第一話
『ご自身でお捨てになっても、我々に任せるのでも、どちらでも構いません』
「また面倒な返事……」
ぼそっと呟いてキーを叩く。
「分かりました。じゃあ記憶は消してもらえますか」
自分でも馬鹿げたことを言っていると分かってる。ただもしこれが遺産に困っているどこかの資産家だったりした場合だ。大金というのはほとんどの人間にとって羨まれるステータスになる。親族や信頼できる人間がおらず、突然どこかの知らない人間に賭けで渡してみたくなった、とかならまぁ確率は低いけどあり得ない話でもない。
しかしそれを貰ったら金銭面に困らなくなっただけで、自分自身は変わらないだろうと思った。
突然気持ちが大きくなって女性を引き連れたり、豪邸に住んで人を雇ったりなど想像つかない。家の中に知らない人がいる状況は落ち着かないだろうし、いくら金目当てだとしても自分に興味がない女性と共にいるのは辛いだろう。金があるから良いと割り切れるような性格ではない。でもそんなものは簡単に……意外とすぐ変わってしまうのかもしれない。
『記憶については正直リスクが大きいですが、方法が無いわけではありません。しかしそれをやってしまうと、世間を見返す気持ちが消えてしまいます。まず環境を変えてからご自身で判断してみて下さい。
では、ここまで付き合って頂いた貴方様へこのチャンスをお送り致します。身一つでよろしいので、一度直接会って頂けませんでしょうか。実際に見て頂ければ、すぐにご理解頂けると思います』
突然URLが送られてきた。それを押すと、どこかの喫茶店のHPだった。
『他に指定があればそちらに伺います。特になければ、こちらは如何でしょう。駅前から一本外れた道にある喫茶店なので、人の出入りはそれ程多くはありません。しかし駅から離れてはいませんので、何か身の危険を感じた場合もすぐに駅に戻ることができます。電車にお乗りになるのがお辛い場合も、ピーク時を越えれば席のほとんどが空く車両になりますので、人目につく機会も少ないでしょう。
もちろん全ての代金をこちらが立て替えさせて頂きます。それでも心配な場合は人を連れてきても構いません。しかし、喫茶店での内容を聞かせることは出来ません。それだけ承知の上でお願いします』
「随分細かいつーか……親切である程なんか怪しい」
どこかに詐欺らしい一文がないかと、抜けを探す。
「そこで大丈夫です。日時も昼からならいつでもいいです」
もしこれが嘘でも、誰かにからかわれたドッキリだとしても、この日を……そうだ、この日で終わりにしよう。
『ありがとうございます。ここまで付き合って頂き、なんとお礼を申していいか分かりません。では五日にお待ちしております』
「四日後か……」
ギリギリ食料が持つかどうかだ。あ、切符代も残しておかなきゃ。
それから四日間は不思議な気分で過ごした。ただただ掃除をしたり、本や漫画をもう一度見返してみたり。終わりだと思ったら嬉しいのか、辛いのか分からなくて情けなくなったり、寂しくなったりして静かに泣いたりした。でもどこかで期待して笑ってみたり、外を微笑ましい気持ちで眺めてみたりもした。
すっからかんになった部屋を見つめて鞄を持った。改めて見ると、よくこんな小さな部屋にずっと居たと思う。思っていたより虫が出なかったことは幸いだった。旧友と別れる感覚はよく分からないが、こんな感じなのかもと扉を閉める。
春先だったのでマスクをつけていてもさほど目立たなかった。いつの間に世界はこんなに暑くなっていたんだと、なるべく下を見て眩しい陽から逃れるように早足で向かった。
家が遠ざかっていく度に胸がスッとする。近所の人間はもういないだろう。ぼうっと窓の外を見つめて時間を潰した。たまに自分の姿が映っては目を逸らす。
一度乗り換えて、初めて降りる駅に着いた。確かに人の出入りが少ない。でも駅自体はしっかりしている。そんなに大きくはないがショッピングセンターもあるし、ここに逃げ込めば相手が詐欺師でもすぐに捕まるだろう。
人と会うのは嫌だったがこれで最後だと言い聞かせて、肩にかけた鞄のベルトを掴みながら歩く。例の喫茶店は呆気ないほどすぐに見つかってしまって、なんとなく一度前を通り過ぎる。昔からあるような喫茶店だ。こういう店は以前から興味はあったけど、なかなか行けなかった。
中を覗くとスーツを着た男が一人だけ座っていた。顔はこちらからだと見えない。多分あの人だと思って、まだ時間まで十五分以上はあるが、意を決して中に入った。
重い扉を開けると、チリンチリンと音が鳴った。そこでスーツの人が振り返る。すぐに目を逸らしてしまったから一瞬だったけど、端正な顔をしていることが分かった。なんだよイケメンかよと心の中で毒づいて、その近くまで寄った。
「すみません。もしかして疎々乃木様ですか?」
声まで聞き取りやすく美しい。もう逃げたい死にたいと思いながら、こくこく首を動かした。聞こえるかどうかぐらいの声量ではいと呟く。
「良かった……来ていただけるか不安だったので」
俺ちゃんと男って書いたよな? 詐欺るなら女をターゲットにした方がいいぞ。今ならゴミでさえ買ってしまいそうだ。
硬いソファー席の対面に座った。まだ何も注文していなかったみたいで、机には何も置かれてない。
「初めまして……。ええと、その説明がしにくいのですが」
男は曖昧ににこりと微笑むと、ファイルを並べ始めた。
「あ、先に注文しておきましょうか。なんでも構いませんよ」
メニューをこちらに渡し、今からオススメするだろう資料のまとめをしている。何も買わないぞと決め、アイスコーヒーでと小さく呟いた。注文一つ上手くできないなんて、あの店主も俺のこと多分学生か何かだと思ってるんだろうな。体も小さくてヒョロガリだし、服も何年前から変わってないから、中学生とか言われたっておかしくない。
「ではアイスコーヒーを二つで。……あの」
こちらを見てじっと止まった。もちろん目を逸らしているから視線を感じるだけだが。
「一応確認してもよろしいでしょうか。できればやりとりした画面など」
「……あっはい……あり、ます」
パソコンの画像を携帯に移したのものを見せる。たったこれだけで納得するほどの証拠になるとは思えないが……俺自身の雰囲気からこいつは死にそうな奴だというのが滲み出てて、それが一番の証明になっているのかもしれない。
「ありがとうございます。それから……その変なことをお聞きしますが、この顔についてどう思います?」
男は眼鏡を外して、微笑を交えながらこちらを見た。なんだこいつと逃げたくなったけど、蛇に睨まれた蛙状態だ。体が固まってしまった。
「どうって……まぁ、芸能人になればいいのに……って」
感じ? と頭の中で付け加えた。なかなかインパクトのある初対面だ。
「すみません変な質問をして。しかしこれを見て頂けなら分かりますよね。この顔は整形です。直接会って頂きたかったのはこういう理由で」
「……あっ」
なるほどと、また頭で付け加えた。
「私自身も被験者の一人なのです。今回こんなことをしてあのサイトで集めたかった人は……整形手術を受けてくれる人です」
ぱっと全てが繋がった。世間を見返したいだの、過去を捨てれるかだの。それは顔を変えても問題がない人、失敗しても良い人ということなのだろう。そうか、薬とかの実験体になる可能性を考えておけば良かった。
「あー……なるほど」
今度は口に出た。にこりと笑って、置かれたコーヒーをどうぞと勧めてくる。とりあえず今すぐ何か買えという訳ではなさそうだ。一口飲むと少し緊張が薄れた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます