水槽のなかの恋
「外ではびゅうびゅうと雪嵐が吹き荒れています。男は白く美しい顔をした嫁を見つめました。そして、その顔が、あの雪山での一夜で男の父親の命を奪った雪女と同じだったことに気づいたのです。
『その話を誰にもしてはならないと、約束したはず。私はもうここにはいられない。約束を破ったあなたの命を、奪わなければならない』
嫁は泣きそうな顔で言いました。その時、傍らで眠っていた赤子が目を覚まし、火がついたように泣き始めました。
『でも今あなたを殺せば、やや子の命もないでしょう。あなた、約束してください、この子をちゃんと育て上げると』
そういって嫁はすっと立ち上がりました。締め切っていたはずの戸がひとりでに開き、雪と風がどっと家に流れ込んできました。いろりの火が消え、部屋が真っ暗になり、赤子の泣き声だけが響きます。
『待ってくれ、は、話を、話をきいてくれっ』
男は叫びましたが、暗闇に目が慣れた頃には嫁の姿はどこにもありませんでしたとさ。
おしまい」
「もうおしまい?」
「ああ、そうだよ」
「なんだか可哀想」
「男がかい?それとも赤ちゃんが?」
「ううん、雪女。雪女は悪くないのに、男が約束を守らなかったのが悪いのに、好きな人とお別れしなきゃいけなかったんだ」
「そうかもしれないね、今日のところはお休み」
そう言うと、私は座っていた椅子から立ち上がって、傍らの子供の布団をなおした。そっと撫でた子供の額は小さくなめらかで、こんなに愛おしい存在が出来たことにいつも驚かされてしまう。短いおとぎ話にしっかりと感情移入する利発さを自慢に思ってしまうほどには、十分親馬鹿だ。
部屋の電気を消して、お休みと声をかけるとそっと部屋を出た。すぐにダイニングテーブルで一人お茶を飲んでいる妻の姿が目に入る。あのころと同じ、ほっそりとした美しい女性だ。この細身であの子を産んでくれたのかと思うと、感謝の気持ちがあふれてくる。
「今夜は読み聞かせに納得して寝てくれた?」
「ああ、雪女のことを可哀想とは言っていたけどね」
妻は少し顔を歪めて微笑んだ。あの子らしいわ、とつぶやいてお茶をすする。この前は桃太郎、その前はサルカニ合戦を読んだものの、気に入らなかったらしい。聡明で、利発で、愛しい我が子。
私は冷蔵庫から缶ビールを取り出すと、向かい合わせの席に着いてプルトップをあけた。香気を逃さない内に、そのまま口をつける。格別ののどごしと冷たさが、読み聞かせで乾いた私を満たしてくれた。
「寒くないの、外は雪よ」
妻は両手で温かい湯飲みを抱えるようにしている。
「大丈夫だよ、ビールはいつでも旨い」
缶を掲げるようにしておどけると、妻は肩をすくめて笑った。冷たいようで温かい、私の好きな笑顔だ。私のそばで笑ってもらうために、どんな犠牲でも払おうという気持ちになる。
「変わらないわね、あなたは。あなたと初めて会ったときも、確かビールを飲んでいたでしょう」
「男は単純なものさ、変わらないのがよいところだよ」
「あれは、札幌の高層ビルだったわよね。展望室のある」
私はわざと返事をしなかった。肯定とも否定ともとれるような形で、今度は私が肩をすくめた。この話は頻繁にしたくない。それでも妻は話を続けたがる。
「あの展望室にバーがあるなんて知らなかったわ。それに雪が下から上に降ることもあるなんて、想像もしなかった」
「高層ビルだからね。吹雪の時は風が当たると上に吹き上がるから、それにあおられるんだろう」
「なんて言うんだっけ。風花?」
厳密には違うが、私はまた曖昧な返事をした。展望室の大きなガラス窓は、下から吹き付ける雪で水玉模様になっていた。眼下に広がる夜景が、遠いおとぎ話のように現実感がなく、まるで自分は大きな水槽に泳ぐ魚だった。そこにコートを左手にかけて、ゆっくりと歩く彼女が現れる。真っ赤なスカートに黒いセーター。肌は白く、黒髪が輝き、引き込まれそうな瞳を持っていた。それまで自分が恋に落ちることのなかった私の胸は、氷の固まりを飲み込んだように重くなった。彼女を手に入れられなければ、死んでしまう。それは初めて感じるタイプの渇きだった。
「ねぇ、もう一回あそこに行ってみたいわ。思い出の場所じゃない」
「休みが取れたらね。でも自転車につきあわなきゃいけないんだ」
「旅行を計画するだけでしょう。もちろん自転車は乗れるように時間をとるけど。でもちょっと冬の間に一泊するくらい」
「まぁね、考えておくよ」
約束よ、と彼女は笑った。私の好きな笑顔だ。彼女が年をとって目尻にしわが増えたとしても、首もとの肌がたるんできても、体に余計な脂肪がついても、私は彼女を愛するだろう。彼女が最期に息を引き取る、まさにその一瞬まで。
「あなたはビールを飲んでたわ。あの展望室のバーで」
「おいおい、その話はもう・・・」
「フルートグラスに注がれたビールがきれいだった。窓の外に逆さまに降っている雪と同じ間隔で、泡が底から上っていくの。あなたは真っ黒いハイネックのセーターに黒いジーンズで、近寄りがたかった。すてきな赤いソファに座って、長い足を組んで。今みたいに美味しそうな顔もしないで。何かを邪魔されたみたいに、ふて腐れて。なのに私を見て、ぜんぜん違う顔になった」
「君に恋したからさ」
「私はそんなに美人じゃないわ」
「そんなことない、君は本当に美しいよ。それこそ出会ってから何年もたって、子供を産んだのに、僕は君の虜だ」
「口がうまいのね」
「君の顔も、この手も、そして心も、すべてが僕にとっては雪上の花だ。君の夫になれてどんなに幸せに感じているか、知らないはずないだろう」
彼女はふふふ、と笑って口づけを受けた手を引っ込めた。ビールで冷えた口づけだったのか、その手を反対の手でさすりながら彼女は急にぼんやりとした目になる。良くない表情だ。私の背中には緊張が走った。
「本当にあなたと出会ったのは、展望室が最初だったかしら。展望室に上ろうなんて、私思っていたかしら」
「君は札幌観光に来ていた、不思議はないよ」
「私、よく覚えていないのよ。確かあなたは黒いセーターを着ていた。あなたは不愉快そうだったわ」
「僕は友人と喧嘩別れして、気まぐれにあそこにいただけだ」
「喧嘩?喧嘩したの?どこで・・・公園で?」
彼女のぼんやりとした目に恐怖の影がちらついたとき、私は立ち上がって彼女の体を抱きしめた。彼女の頭を自分の胸に押し当て、頭のてっぺんに口づける。そして小さく息をふきかけた。
妻の体を、風花が舞う。
「友人と喧嘩したのは、近くの居酒屋さ。蟹なんか食べ飽きたのに、せっかくの北海道なんだからとしつこくてね。友人には、ちゃんと後日謝って、今でも交流があるよ。僕は君のことが忘れられなくて、旅行から戻ってから君に会いにいったじゃないか。君は最初僕を思い出せなかっただろう。旅行先でナンパしてきた奴のことなんか」
妻の体から力が抜けてきたことを感じると、私は腕の力を抜いた。彼女目をのぞき込むと、もうそこには安心しきった眼差ししか残っていなかった。
「そうね、そうだった。だって、ナンパだもの。不機嫌そうにしていたのに、私を見て駆け寄ってきて、よかったら一杯おごりますよなんて。断ったらせめて名刺だけでも貰ってくださいなんて。びっくりしたんだから」
「でもそうしなきゃ、一緒に一杯飲むくらいは信用できそうかなんて、考えてもくれなかったろう」
私は妻を抱き上げると、寝室に向かって歩き出した。彼女は眠たげに私の首に腕をかけてきた。
「私、とても幸せよ。あなたと結婚できて、本当に幸せ。ナンパしてくれて、ありがとう」
「こちらこそ、ありがとう。そうじゃなきゃ、君を見つけられなかった」
寝室のドアを足であけると、優しくベッドに妻をおろした。すでに彼女は小さな寝息をたてて、眠りに落ちている。その額に口づけすると、私は静かに寝室から廊下にでた。
ビールを飲み干し、缶をゆすいで潰して、分別ゴミに入れた。妻の飲んでいた湯呑みも軽く洗って、水切り籠に伏せる。洗面所で歯を磨き、部屋の明かりを消していく。リビングの明かりを消すと、外は細かい雪が降り続いているのかいつもより明るい感じがする。
あの日もこんな雪が降っていた。
私はわざわざ札幌の公園まで行って、毎年恒例の楽しみにふけっていた。酔っぱらいのホームレスなど、雪の日にうっかり死んでしまっても不思議に思われないような人間の魂を食べるために。人間の魂は甘美で、ほろ苦く、他のどんな食べ物や飲み物に比較ができないくらい味わいが奥深い。それを楽しんでいた私は、ふと自分が見られていることに気づいた。
彼女だった。
私はすぐに彼女を捕まえ、息を吹きかけた。そしてぐったりした彼女からアルコールの香りがしないことを確認すると、軽く舌打ちした。彼女がここで死ぬのは不自然だろう。巡り巡ってこの狩り場がなくなることを考えると、魂の一つくらい我慢するべきと判断した。ちらりと見上げた空にあの高層ビルの展望室が見えた。彼女に暗示をかけて展望室につれていくのは、赤子の手をひねるよりも簡単だった。そして彼女を窓のところに連れて行くと、自分はバーのソファーに陣取り、とらえ損ねた魂の代わりに泡立つほろ苦い金色の飲み物を注文した。そしてそれを飲み始めた私は、視線をあげた先に彼女をもう一度発見することになった。
外では暗くてよく見えなかった彼女の姿は、くっきりと美しかった。そこで私は彼女の魂を食べなかったことを後悔するのではなく、自分が雪女の眷属であることを隠しながらどう彼女を手に入れるかを考えていることに心底驚いた。頭に浮かぶ危険やリスクを考えてあきらめようとしても、自分の視界から彼女が消えることが耐え難かった。
私は可哀想な雪女とは違う。この幸せを逃がすような馬鹿ではない。そのためにどんな犠牲もはらう。たとえそれが、彼女をだまし続けることを意味していようとも。
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