赤毛の思うところ

 王都ナスタから離れること、千リーグ、馬を全速力で走らせても二十回は朝陽を拝める。実際には高度のある山間を抜けていくのだから、全速力とは行かないはずだ。浅はかな判断は馬の脚を折ってしまいかねない。そうなればたどり着くどころか、道半ばで文字通り路頭に迷うことになる。一方で、地道に一歩一歩、足を進める者には難しい道のりではない。途中に迷いやすい脇道が多いわけでもなく、怪しの森が隣接する訳でもない。多少は盗賊や追い剥ぎに備える必要はあっても、それはどこの街道も同じこと。そんな旅程をこなして、ようやくその姿を拝むことができる。そんな場所にスラプーはある。春には美しい花が咲き乱れ、夏には小川のせせらぎに銀色の鱗をもったたくさんの恵みを見ることができる。秋はそれこそ耕した畑の実りや果実を収穫し、山中で穫れる動植物で様々な保存食作りにいそしむ。

 そしてそれらの季節を圧倒するがごとく、長い冬が覆い被さってくるのだ。スラプーの雪は深く、人々はできるだけ家に閉じこもることになる。その間にせっせと手を動かしては織物や彫刻、家具作りに手先の器用さを遺憾なく発揮する。そして巡ってくる春を待ち望むのだ。それが模範的なスラプー人のあり方。

「そんなもの、クソ食らえだ」

 アマディはつぶやいた。

 そのつぶやきはアマディの心のとげを更に鋭くするだけで、何の発散にもならなかった。体中を熱いなにか血潮のようなものが巡るものの、アマディに与えられたのは、暖かいが埃っぽい部屋の中で、小さな椅子に腰掛け、背中を丸めて行う仕事だ。手に持った銀色の針に糸を通し、布地に模様を描いていく。目の前の細かな刺繍に向かうことだけが今彼に許された唯一の仕事だった。しかしそれもほとほと飽きてきた。

 アマディは手に持った黒い布地に細かく刺繍を施すよう、親方に指示されたのだ。黒い布は刺繍が終わった後裁断され、寡婦の胸当て部分に使われることになる。だからこそ、刺繍の意匠は楽しいもの、アマディの好きな花や動物達ではだめなのだ。残りの人生を寡婦として過ごすことを明言するための胸当てなのだから、単純でわかりやすい、つまるところアマディには何の面白味もない幾何学模様でなければならなかった。

「せめて他の色があればまだましなのに」

 ぶつぶつとつぶやくアマディの背中に、エンビコ親方の怒声が飛ぶ。

「お前なんかにゃ、その色以外渡せん。もっと腕を上げるか、もっとまじめに仕事に取り組むんだな」

 渡された刺繍糸は漂白されていない、くすんだ白。それでも黒地には刺繍跡が輝いて見える。親方のやることには無駄がない。そう、無駄が、遊びがないのだ。

 だからこうも俺はつまらなく感じるのだろう。

 アマディはもう一度深いため息と悪態を同時についてみせた。

 アマディは十三歳。徒弟としてこれまでいろいろな工房に出入りしてきた。木工や農具作り、鍛冶、それに織物。手先は器用な方だが、忍耐力に欠けている。どこの工房の親方も口をそろえてそう言った。織物はまぁまぁ上手かったが、二反も織れば飽きてしまった。そしてそれよりももっと複雑な作業がいいと駄々をこねた。その結果がこの工房だったのだ。アマディのわがままを聞き入れるかどうか、大人達は散々議論したが、燃えるような赤毛の男の子の扱いに困っていたため、半ばやけくそでアマディを刺繍工房へいれた。刺繍工房は服を仕立てる工房よりも人手が少なく、エンビコ親方の腕が器用さよりもその太さと腕力で知られていたのも、アマディのわがままを聞き入れる一つの要因だった。あのエンビコ親方ならアマディを厳しくしつけてくれるだろう。

 結果としてそれは正しい判断だった。エンビコ親方は次々と新しい縫い方を教え、それを習熟させるためにたくさんの意匠を刺すように命じた。そしてアマディは指示された以上に多くの意匠を布の上に再現してみせた。かなり複雑なものも、白い糸だけを使ってはいたが、見事な出来映えだった。しかしその練習が終わって、実際の注文品を刺繍する段階でつまづいた。アマディには退屈な仕事ばかりだったのだ。

 もともと刺繍が嫌いな訳ではない。ただ単純に退屈が嫌いなのだ。黙々と針を動かし、決められたとおりにステッチを繰り返す。

 あぁ、もう少し面白い図面だったならやる気も出るのに。

 アマディの淀みない動きによって黒い布地には美しい模様が浮き出てきた。禁欲的なひし形を続けていく模様に、アマディはほんのわずかな遊び心を覚えた。試しにスラプーに根付く山神信仰を元にひし形に小さなvの字を入れてみる。いい感じだ。同じ色味のせいでひし形に細工されていることはほとんど誰も気づかないだろう。誓いをたてた寡婦の胸当ての中身を、無理矢理のぞきこもうとする不届き者以外には。アマディはくつくつと漏れ出る笑いを押し殺しながら、残りの部分に針を運んだ。


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