修道院のトスカ婆 もじゃもじゃの話

 修道院の問題が顕在化したのはゴッチェが十三歳の時だった。

 修道女たちをまとめていた古参の修道女トスカが亡くなったのだ。トスカは元は貴族の出身だったらしい。どういった経緯で修道院に入り、生涯を終える決意をしたのかは分からないが、ゴッチェはいつもにこにことしている白髪の腰の曲がった老婆が好きだった。だのに一粒も涙はこぼれでなかった。ゴッチェを除く全員が悲嘆に暮れ、涙に溺れていたというのに。

 そしてゴッチェが予想していた通り、修道院は解体され、修道女たちも子供達も全員がバラバラになることとなった。

「なんでなんだよっ!何でこんなことにっ!」

 ヘイリーを含めた年かさの男子は全員が憤っていた。ヘイリーはこんな時でも芝居がかった仕草で食堂の椅子を蹴った。ほかの子供達も拳を握ってテーブルをたたいたりしている。それまで贅沢ではないがぬくぬくと、今日の寝床と明日の食事を心配せずに生活してきた孤児たちにとって、修道院から追い出されるということはまさに青天の霹靂だった。

「俺はどこにも行きたくねぇ」

「俺だって・・・」

「なんでトスカ婆ちゃん死んじゃうんだよ~」

 憤りの中に不安が混じる者、悲嘆が混じる者、更に憤りを深める者と反応は様々だ。それをゴッチェは冷静に観察し、胸の内で悪態をついた。

 トスカが死んで、修道院が解体されるのは、当然のことだった。

 なぜならトスカはずっとこの孤児たちを養うための金策のため、奔走していた張本人だからだ。

 修道院の収入は主に周辺住人からの寄付金で成り立っている。しかし子供を捨てるほど生活に困った人間が、寄付をよこすはずはなく、修道院は常に赤字だった。

 トスカは自分の私財といえる物はとっくの昔にすべて売ってお金に換えていた。そして寄付金はなくとも、自分たちで畑を耕し、できるだけ食べる物を調達しようとした。

 それでもとうとう修道院の建つ地代を払えず、ずいぶんと滞納してきていたのだ。子供たちを大勢養うには食費がかさむ。地代が払えなければ、そこに住むことはできない。そしてそれをきちんと理解しているのは、トスカと自分だけだろうという自覚もあった。ほかの修道女たちは、難しいことをトスカに押しつけてその日その日の暮らしを送るのが精一杯だった。と言うよりも、そういう人間が、世間では物知らずだの知恵遅れだの、ねじが一本抜けているだの言われるような人間が身を寄せるのが修道院なのだから、当たり前だ。トスカも老いた身体で年下の修道女達に難しいお金の話を聞き入れてもらえないことに、閉口していた節はあった。それは他の孤児たちも同じこと。

 だからゴッチェは静かに、足音一つ出さずに、修道院から抜け出した。


 ゴッチェはそれこそ、修道女や孤児たちから知恵遅れだと思われていたことから、子供達とは馴れ合えなかった。それを補うように修道女達と話すことが多かった。すると自然と手伝いを頼まれる。手伝い、と言えるほど簡単なものから、一日が潰れてしまうほどの大変な仕事もあったが。

 彼は愛想はないものの、黙々と仕事をするタイプだったから、なおさら頼みやすかったのだろう。修道院中の部屋の掃除を頼まれたこともある。それにはもちろんトスカの部屋も含まれていた。

 トスカはゴッチェの知る限り、一番年寄りで疲れやすかった。だっから部屋をのぞくと大抵見つけることができた。あまり主張するタイプではないが、貴族の出身らしいゆったりとした物腰で、がさつなところがない。元気のよさでは子供達に負けてしまい、あまり子供達に接する機会は多くなかったが、それでも子供に対して温かい眼差しをもっていた。

「ゴッチェ、掃除かい?また手伝いを頼まれたんだね」

 トスカは優しいが細い声で聞いてくる。

「お前もたまには断っていいんだよ。子供のうちは遊ぶのも大事だ。ほかの子達よりも仕事を丁寧にやるからって、お前ばかり働かされるのも割にあわないだろう」

「別に。遊びたきゃ、遊ぶさ」

 ゴッチェも、そのころはぼそぼそと話すのが常だった。それを聞く度にトスカは哀れむような目を向けた。

「ゴッチェ、可哀想に。あたしはあんたが馬鹿だとは思っていないよ。ただその賢いおつむに入っている言葉を引き出す力が、目覚めていないだけさね。だから・・・」

 トスカはバケツに入った汚れた水に人差し指を浸した。そしてこれから拭くはずの床に、その指で文字を書き始めた。

「だからお前に言葉を教えてみたいんだよ。私にできるのはそのくらいだからね」

 床には何個か文字がつながっていた。ゴッチェは自分でも同じように指を濡らして書いてみた。何度も、何度もかくと、トスカは書き方を細かく直してくれた。

「それで、これってなんて読むの?」

「ゴッチェ。お前の名前だよ、ゴッチェ。できたじゃないか、自分の名前を書けた。お前は知恵遅れなんかじゃないよ。ここで私のほかに自分の名前を書けるのは、お前だけなんだから」

 トスカはか細い腕でゴッチェの体を抱き寄せた。やせた胸からは乾いた薬草のにおいがした。

 そうしてトスカはゴッチェに言葉や簡単な計算を教えていった。修道院にお金が無いことは、トスカが見せてくれた地代の督促状で知ることができた。言葉の練習のために、修道院が置かれている立場がまずいことを知ることがどんなに皮肉か、トスカは深く考えていないようだった。だからゴッチェはだからトスカのやり様にケチをつけようとは思わなかった。そんなことをしても、意味がないことをよく知っていたから。トスカに残された時間は、蝋燭の火がじりじりとその身を削っていくように少なくなっていった。

 そして今日、トスカが逝った。ゴッチェに文字を教えてくれた手は、もう冷たくなって動かない。地代の滞納に悩み苛まれた胸はもう上下せず。孤児達に等しく注がれた優しい眼差しは瞼に覆われたままだ。ゴッチェは修道院の裏口を出ると、草むらにしゃがみ込んだ。どのくらいそうしていただろうか。ゴッチェは辺りが夕暮れの冷気に包まれて初めて、自分の頬が濡れているのに気づいた。



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