2, 6月の終わり。女性の空言。~前~

 ただただ意味もなく彷徨うだけでは、答えなんて見つかるはずはない。

 否、見つかっても分かるはずがないのだ。人は目標という存在があって初めて、自分が何を欲しているのか、何を探し求めているかを自覚できる。

 自覚がなければ、仮に何か掴んでいたとしても、それが自分にとって必要なものかわからない。加えて、よくわからないものは手放してしまうのも人間の性だろう。

 今の私には、生きる意味はない。生きていたいとも思わない。答えを見つけることも、とっくに放棄した。

 だからと言って首を吊ったり、腹をかっさばいて自殺する勇気もなかった。痛みを味わいたくないからだ。

 なら餓死? 死ぬ直前は意識が朦朧としてくるという噂を聞いたことがあるが、だめだ。腹が減り、胃が油圧式のプレス機で捻り潰されるようなあの苦しみはもう二度と味わいたくはない。

 毒殺も絶対に避けねばならない。幸運なことに、その様子を漫画などの非現実な媒体でしか見たことはないが、喉を抑え悶え苦しみ、最後には情けなく唾液を垂らしながら事切れていく。その苦痛を想像するだけで寒気がする。

 睡眠薬の多量摂取なら眠るように死ねるという話を前の仕事仲間から聞いたことがある。そいつはその方法を実行に移しても死に切れず、重い後遺症を患った。最後には交通事故で車に引き摺り回されて死んだ。

 結局いつも私の周りにある死に方は、どれもこれも、残酷かつ苦痛にあふれた死に方だ。

 なんだかんだ言って老衰が一番楽に、すっと逝けるということだろう。しかしまだ私は28歳。老いて死ぬにはあまりに早すぎる。

 別に今死んだっていい。消えていけるなら、別にそこら辺のゴミ捨て場で無様に死んだって、体の形が残らない死に方だって良い。

 ただ、これ以上苦しみたくない。痛みを味わいたくはない。また何かに耐えなければいけないことに、耐えられない。

 だけど残念ながら、そんな便利な死に方は今の私にこの世は授けてくれなかった。

 だから生きるしかない。生き延びて、死の運命を受け入れるべき時を待つしかない。

 あまりに否定的な衝動が私を動かし、生を体に淡々とのろまに刻んでいく。

 右手に持ったままで少し緩くなった缶ビールを口に含み、喉を洗うかのようにゆっくりと胃に流し込む。アルコールが思考回路を惑わし、先ほどまでのどうにもならない思案を溶かしていった。

 そこら中に乱立する街灯が生み出す強烈な人工光は、宵闇をいとも簡単に切り裂き、その空間を占領する。それでも夜が暗闇の独壇場であることは変わらない。依然として大部分の光の当たらない道や壁は闇で濁り、目に届く視覚情報を奪っていく。

 今いる公園は、公衆トイレの付近に一本電灯があるだけで、敷地内の八割以上が、夜がもたらす素の暗闇で満たされているようだった。

 今にも引き込まれてしまいそうな闇からから逃げるように少し上体を引き、体を反らせて空を見上げる。

 半分ほどかけた月と、特に明るい星が数個確認できるだけで、周囲と変わらない、いやそれ以上の黒い空間が詰まっていた。

 街灯の大きな弊害は主に空に現れ、光の弱い星はあっという間にかき消されてしまう。

 私はなんとなくその黒に左手を伸ばす。自分の望む形で、その先にあるかもしれない理想に、行くことは叶わないとわかっていても。

 暗闇は変わらず私の頭上をただ覆っている。動きもせず、揺らぎもせず。空と定義されている空間を満たし、星や月の光を引き立てるだけだ。

 見ていると恐怖心を舐め回されるような感覚さえある、微動だにしない漆黒の塊。

「相変わらず、つまらない夜空だこと」

 やり場のなくなった多少の恐怖心をごまかすように吐き捨て、手と視線をを斜め下に投げ出す。革手袋をはめた両手と、空の闇に侵食され黒ずんだ地面が目に入った。

 しばらくその姿勢でぼーっとしていた。周囲の暗がりのせいか、今考える必要のないことばかりを思考してしまう頭を落ち着かせるためだ。加えて今は待ち合わせの最中。それぐらいしかやることはない。

 時間確認のために近くに寂しく一つ佇む時計を見上げる。時刻は午前3時をとうに過ぎていた。

 六月の夜だというのに、体表中を這いずり回るような熱気が体を覆っており、不快感と怒りを増幅させ、汗が引っ切り無しに湧き続けた。

 残っていたビールを一気に喉奥に流し込む。軽い刺激臭が鼻から抜け、浮遊感に似た心地よさが一瞬頭を包み込み、暑さが和らいだような気がした。

「いやぁ、暑いっすね」

 ふと左の暗がりから人影が現れる。

 スポーツ刈りの頭に、大きくアルファベットが刻まれたシャツとくるぶし上まで裾のあるジーンズを履いており、軽く右手を振りながらこちらに近づいてくる。

 男は私の座っているベンチの近くまでくると、そこで地べたにどさりと座り込んだ。

「遅い」

 私は若干の怒気を含めた言葉ともに、足元に置いておいたクーラーボックスから缶ビールを取り出した。

 それを軽く手首のスナップをきかせながら男の顔面めがけて投げつける。

 男は缶を顔から5センチほど離れたところで受け止め、ニヤリと口角を釣り上げた。

「いやー手厳しいっすね。15分遅れなんて誤差ですよ誤差」

 ヘラヘラとしながら缶を持っていない方の手をプルトップに引っ掛ける。続けて気が抜けるようなカシュッといった音が、缶の封が開いたことを告げた。

「馬鹿野郎。このクソ暑い中での15分がどれだけ大きいか一回体験してみるといい。」

「えー嫌っすよ。『レッド』の姉御ならそんな暑さ余裕でしょう?」

「私はスーパーマンじゃないんだよ。次から15分前行動しろ」

「それ俺がただ損するだけじゃないですかぁ」

 心の嫌悪感を丸ごと露呈させるかのような表情をとった後、男は缶の中の液体を貪るように呷った。ゴクゴクと喉を鳴らす音がかすかに響き渡る。

「ぷはぁー! いやーうまいっすね。ほらこの暑さがあるからこそ、酒がうまいんですよ。悪いことばかりじゃないですって」

「お前が遅れなきゃいいだけの話だドアホ」

「相変わらず口が悪いなぁ姉御は。せっかくの美人が台無しですよ」

 男はカラカラと笑う。なんとなく虫の居所が悪い。

 自分も足元のクーラーボックスからアルミ缶を一つ取り出し、蓋を開く。多少のアルコールの香りが鼻をくすぐり、逆立っていた心が少し落ち着きを取り戻す。

 そのままビールを軽く口に含んでから、ふぅと一度息を吐く。

 目の前でヘラヘラしながら酒を飲むこの男は、かなり長い間縁のある仕事仲間だ。私が主に計画の舵を取り、それの本筋となる行動を起こす。こいつは人を手配したり、情報収拾を行うなど、いわばサポート役だ。

 こなした仕事はすでに100を超えている。私の仕事界隈は裏切りや下克上のような事案が多く発生しやすいためここまで長く仕事をしていると、ペアとしての認知度はなんだかんだ言って上がって来る。

 今日集まったのは、先日行った仕事の結果報告と報酬の相談のためだ。

 もう一度缶の液体を口に含んでから、同じくビールを胃に流し込んでいる男の方に向き直る。

「それで、どうだった」

「完璧、いやそれ以上ですよ。情報代、人件費諸々引いても利益は150ってところですかね」

「まじか。予想だと100ぐらい利益が出ればいい方だと思ってたんだが」

「情報が思ったより金を積まなくても出てきたっていうのもありますけどね。相手も馬鹿でしたよ。ちょっと大きめの値段ふっかけてみたら意外とすんなり」

「お前…計画外のことをやるなとあれほど言ったのに…」

 私は額に手を当てる。こいつは準備の段階で必要な仕事はきっちりと手はず通りに終わらせるのだが、いざその計画を実行するとなると急に、リスクを冒して利益を上げようとしたり、移動経路を「こっちにうまい酒のある居酒屋がある」とかいうどうでも良い理由で切り替えたりする。危なっかしい奴なのだ。

「良いじゃないですかー。久しぶりですよこんな大金」

 目の前で相変わらずニヤニヤと笑いながら、男はジーンズの後ろポケットから分厚い封筒を取り出す。遠目に見ても1センチ以上あるであろうその厚さは、男の身勝手な行動が功を期したことを堂々と伝えてきた。

 いくら計画を乱されたといっても、結局成功は成功。自分の頰が軽くほころんでいるに気づくまでほんの少し時間がかかった。

「まぁ、成功に免じて今回は大目に見てやる。ただ次はきちんと私の指示通りに動けよ。こっちまで被害を被るのはごめんだ」

 男はヘラヘラと笑ったままだ。反省する気はもとよりないのだろう。何を言ったってこいつはまた命令を破って好き勝手やる。いうだけ無駄かもしれないが、だからと言って、言わないのも無駄だろう。やらない後悔より、やった結果の後悔の方がまだ清々しい。

 そんな私のプライドも、私自身を生に縛り付けている。今苦しまずに死ねないなら、その時までひたすらに生きてやる。もし苦痛のない終わりにたどり着けなかったとしても、その時はいま死ぬより、満足して死ねるだろう。

 死ぬために生きて、死ぬ。言葉にしてみると不自然極まりないが、これが私の唯一の生きる理由だ。

 少しの間、互いにビールを啜る音のみが公園に響き渡った。

 地面に座りっぱなしだった男がすっと立ち上がる。どうやら缶の中身がなくなったようで、空き缶を捨てる場所を探しているようだ。

 生憎、公園内にゴミ箱は設置されていなかった。男はチッと軽く舌打ちをすると、今いる場所と反対側にある密集した植え込みに目を向ける。

 腕を真上に大きく振りかぶり、空き缶をそちらの方に放り投げた。カラーンともクワーンと聴こえるくぐもった金属音が空気に伝わり、鼓膜をかすかに揺らした。

 缶は2、3度地面を軽やかに跳ね、植え込みの後ろに埋もれるようにすっぽりと隠れてしまった。昼間は青々と色づく植え込みも、夜の闇の中ではただの漆黒の塊と化しており、黒い何かが缶を捕食してしまったようにも見えた。

 ビール缶の姿が見えなくなってから、缶を放った本人はこちらに向き直った。もう一度地面にどさっとあぐらをかき、もう一つの本題を話すために、口を開いた。

「それで姉御、報酬の分配の件なんですけど」

「やっとか。いつまで待たせる気かと思ってたよ」

 男は軽く肩をすくめるような反応をすると、視線を手元の分厚い封筒に落とした。ビール缶を手放したことにより空いた手で、封筒に詰まっている紙束をパラパラとめくる。

「何回も聞いてますけど、本当に利益の1割でいいんですか、姉御」

「前から言ってるだろ。そんなたくさんあっても使い道がない。欲のあるお前に使われた方が、金も喜ぶだろうさ」

「なんか釈然としないっすよその言い方」

 渋い顔をしつつも札束をめくり終わった男は、全体の十分の一ほどの紙幣を左手で抜き出し地面から立ち上がった。残りが入った封筒をジーンズの前ポケットへと押し込み、サンダルを履いた筋肉質な足でこちらに近づいてくる。

 ベンチに座った私をちょうど見下ろせるような距離で男は静止した。そのまま持っていた十数枚の紙幣をこちらに向けてまっすぐ差し出してくる。

 特に何か感謝の言葉を口にするわけでもなく、私は手袋をはめた右手を金に手を伸ばした。仕事したのはお互い様だからお礼はいらない。金のやり取りのみで、互いを労う。それがお互いの暗黙の了解、習慣となっていた。

 この前までは。

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