明晰夢ジュエリーボックス
木原 美奈香
小さな手
小さな手
通い慣れた家路の、中程にある階段を見下ろして、私たちは少し立ち止まった。湿ったなま暖かい空気を切り裂くように、少しだけ涼しい風が吹き上げてくる。
その風を確認してから階段を下りようとすると、繋いだ小さい手がそれをとどめた。昨日まで駆け下りるようにぽちゃぽちゃとした短い足を精一杯運んでいたのに、同じ足が地面にぴったりくっついて、全身で歩くのを拒否している。
「どうしたの、帰ろうよ」
「やだ、嫌なの」
幼子特有の甲高い声で、嫌だ嫌だと首を振る。
もう少し遊んでいたいの?お気に入りのダンゴムシかな?チョウチョみつけた?
そうじゃない、そうじゃないの、嫌なのと首を振り続ける。またかと思って短く息を吐くものの、気を取り直して理由を聞いてみることにする。そうでなければ埒があかないことを、大人はよく知っている。
「ママにはわからないよ、何が嫌なの?教えてよ」
そう言われて初めて、幼子は頭上を指さした。
「あれ、あれよ」
その動作に合わせるように、
かなかなかなかな。
鉄琴のような、木琴のような、文字にすれば「かなかな」としか表現しようのない不思議な響きに耳が満たされる。
それを引き立てるように、しゃわしゃわと軽い音も聞こえる。たまにつんざくようなゼンマイ音。さながら蝉たちのセッションだ。
「怖いの、あれ怖い」
私の右手を握る小さな左手に力が入り、汗ばんだ皮膚がぬるりと滑った。
逃がさないように慌てて握り直す。子供の動きは先が読めない。それに追い打ちをかけるようにミンミン蝉ががなりだす。
蝉の声が怖いの。音が大きくて、怖いの。
そして小さな足は急に地面を蹴りだした。あわてて小さい手を離さないように、追い越さず、置いてかれない距離をとって階段を駆け下りる。怖いと言っていたのに、案外勇気があるんだなと感心しながら。
まってまって、落ち着いて下りようよ。
でも、幼子は怖いのといって速度をゆるめない。このまま急いで帰ってしまおうと、大人は胸の内で計算する。
「そうだね、怖いね」
「怖いの、嫌なの」
「逃げよう、逃げよう」
そう言いながら、家路を急ぐ。
小高い丘を結ぶ階段は長く、両側をアーチ状にみっしりと木々が覆っている。両側だけでなく、頭の上からも蝉の声が迫ってくる。歩いても歩いても、下りても下りても、まだ蝉の声はやまない。それを幼子は怖いと言うのだ。その気持ちがなんとなく分かるものの、可愛らしいなと口元がゆるんだ。そしてつい、
「でもねぇ、セミは怖くないのよ」
と言ってしまった。言ってしまってから、ちょっとしまったと思う。さっきの言葉と矛盾するではないか。
大人の言葉に急に足を止めた幼子は、大人の顔をまじまじと見上げる。言った手前、言葉をひっくり返すわけにはいかない。幼子を前に、もっともらしい顔をする。
「本当だよ、怖くない」
大丈夫と励ましながら、立ち止まった小さな手を引く。するととんとんと小気味よい音を立てて、また階段を下り始めた。
「セミ怖くないの、本当に?」
「怖くないよ、だってかじらないもの」
蝉の声にはもう夏の暑さや秋の訪れしか感じなくなった大人は、そう諭す。実際蝉がこちらに向かってきたら怖いはずだから、嘘になってしまうだろう。大人は近づかないのが上手くなっただけだ。だから大人の理論で大人の面子をなんとか納得させようとする。幼子は半信半疑だ。
大人をかじらないだけで、自分をかじらない保証はないではないか。大人が言うことを鵜呑みにしていいものか。
そんなことが頭をぐるぐる巡っていたのだろう、次の瞬間幼子は思い切ったことをした。
「僕をかじっちゃだめだよ、セミ」
そう大声で蝉に語りかける。そんなことをしても蝉が泣きやむことはないのに。
「ママはセミ、怖くないの?」
「怖くないよ、大丈夫」
そう言って、自分がまだいたいけな少女だったころを思い出す。
おなかに大きな虫を飼っていた。
怖いことがあると、その大きな虫がざわざわと蠢いて、気持ち悪くなったり、突然泣き叫んだりした。
さわやかな朝の通学路で、街路樹についた抜け殻をみないように急いだではないか。昔母が育てていたペチュニアに、びっしりとアブラムシが付いているのを見つけた時、ぎゃっと叫んで家族を驚かせたではないか。留守番中に蜘蛛が出たといって、当時は珍しかった職業婦人の母の会社に電話して、呼び出してもらったではないか。ぶるぶると震えて、泣いたではないか。
母は泣いている私を抱き締め、痛いくらい力をこめて擦りながらよく言った。
「泣き虫、毛虫、はさんで捨てよう。あなたはもっと勇敢になれる。平気平気、無視なんて怖くない。それよりももっともっと大切なものがたくさんあるし、美しいものがたくさんあるのよ」
アブラムシ、テントウムシ、カメムシ、ダンゴムシ。ミミズ、アリ、蜘蛛、バッタ、蛾、蜂、虻、蝿、蚊そして蝉。
どれも昔はいやだった。嫌いだったし、怖かった。怖くて泣いた。泣いたら誰かが助けてくれると知っていた。その人の大切なものを諦めさせて、自分を助けに来てもらうのが当たり前になっていた。私のために退治してよ、、、それが普通だと思っていた。
でも今では怖がってばかりではいられなくなった。愛を知ったから。誰かを愛し、守りたいと感じることの喜びを知ってしまったから。泣いている暇もなくなった。泣き虫を飼う余裕がないのだ。自分が守らなければ、大切なものが失われてしまうことを知ってしまったから。
「ママ、つよぉいね」
「そうだねぇ、ママ強くなったね」
それは嘘偽りのない正直な言葉だった。強くしてもらったのだ、この小さな手に。
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