第4話 九条桐谷



「煩いそうだ、円」


 俺はさっそく先輩の言葉を円に伝えた。


 当然話を向けられた円は不満そうな顔になる。


「何よ。アタシ一人のせいだって言いたいの?」

「確かに円にも原因はあるようだが……。ふむ、そうやって人に擦り付け合うのはよくないな」


 それを見た先輩は呆れるように肩をすくめてみせた。

 あくまでも表情は変わらず、様に……だが。

 しかし今のはさすがに見苦しかったかもしれない。

 醜い擦り付け合いを注意されてしまった。


 後頭部で一つにまとめられている赤みがかった長い髪、理知的な雰囲気を窺わせる相貌に、その印象に拍車おかける様に眼鏡をかけている。あまり表情を変化させないその少女は、一見すれば近寄りがたそうな印象をしている。

 だが、彼女も見かけ通りでない人間だ。


「茉莉の良いお兄さんでありたければ、自分の非は正直に認められる人になるといい。不要な注意だったかな」

「いえ……すいません。先輩の言う通りだと思います」

「ちょっと、未来? 何で桐谷には素直に謝ってアタシには謝罪の言葉がないのよ」


 九条桐谷という人間……桐谷先輩は、一歩引いた位置から物事を冷静に見つめられる客観的な視点を持ちつつも、規範に捕らわれずに判断できる柔軟な思考を持ち合わせ、なおかつ他人の心情を慮る事が出来るという、大変できた人だ。細かな気配りのできるので、とても素晴らしい人だと思う。


 そもそも知り合ったきっかげがきっかけだ。この基地に俺達が集まる事になった大本の要因にも関わることなのだが、俺がケンカして新学期そうそうに停学をくらいそうになっていたのを助けてもらった恩がある。その時に先輩が、自分のしている研究の仲間へと引き入れてくれて、教師達にアピールしてくれたから今の俺があるのだ。


 なのでこうして集まる場所を提供してもらっている代わりに、俺は時々先輩の研究の手伝いをしていた。


 そこら辺を考えれば桐谷先輩がいかに素晴らしい人間か分からないという人はいないだろう。


 俺はいつだって先輩を尊敬しているし、先輩を先輩と呼ぶ事にも、先輩に敬語で話す事にも躊躇いはない。


 円などとは格が違うのだ。


「円と同じ立場で言い合っててもしょうがないしな。俺にも責任はある。すみませんでした、先輩」

「だーかーら! 何で桐谷には素直に謝るのよ」

「何で円を桐谷先輩と同じように扱わなくちゃならない。お前と先輩の立場が一緒なわけないだろ」

「何ですってぇ! とんだ後輩がいのない後輩よね、あんたって」

「先輩の自覚があるなら、少しくらいは先輩らしい事をしたらどうだ。俺はお前から先輩らしさを感じた事はほとんどない」

「ほほう、言ってくれるじゃないの」


 だが、円の口が止まらなかったばかりに、俺達の醜い言い合いは未だに続いている。

 視界の隅で先輩がやれやれと肩をすくめたように見えたが、彼女はそれ以上何も言わず、離れた所に座って自分の課題を鞄から広げ始めていた。


 そうして桐谷先輩からの忠告も忘れて、円と話を続けていれば、膝の上で寝ていた茉莉が「むぅー」と寝心地が悪そうな唸り声をあげた。

 俺達は慌てて口をつぐむ。


 幸いな事に茉莉はこれしきの騒音では目を覚まさなかったようで、今もなお安らかに「むにぃ」とか「むにゃ」とか、よく分からん事を言いながら寝息を立て続けている。


 その顔はとても幸せそうで、見ているこちらにまでその感情が伝わってきそうな表情だった。


 か弱くて頼りなくて世話がかかって、それでも見守っていたいと思えてくるような……、風見茉莉とはそんな少女だった。


 そんな茉莉の様子をそっと窺った円が、小声で呟いた。


「まるで子猫ね」

「それに関しては同意だ」

「あんたが必死で、世話を焼いたり守ろうとしたくなる気持ちも分かっちゃう気がする」

「それに関してはノーコメントだ」


 揚げ足をとられたくないので言葉にはしなかったが、異論はなかった。

 見てると思わず守ってやりたくなるというか、手を差し伸べてやりたくなるというか。

 俺の幼なじみの茉莉という少女は、どうにも他人の庇護欲を刺激するのが得意な生物なのだ。


 だから、放っておけないし、気が付いたらこうして面倒を見てしまう。

 それは、長年近所づきあいをしてきて、茉莉の兄貴的な役割を果たしてきた俺はもちろんの事、最近知り合った桐谷先輩や円も同じようだった。


 ここにいる誰もが、茉莉の事を年下の妹の様に見ている。


 茉莉は俺達にとっては欠かせない人間なのだ。

 だが、それは他の人間に対しても同じ。


 ここにいる誰かが一人かけてしまうなんてあってはならない事だし、そんな事は今の俺からは想像出来ない事だった。


 それは、運命の日の数年前のできごと。


 俺はまだ、この時はこの日常が壊れるなんて事、微塵も思っていなかった。


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