親方の昔話 赤毛の話
俺はこの刺繍工房の長女として生まれた。両親とも寡黙だったが大らかな人間でな、裕福ではないにしろ、さほど不自由を感じることなく育ててもらったよ。俺には幼なじみが何人もいたが、皆刺繍工房で働く大人の子供たちだったんで、兄弟のように育ったものだ。幼なじみは男の子ばかりで、女の子は俺ともう一人しかいなかった。遊びと言っちゃ虫取り、魚釣り、木工の真似事、それにやっぱり刺繍だった。親たちは全員がまとまって遊んでいると安心して仕事ができるからと、いつも仲間外れができないように、遅れる子がいないように気をつけろと、年長の子に口を酸っぱくしていたっけな。
幼なじみの女の子は、名をニコルといった。ニコルは年下で、俺の周りをちょこちょこついてくるのが可愛かった。かわいらしい上向きの鼻のまわりにそばかすが散っていて、目はぱっちりしていた。小川のほとりに咲くスミレみたいな瞳だったな。優しい子だった。俺たちは全員でニコルを大事にしていたし、ニコルも俺たちに懐いていたよ。だがニコルは身体が強くなかった。
よく熱を出すんで、他の奴らは皆揃っているのに、ニコルだけは寝台でぐったりしていることがよくあった。全員で遊べと言われていても、ニコルがいないんじゃちょっと気が引ける。そんなわけで、子供ながらの罪悪感を減らす為、ニコルが目を覚ました時に見えるように、窓際に飾る花を摘みに行くのは恒例だった。他のグループの子供たちからは「男が花を摘むなんて!」って馬鹿にされたな。花がなきゃ、刺繍や木彫りのおもちゃを持って行こうと、自然俺たちは手仕事に親しんでいったよ。
ニコルが十五歳になっても、身体の弱さは変わらなかった。熱を出すのも心配だったが、俺たちが心配していたのは身体が同い年の子供と比較してもちっこかったことだ。大人たちも、子供には聞かせないようにしながら、こそこそと相談していたよ。治療士に見せても、特にどこが悪い訳じゃないって。ただ身体全体の、生きようとする力が少ないって。
それでもなんとかニコルは十五歳になった。そしてかなり遅れた初潮が、つまり生理がきた。
最初はお祝いムードだったんだ。ここまでよく死なずに、大きく育ってくれたって。身体が子供を妊めるくらいに成長した証拠だって。でもそんな明るい雰囲気はすぐにしぼんだ。ニコルの調子がおかしかったからだ。俺たちはニコルが死ぬんじゃないかって思った。初めての生理で動揺しているだけだって、大人たちは言っていたけど。顔から血の気が引いて、暑くもないのに脂汗をだらだらと流して。痛みが強すぎて声も出せない様子だった。ニコルは終わった後、俺に聞くんだ。「姉さんは、毎月これを我慢しているの?」ってな。
俺はニコルよりもだいぶ前に初潮は済ませていたけど、ニコルに比べれば軽かった。ニコルが異常だってことは、はっきりと分かった。でも俺にはどうすることもできない。ニコルは次第に生理がくるのをひどく怖がるようになった。そして四回目の生理で生死の淵をさまよった。
治療士だけじゃなくて、産婆も呼ばれたよ、あのときは。俺たちは全員刺繍工房の隅に纏められて、外出しないように言われていたからよく覚えている。大人の手をわずらわせないように、皆ニコルにつきっきりになるために。俺たちは自分たちが何にもできないことが悔しかった。あれだけ摘んでいった花も、木彫りのおもちゃも全部無駄だった。
俺の他にもニコルが死んじまうって声を殺して泣き出す子が多かった。年長の子供はそうなると、全然泣けなくなってしまう。俺も例外じゃなかった。泣いている場合じゃなくて、大人たちの手を煩わせないように、面倒を起こさないように皆を落ち着かせるのでいっぱいだった。そして俺たちは工房の床に直接座り込んで、毛布にくるまって眠った。
ぐっすり眠ったな、と思ったんだその時。目をさますと工房じゃなかった。見渡す限り草原で、空が高かった。うっすら雲がたなびいて、青い空に所々風の悪戯書きがあった。山羊の歯の稜線がくっきりときれいでさ、いつか俺もこんなにぱきっとした刺繍を描きたいと思ったね。
でもこんな草原見たことないんで、ふっと不安になった。これは夢なのかな。夢ならなんとも気持ちがいいはずだが、心の端っこがぶるぶると震え出す感覚で落ち着かなかった。そして見渡すさきに誰かが並んで座っているのを見つけた。俺は安心して声を上げながら、座っている人物に近付いていった。それは俺と一緒に工房で眠り込んでいるはずの幼なじみたちだった。全員が釣り竿をもって、足下の細い川の流れに糸を垂らしている。幼なじみの男子達にしては、静かでなぜか青白い顔をしていた。ニコルがやばいからだろうな、と勝手に納得していたけど、後になってそうじゃないってことが分かったよ。端っこにいる奴が原因だった。というのも奴の頭には立派な角が二本生えていたんだ。。
そいつは正直、絵本や寓話の中で語られるほど、恐ろしい感じではなかった。大人達から聞かされるその姿はだいたい大の男よりも大きくて、その姿を見ただけで、己の矮小さ、つまり自分が小さいことをイヤでも見せつけられるはずだった。ギラギラとひかる瞳は、山羊の目のようで、足は崖を登る太い山羊の足そのものだ。その固い蹄が岩を砕いても不思議はないほど、美しくて恐ろしいものだと。でも目の前にいるのは、なんだか可愛らしいと言った方がしっくりくる姿だった。ふさふさとした黒い巻き毛にぶっとい山羊の角が二本生えていて、一本にはきれいなひもが巻かれている。上半身は人間そのものだった。体つきは隣に座る年長の少年より少し小さい気がした。肩の位置が低かったんだ。寓話では立派な彫刻みたいな筋肉で覆われているはずだったけど、そんなことはなかった。体の線は少しふっくらとして、子供らしい愛らしさすらあった。
そんなやつが、さも自分も仲間の一人だとでも言わんばかりに、並んで一緒に小川に腰掛けて釣り糸を垂れている。俺は声が出なかった。しかしその場を立ち去ることもできなかった。奴が目線を上げて、俺に気づいて声をかけたからだ。
「やあ、エブリン。遅かったじゃないか。早くこっちにおいでよ」
奴はそれまで釣り糸の先を見ていたのに、こちらに視線を上げた。俺の喉はカラカラになって、まばたきもできない癖に、ゆっくりと足だけが進んでいってしまう。細い小川だったから軽く飛び越えると、いつもやるように奴の隣に腰を下ろした。そこでようやく、喉につっかかった固まりを飲み下すことができたよ。
「エブリン、大変だね」
「な、なにが?」
声が裏返っても誰も笑わない。どうやって笑えばいいのか、分からなかったんだろう。あまりにも隣に座る存在が、畏れ多くて。
「ニコルのことさ。大変だろう。あの子は今すごく苦しんでいる。痛いのに、声もでない。なかなかこの地では珍しいことだから、どうやって治せばいいのか、大人達も分からない」
「な、なんだよ、それ?!」
俺は叫んだね。怖くて、さっきまで声がでなかったのに、いきなりニコルの話をされて興奮したからか、自分でもびっくりするような大きさの声がでてしまった。
「聞いての通りだよ。珍しいんだ、ニコルみたいな苦しみは。生理がひどい女って、この地にはあまり生まれてこないんだよ。水神様の祝福・・・いや、呪いのせいでさ」
俺にはさっぱり意味が分からなかった。なぜ水神が出てくるのか?なぜその呪いとやらのせいで女達の生理がひどくなくなるのか。
「なんだよ、それ。どういうこと。どうすれば珍しくなくなるの」
「エブリン、すごい顔しているよ。ほら見てごらん」
ははっと明るい笑い声を上げてから、それは俺の袖を引っ張った。足をつけている小川には、確かに見たことのないくらい険しい顔をした俺の顔が映っていた。
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