2, 6月の終わり。女性の空言。~後~
私の手が紙幣に触れる直前、突然それが急速に後退した。空気をつかんだ手は半円を描くように元あった位置に戻ってくる。
その姿勢を崩さないようにしながら目線だけを目の前の男の方に移した。
普通なら私の手に収まるはずだった金を左手で掴みながら、男は笑っていた。さっきまで浮かべていたふざけた笑いとは違う、待ち望んでいた獲物が罠に引っかかったような、無邪気かつ、残虐的な笑顔。
「…悪ふざけのつもりか」
姿勢を崩さず私は問いかける。男は目を薄めながら、それでもこみ上げる笑いを抑えられないかのように口角を吊り上げて、ステップを踏むように3歩ほど後退する。
「まさか。俺が姉御相手にふざけるわけないじゃないですか」
「その発言自体ふざけてるだろ」
「へへっ。辛辣なご意見。参考にさせていただきやす」
男は左手に握った紙幣の束を顔の横でひらひらと揺らしながら、嘲るようにこちらを見つめて続けた。
「まぁでも」
男は握った金ごと左手をポケットに突っ込む。同時に男の表情から笑顔がかけら残さず消え去った。先ほどの顔からは想像もできない、冷徹で鋭い目がこちらを突き刺すように見つめている。
大きくトーンを落とした低い声で男は呟いた。
「今、ふざけてないのは本当っすよ」
即座に、周囲の空気に緊張が駆け巡る。それに呼応するかのように吹いた強めの風が植え込み、樹木をまとめて薙ぐ。蒸し暑い空気に反するカサカサという乾いた音が公園中を埋め尽くした。
葉と葉の擦れる音が少し弱まったところで、少し怒気を強めた言葉を私は投げかける。
「じゃあ聞かせてもらおうか。お前は何をしようとしてるんだ?」
少し強張った男の視線と動かない私の視線がぶつかり合う。雰囲気の緊張はそれに比例するように高まり続けた。風も止み、静寂と夜の闇が混ざり合って辺りを包む。
静まり返った空間に耐えかねるかのように、男はゆっくりと口を開いた。
「…問いを問いで返して申し訳ないんですが、逆に姉御は何をしようとしてるんです?」
「どういうことだ」
「言葉の意味そのままです。『レッド』の姉御は仕事の指揮、加えて中心になる行動は全部自分で片付けちまうくせに、手取りはやたらと少ない。この仕事が甘い仕事じゃないのは知ってるはずっすよね。なんでそんなに見返りを求めないんすか?」
「別に私はやりたくてこの仕事やってるわけじゃないからな。つける仕事がこれしかなかっただけだ。金は別に、普通に暮らして生きていられる量あればいい。おかげでかなりの量の金がお前に回っただろ? それでいいじゃないか」
「よくないですよ」
男の声がさらに低くなり、怒りが明確に表明されていた。男は言葉を続ける。
「仕事柄、仲間ができることは珍しくないですが、お互いに事情を語ることはほぼない。それはわかっています。だから情報売りに頼って秘密裏に互いを知り、少しでも信用を持ってそれを隠して仕事に当たる。それがこの界隈のやり方です。でも姉御。姉御の情報は、情報売りごとによって全く異なっている。信用できる間柄か判断ができないんです。加えて俺らを一番強く繋ぎ止める金さえも満足に受け取らない」
「だから私が信じられないと」
「姉御の仕事は信用できても、姉御は信頼できない。もし『表』とつながっていたらどうなるか。俺らの認知度の高さを利用していたら、簡単に仲間内までも被害を受ける。ずっと黙ってましたが、もう限界です。変に逃げられても困る。ここで消えてもらいます」
男が喋り終わると、周辺の闇がカサカサと葉の擦れる音とともに、千切れるように分離した。分かれた闇はゆっくりとこちらにすり寄ってくる。
気がつけば、周囲には合わせて6人の男がいた。手ぶらの者もいたが、半数以上がナイフやらガラス瓶やらの武器を手にしている。顔は全員等しく、堪えられない愉悦に満ちた笑顔が浮かんでいた。
「ま、指事されて仕事するのに飽きたっていうのはありますけどね。ほら、命令されてばっかりだと、だんだん反抗したくなっちゃうじゃないですか」
元相棒はいつものおどけた口調に戻りつつ、ポケットに入っていた左手を背面へと伸ばしていく。再び私の視界に戻ってきた手の平には、50センチほどの鈍色に光る鉄の棒が握られていた。
鉄パイプを器用にくるくると回しながら男は再び言葉を発する。
「そういえば姉御。前に苦しみながら死なないのが一番とかって呟いてましたよねぇ」
「弱音は隠れて吐くようにしてたんだがな。どこで聞いた」
「バレバレでしたよぉ」
大笑いするの必死で耐えるかのような荒い、そして粘っこい吐息を漏らしながら、目の前の主犯は話し続けた。
「じゃあ姉御の一番の願いを俺たちが叶えてあげますよ。死ぬときの苦痛が嫌なら、それをかき消してくれるぐらい楽しいことやればいいんです。気持ち良すぎて絶頂するぐらいの快感を、俺らが味わせてあげますよ。その中で逝ければ苦痛なんてないはずっす」
そう言い終えると男は長い舌を弄ぶようにゆっくりと舌なめずりをした。下品かつ醜悪な表情。それを見るのに耐えかねて私は視線を下げる。
「屑が」
喉をかろうじて鳴らすように吐き捨てた。
周囲を取り囲んでいた男たちは足を引きずっているかのように粘着質な動きでこちらに近づいてくる。砂と靴底がすり合わされる音がいくつも重なり響く。
「変に抵抗しないでくれれば、優しくしますよ。身を任せてくれればこっちで快楽の海に沈ませてあげますし、その中で姉貴はただ死ぬだけです。」
男たちの足取りが止まる。一番近い者で30センチ、遠いもので二メートルほどの距離だろうか。主犯格の男が私の胸ぐらに手をかけようとする。
その瞬間、私は口を開いた。
「おい『クライ』。何してんだ。手はずどおりにやってくれよ」
大きすぎず、小さすぎないボリューム。しかし腹の奥から吐き出すように発した声は、この場に立ち並んでいた男たち全員の鼓膜を確かに揺らしたようだ。
一番遠くに陣取っていた男の方がびくりと震えた。こちらを驚愕の表情で見つめている。
それに続くようにして、他の男たちの目が一斉にそいつの方を向いた。
「おい、どういうことだ『クライ』」
元相棒が怒気と焦りを混ぜたような声質でつぶやく。ほんの少しの、しかし確かな空白の時間。私はそれを逃しはしない。
膝から崩れ落ちるかのように体を落とし、同時に足を滑らせて目の前の元相棒の足を柔道の刈り技の要領で引っ掛ける。
体重を崩した男は後頭部から大きく地面に倒れ、衝撃で手に持っていた鉄パイプを手放す。反動で少し浮き上がった鉄パイプを空中でキャッチし、私が『クライ』と呼んだ男の顔面めがけて投げつける。
鉄パイプは狙い通りの場所にヒットし、ゴツンと鈍い音を立て相手を吹き飛ばした。
「ハッタリかこのやろっ…!」
怒りで気が動転した残り四人が一斉に私を取り囲んだ。
「ナイフが二人、パイプが一人、素手が一人か…」
攻撃される。それがわかった瞬間、私の心は恐怖で満たされた。痛みが来る、それは嫌だ。
だからーーー
「シィッ!!」
気迫とともにナイフが右前方からせまる。鋭い刃が、来ていたシャツに触れた。恐怖はその時最高潮に達する。
だから私はその恐怖から逃げた。体をそらし、ナイフの進行方向から逃れる。シャツの繊維を少し切り裂いたナイフは、再び男の元へと引き戻された。
周りにいる残り3人も傍観しているはずはなく、攻撃に参加する。
私は、ただ逃げた。恐怖から逃げ続けた。服に傷がついても、髪が散っても、逃げた。
苦痛をもう二度と感じたくはない。それが私の原動力。行動の意思。それが私に力をもたらす唯一のもの。ひたすらに攻撃を避けた。
逃げ続けながら、私は時計をちらりと見る。
「そろそろか」
時間を確認し終わった、その瞬間、私は地面に崩れ落ちた。目の前には、足を蹴り飛ばした後の姿勢で動きを止める男の姿があった。顔は、猟奇的な笑顔で染まっていた。
「姉御…やってくれましたね」
さっきまで地面に倒れ伏していた相棒が立ち上がって言葉を吐き捨てた。
「まぁ、『レッド』なんて不名誉な二つ名がつくくらいのことはできるさ」
「まぁ、流石と言っておきますよ。でも、もうゲームオーバーですね」
周囲の男たちは颯爽と私を取り囲む。怒りの矛がはっきりと目に見えるようだった。
「ま、俺も紳士ですから約束は守りますよ。快楽の中で殺してやるっていう約束をね」
男はこれで終わりだというかのように、ゆっくりと私の体に手を伸ばし、私の体を掴み上げた。
足が地面から離れた瞬間、私は、笑み交じりに口を開いた。
「やっぱりお前は馬鹿だ」
「負け惜しみっすか姉御」
「お前っていうか、『お前ら』っていうか。頭脳派一人でも連れてくれば、また違ったかもしれないのに」
私はこらえきれずに軽く吹き出す。男は少し苛立った口調で呟く。
「笑うなんて余裕ですね。怖くないんすか」
「いい加減気づけよ。『クライ』どこ行った?」
周囲の男の目の色が変わる。
私を取り囲んでいるのは、ナイフを持った男が一人、鉄パイプ持ちが一人、素手が二人、そして目の前の元相棒。合計5人。
一人、足りない。
「そこの女性から離れろ」
聞き覚えのない声が公園に響き渡った。暗がりから声の主が現れる。一人ではない。
濃い青色に統一された制服と防弾チョッキ、そして制帽。子供でも見覚えのある姿。
そこには5人ほどの警官がいた。そしてその後ろには、怯えた表情をした、正確にはそれを繕った『クライ』がひっそりと佇んでいた。
空間に緊張が張り巡らされ、同時に暴漢どもの表情が憤怒と屈辱に埋め尽くされていく。
「おいふっざけんなよ…!」
元相棒はやりきれない怒りを吐き捨てるかのように言葉を絞り出した。
抵抗しないのは利口な選択だろう。ここにいる暴漢どもは全員荒事のスペシャリストではない。この仕事をしている以上慣れる必要はあるが、基本は隠密行動。巻き込まれない方が得意であり、徳だ。
無論、訓練を積んだ警官にかなうはずはない。
私を掴んでいた手がゆっくりと開き、地面へと投げ出された。すかさず『クライ』の元へ駆け寄り、そいつの背中に手を回し体を抱きしめた。私は涙を流す。
「怖かったよ…ううぅ」
頭の上に硬い手が置かれる感触がある。『クライ』なりの慰めのつもりだろう。表情に『嘘』がにじみ出てなければいいが、まぁ及第点だ。
私は目に涙を溜めながら、手錠をかけられ連行される元相棒の姿を横目に眺めていた。
「いやー痛ってぇ。もう少し手加減してくれんか?『レッド』さん」
「いいことを教えてやろう。『嘘』は全力でやってこそ『嘘』なんだよ」
「ってことはそれも嘘やろ」
「わかってきたじゃないか」
ついさっき全力で鉄パイプを投げつけた相手と、裏路地で会話している。仕事上、よくあることだ。
「そういえば、よくあいつの計画を把握できたなぁ。結構用意周到だったはずやが」
「確かに用意周到だったが、あいつ自身からは『嘘』がにじみ出てたしな。『嘘』がバレないための『嘘』がなかった」
「ようわからへんが、まぁさすが『レッド』なだけあるわ」
あいつの計画を把握してから、私は実行メンバーであったこの『クライ』にコンタクトを取って、こちらに協力するように仕向けた。具体的には報酬を積んだらすぐ寝返った。
「まぁ鉄パイプ食らって、交番で『彼女が暴漢に襲われてます』っていえば30万もらえるんだったら、安い仕事やな」
赤く腫れた額をさすりながら『クライ』は呟く。
あのあと私に対しても軽い取り調べが行われたが、無理やり酒を飲まされ、そのあと乱暴をされたと話して、ただそれだけで終わった。
警官を騙すのは何度もやってきた。事実と証拠を残しつつそれを『嘘』に組み上げる。これだけでいい。簡単だ。
あの暴漢どもはおそらくすぐに裏事情が洗い出されて、これまでのことも含めて裁かれるだろう。
「じゃあ俺はそろそろ行くわ、もう頼まんようにして。こんなリスキーなこと、人生に一回で十分や」
そういうと『クライ』は気の抜けるふらふらとした足取りで路地から去っていった。
一人になった薄暗い道に朝方の風が吹き抜ける。
今回も、死なずに済んだ。苦しみから逃げることができた。
『詐欺師』という日常の裏に潜む仕事をしている以上、いつまたこんなことが起きてもおかしくはない。
やりたくてやってるわけじゃない。だが私にはこれしかない。でも苦しみながら死にたくない。ただの我儘だ。わかってる。
がむしゃらに生きてきた。いつからだろう、気がついたら完璧に嘘を見抜き、完璧に嘘をつき、人を欺けるようになっていた。
人を騙して金を手にいれる。対象を翻弄して情報を手にいれる。仲間を裏切って生き延びる。
だが一番騙したい『自分』は、いまだに騙せない。苦痛が怖い自分を。
だから結局、明日も何も変わらない。
私は、醜く生き延びていく。真っ赤な嘘をつき続ける、『レッド』として。
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