取引 もじゃもじゃの話
頭を深々と下げたゴッチェは重たい沈黙に不安を覚えた。自分の出た勝負の結果がすぐに分かるほど、自分はまだ大人ではない。薪の爆ぜる乾いた音だけが夜の森に響いている。ゴッチェは恐る恐る顔を上げて男をみた。焚き火の揺れる光に照らされて、男の表情は読みにくかった。値踏みするようにゴッチェを見る視線には、移動し始めてからずっと感じていた子供への嫌悪感が見え隠れしている。
「お前は自分のしたことでも無いのに、そう易々と謝るのか?プライドはないのか小僧」
男の言葉は厳しかった。でもそれは想像していたことだ。
「プライドってなんだ?」
「物知らずが。誇りだよ。お前は触ってないだろう」
「ああ、確かに俺はあんたの荷物に触ってない。でも、そいつらを止めなかったのも俺だから。あんたはこの森に置き去りにするとなったら、そいつらだけじゃなくて、俺も置いていくでしょう。それなら俺は無関係じゃない」
「へぇ、殊勝なことだ。この中にはお前の荷物を盗んでどこかにやってしまった奴もいるのにな。自分だけでなく、その誰かのこともかばうのか?」
「その誰かは問題じゃない。あんたの言った通り、俺が荷物をちゃんと気をつけておけば良かった。もう二度と荷物をそのままにはしないよ。俺はあんたに隣町まで連れて行ってもらえるなら、その誰か分からない盗人のことなどは気にしない。まず自分が安全に隣町にいけるかどうかだ」
「俺がいなくても、この人数だ。なんとかなるだろう」
男は次々と言葉を畳みかけてくる。昼間ほとんど口をきかなかったのが嘘のようだ。もともとこっちの方が素顔なのかもしれない。男の薄い唇にはうっすらと笑みが浮かんでいた。ゴッチェはのどが詰まっていくように感じた。これは緊張のせいだろうか、それともこんなにいっぺんに喋るのは滅多にないからだろうか。どちらにせよゴッチェはこの議論に負けるつもりはない。どうしても男について行って森を抜け、隣町に行くのだ。この男が自分の人生の出発点であることを、ゴッチェはよく分かっていた。
「なんとかならない。俺だって馬鹿じゃない。あんたでなけりゃ、この森で道が分からない。獣が出ても、俺たちは簡単に喰い散らかされるだけだ。お願いです。今は出て行かないで。朝になってから、一緒にここを発ちましょう」
最後はトスカの口調を思い出しながら、馴れない言葉遣いで話すことはたいそう骨が折れた。しかもこの緊張下では特に。舌を噛みそうになりながら必死で男から目を逸らさずに話すと、男の目にはさっきとは違った感情が交じるのを感じた。先ほどから面白がっているのは確かだが。
「しかしなぁ、こんな奴らと一緒じゃ、俺は一睡もできない。隙あれば俺の荷物は盗まれかねないんだろう?俺は先導もしなければいけないのに。そんな苦行を自分から買うほど俺は・・・」
「じゃあ、俺が一晩ずっと見張ってるっ」
ゴッチェは男が自分の言葉を言い終わる前に叫んだ。自分でも思った以上に大きな声だったのか、一瞬夜の森に潜む小動物の音が止んだ。そのさやけき音が戻ると、男はゆっくりと口を開いた。
「言ったな、少年。お前なかなか骨があるな。いいだろう、取引だ」
男が自分の顎に手をやり、手袋が無精ひげをこする音がかすかに聞こえた。男は自分が言おうとしている事を吟味しているようだった。
「お前が一晩絶対に眠らずに見張ることができれば、明日お前達全員を無事に町まで届けてやる。それを違えたら、分かった時点でお前達をここに置き去りにする。後は好きにしろよ、お前達の勝手だ」
ゴッチェは男の気が変わらない内に急いで首を縦に振った。その姿を見て暗がりでもはっきり分かるようににやにやと笑う男はしかし、周囲に立ち尽くしている少年たち全員の頭に拳骨を食らわせた。彼らは大きな口を開けてゴッチェを呆けた顔で見ていたのだ。
「お前等はもう少し口のきき方を勉強しろ。子供のしたことだから許せだ?」
男はそれよりも一層声を低くして付け加えた。
「そんな理屈がまかり通るわけがねぇだろう。いい加減気づけよ、愚図が」
拳骨を食らった少年たちは一様に頭を押さえていたものの、全員泣きべそをこらえた。ゴッチェが今まさに勝ち取ったらしき成果を、自分の泣き声で台無しにするわけにはいかない。それはもちろん自分の命も等しくかかっているからだ。それを全く考えずに口を開いたのは、このやり取りに一人だけ納得いかない人物。ヘイリーだった。
「なんだよそれ。どういうことだよ。俺は信用ならなくて、殴られてるのに、なんでこいつが一晩見張ってたら許すんだよ。おかしいだろぉっ」
ヘイリーは両足を踏ん張り、両手を握りしめて叫んだ。
男はまたじょりじょりと顎をこすり、少年たちはヘイリーの口を押さえ込もうと彼の周りに走り寄った。ヘイリーはそれを近づけまいと全身で抵抗し、まぐれに当たった握り拳で少年たちを振り払った。ゴッチェは自分がもう一度その場を収集しなければと一歩踏みだそうとした。
そのとき男がどんな動きをしたのかをゴッチェには確認することができなかった。注目していなかったとか、予想もつかなかったというのは、理由に足りない。単純に男の動きは速すぎて、見えなかったのだ。それはまるで細くて長い本物の蛇が急に少年たちを纏めて襲ったようだった。全員が急な攻撃に耐えきれず、足がもつれあって地面に突っ伏すことになった。その間も蛇はぎちぎちと身体を締め付けて、緩むことはない。少年たちは自分たちに起こっていることが理解できずに、言葉にならない叫びをあわあわと繰り返した。真ん中でヘイリーはなんと、失神している。ゴッチェは血の気が落ちた頭を必死で働かせ、なんとかしなければと考えた。そしてまずは蛇の頭を捕まえようと必死で探したが、見つけることができない。なぜならそれは蛇でさえなかったからだ。
先端には鋭い毒牙もは虫類の黄色い瞳もない、動物の皮を引き裂いてできた房状の錘がついている。その尾は長々と続き、男の手元の柄につながっている。男が鞭をふるって少年たちを縛り上げたのだと理解した途端、ゴッチェはたくさんの空気が胸に入りこみ、咽せた。安堵とはこんなに強い感情なのだと彼はその時まで知らなかったのだ。
うずくまって荒い呼吸をするゴッチェをよそに、男は鞭で縛り上げた少年たちをしげしげと観察していた。
少年たちはまだ涙と恐怖で顔をぐちゃぐちゃにしている。誰かが漏らしたのだろう、つんと鼻をつく臭いがして、男は顔をしかめた。
「だから俺は子供が嫌いなんだ。生意気を言ったと思えば、ぴいぴい泣く。いいか、俺は泣く子供が嫌いだ。まずは泣きやめ、そしたら話をしてやる。」
男が「話をしてやる」というのは、修道女たちが子供たちを寝かせる前に「話をしてやる」のとは、同じ言葉でも訳が違う。少年たちは恐怖を飲み込んだ。それを見て男も怒りを収めたようだった。
「よし、いいだろう。俺は泣いている子供が嫌いだ。それから文句ばっかり言う子供が嫌いだ。お前等の真ん中の奴、そいつは本気で気に入らない。明日の朝になったら、この森を抜けて隣町に連れて行ってやるが条件がある。一つはそこの、もじゃもじゃ頭が一晩俺のために目を開けていることだ」
少年たちは縛られたままゴッチェを見やった。それは先ほどゴッチェ自身が交わした取引なのだから、異存はない。ゴッチェも少年たちもうなづいた。
「そしてもう一つ条件がある。俺が真ん中の奴にすることを黙って見ておけ。そして邪魔するな」
「そ、それって、な、な何をするの・・・」
「お前に関係あるか?その内容を知ったところで、お前がこの森を抜けるには、俺の条件に従う以外にないだろう」
ゴッチェは少年たち全員の視線を感じた。全員がどうすればいいのか、分からずにいるのだ。そしてこれまで修道院で散々馬鹿にしてきたゴッチェの判断を頼っている。ゴッチェはあまり働かない状態の頭を慎重に縦にふった。今は男の言うことを聞くしかない。
「よし、これからこの鞭をゆるめるからな、真ん中の奴をしっかり全員で押さえ込め。いくぞっ」
男の合図で鞭がはずれると、少年たちはヘイリーを地面に押さえつけた。と言ってもヘイリーは失神していたので、そんなに大変な仕事ではなかったが。男は鞭をしまって外套の下に隠すと、同じ手には縄が握られていた。その縄で器用に、手際よくヘイリーの後ろ手に回された手を縛っていく。それが終わると口に猿ぐつわも噛ませた。
「よし、お前達も離れて良いぞ。こいつは朝になってもこのままだ。ともかくこのまま森を抜けさせるからな、誰も縄をはずすんじゃないぞ」
男は近所のおばさんが話すような気軽な口調で言い放ち、ついでに大きく顔をしかめた。
「っくっさいな、小便漏らしたのはこいつか」
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