおう。
「それで、詳しく話をしてもらってもいい? 共同執筆というのは、ちょっと俺聞いたことなくて…」
「わかりました…あっ」
少し慌てた様子で彼女は声をあげた。
「場所、移動してもいいですか…ごめんなさい、ここに呼び出しておいたのに」
まったくだ。と本当の俺が強く思うが『嘘』がそれを刈り取り、消し去る。
「了解、どこに行くかって決まってる?」
「2階の化学実験室の前にしようかなって。あんまり人も来ないですし」
そう言うと彼女は身を翻し、近くの階段へ向けて歩みを進め始めた。
俺は少し遅れて着いて行きながら、先ほどの彼女の言葉について分析する。
あまり人が来ない。それを口にしたということは、人に聞かれては困る内容が対話に含まれているということ。
彼女の発した言葉に含まれていたのは、微かな動揺。普段あら嘘をついている人間に含まれている類のものだが、人に聞かれたくない内容なら話は別だ。おそらく真実だろう。
1〜2分ほどで理科実験室前に到着した。奥まった場所にあり、放課後なこともあってこともあって人通りは全くない。
彼女は再び身を返し、互いに向き合う形をとった。
「それでですね、まず知っておいて欲しいことがあって。多分頭おかしいんじゃないかって思われると思います。でも信じてほしいことなんです」
そこまで行って彼女は一呼吸おき、より深い眼差しで俺を見つめた。
それは昼に見せた、頭に残るあの凜とした表情そのものだった。
さらに一呼吸置いて、彼女は言葉を発した。
「私、実は過去から来たんです」
瞬間、俺の思考は停止した。
具体的には、流れ込んできた情報があまりに膨大でフリーズした、といった形だ。
彼女の言ったことは、馬鹿げている。この状況にはあまりにもそぐわない、くだらないジョークだ。
普通なら。
彼女の行動には、一切の『嘘』を感じられなかった。しっかりとした眼差しはもちろん、言葉に震えはない。ごまかしたいことがあるときによく行われる、微妙な体重移動もない。表情は固くしまっている。声のトーンも何一つ、不審な点はない。
何より、人が『嘘』を吐くときに同時に生まれる、形容しがたい圧迫感も一切ない。
全てが白く、明確に表されている。俺にはそう見て取れた。そう見て取るしか、なかった。
ならば、彼女が発した馬鹿げたジョークは真実という事になる。
もちろん俺の思考が間違っている可能性だってある。だが、それを疑う余地さえ与えない、あまりにも聡明すぎる何かが『嘘』を判断する思考回路に入り込んだ感覚。
それがもたらした破壊力で俺の情報処理機能はあっけなく弾けとんだ。
「やっぱり、バカじゃないかって、思われますよね…」
彼女が少し俯きがちに発した言葉で、俺の意識だけ対話へとは引き戻された。だが思考回路は以前混乱中。会話を続けなければ、何か反応を。ただその一心で俺は叫んだ。
「し、信じるよ!」
突如、空気が静まり返る。俺の思考もろとも、世界まで止まったような、そんな感覚。彼女呆然とした顔を浮かべている。
ほんの数秒続いた静寂は彼女の発声によって切り裂かれた。
「えっあ、あの、ありがたいんですけど…えっと…なんでそんなすぐに信じてくれるんです?」
しまった。
その瞬間、軽い背筋の寒気ともに頭が急速に冷え始めた。
動くようになった思考回路によると、あの状況では信じられないと繕いながらも信じた体で対話を進めていくのがベストだったはずだ。
しかしこの状況、もはや後戻りはできない。繕っても不自然と違和感をもたらすだけだ。
どうする。まだ完全に冷え切っていない頭は処理が遅い。『嘘』が出てこない。ただ時間だけが過ぎていく。
彼女は不思議そうにこちらの顔を覗き込み続けていた。
「何でかって、えっと…」
焦り、混乱、動揺に、衝撃。大量のマイナス要素を叩きつけられ瀕死の思考回路。それが導き出した最適解は、
「俺、実は…他人の『嘘』が、わかるんだ」
カミングアウト、言うなれば、降参。あまりにもみっともない選択だった。
「…へ?」
彼女は以前、きょとんとした表情を続けている。
一つの選択を行ったからか、意識の混乱がようやく落ち着いてきた。しかしもはや『嘘』を出すには手遅れ。ただ自分の言葉に注釈を加えるしかない。
「俺、人の動作とか、表情、声の震えとかを観察して、その人が今『嘘』をついているかどうか、かなりの制度で判別できるんだよ。だからそれに基づいていつも生活しているんだけど、今の宇野さんの言葉、行動から一切『嘘』が見えなかったんだ。だから…信じるしかないよね…」
『嘘』を纏わない本当の俺が、ただ淡々と言葉をつなげていく。内容だけ聞けば俺も意味不明な言動をしている人間だろう。
だが彼女は、真剣な瞳をしながらこちらの話を聞いていた。一通り俺が話し終わると、代わって彼女が口を開いた。
「…私もそれ信じます」
あまりにもあっけない宣言。何故そんなにあっさりと。そう聞こうとしたが、その言葉は再び発せられた彼女の言葉によって遮られた。
「だって、物語であんなに人の心を精密に描ける人ですもん。それくらいできても、特におかしくないです」
「…ずいぶん、物語に比重を置いて考えるんだね」
「物語、というか、物語と『嘘』っていう、ふたつが組み合わさってたからですかね。こんなにしっくりきたのは」
彼女は真剣な眼差しを少し緩め、笑顔でつぶやいた。
「物語と『嘘』って、密接な関係にあると思うんです。互いに無関心なようで、切っても切り離せない、そんな関係」
もはや独り言のような彼女の言葉は、俺の心に何かを残していったような気がした。
「さて、互いに種明かしをしたところで、本題に入りますね」
彼女は凛とした表情に戻り、言葉をつなぎ始める。
「小説の共同執筆なんですが、何も初めから、全部一緒にやりたいってわけじゃなくて、まずは書いた小説を互いに持ち合って、アドバイスしあったりしたいんです。もちろん、いつかは全部の工程を二人でやってみたい気持ちもあります。けど、最初は少しずつ、互いの世界を調和させるところから始めてみませんか」
真剣な態度で彼女はそう問いかけた。
要求は顧問の憶測より緩いものだった。自分の世界に干渉されるのに変わりはないし、後々負担が大きくなってきそうだが、時間というアドバンテージがあるなら少しはマシだろう。
時間が物事を解決してくれることはよくある。それに頼りっきりになるのは癪だが、今回ばかりは今すぐの部員確保が先決。止むを得ない。
自分の世界以外からの刺激で、知見を深めるためとポジティブにとらえ、それを『嘘』に再構成し、自分に働きかける。
「…わかりました。共同執筆、一緒にやろう。宇野さん」
途端に、彼女の顔に笑顔が広がった。満面の笑みで彼女は言葉を紡ぐ。
「やったぁ! これからよろしくお願いします、楠木さん!」
ひとしきり喜びを表現し終わった彼女は、再びの感謝と別れの挨拶をすると、軽い足取りでこの場から去っていった。
一人残った俺は、しばらく呆然としていた。
過去から来たという、宇野空音。そんな彼女と小説の共同執筆。前代未聞の出来事が続き、やはり混乱が抜けきらない。
そこでふと気づく。
彼女が過去から来たという事実を、俺に伝えるメリットが把握できない。
今回行われた交渉に、その要素は不必要に思える。事実、過去に関する話はその後の会話に一度も出てこなかった。必要性が感じられない。
だが俺は同時に、心の奥に生まれていた感情に気がついた。
与えられたあまりにも大きすぎる情報。それに対して抱いていたのは主に、焦りや不安などのマイナス要素。しかし、楽しみというプラスの要素も確かにあった。
遭遇したことのない未知に対する期待、それは間違いなく俺の心に居座り、そしてここ数分の間俺を動かした意思の一つだったように思う。
先ほどの、ポジティブで構成された『嘘』を貼り付けた俺は、もしかしたら隠れた本心を具現化した、ただの俺だったのかもしれない。
『嘘』でできた自分が、『本心』の自分に騙されていた。
それを自覚した瞬間、情けなさとともに脱力感が全身を駆ける。
溢れそうになるやりきれない気持ちは、乾いた笑いとなって口から溢れていく。
俺はただその『本心』に身を任せるしかなかった。
転感性空言 かべのくは @kabenokuha
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