3 浄土にて太刀霞む
3 浄土にて太刀霞む
熊狩はその場に立っていた。その身に傷を負った様子もなく、太刀持った腕をだらりと垂らして。
傍らに、狐面が倒れている。どうも、狐面は負けたらしい―。
「腕が立つとは聞いていたが…狐面より強いとはの、熊狩殿」
雨の中、不意にその場に現れた雫は、熊狩へとそう声を掛けた。
「時の運だ。何をしに来た、雫」
「それはこれから決めようぞ。…なぜ、神那殿を切った。その太刀で何をする気だ?」
雫の問いに、熊狩は自嘲する。
「……かつて得たはずの勝利を得に」
「ふむ…ようわからんな。で、それが望みか?」
「望み?」
「熊狩殿の望むようにせよと、神那様に言われたからな」
「俺の望み通りか。……で、その望みがお前の意に添わなかったらどうする」
「どうするかのう…熊狩殿にも、神那様にも恩はあるしのう…」
雫はそう呟きながらも、脇差しを抜いた。未だ片腕、しかし雨もまだ降っている。
その様に熊狩は笑い、何時か聞いた文句を口にした。
「汝、強者たり得るか」
「否―わしは若輩。熊狩殿の方がはるかに強かろう……雨の日でさえなければ」
「そうか…ならば、我が望み叶えて見せよ」
「……心得た」
雫はそう呟いた―その瞬間、雫の姿が消え去る。
雨に溶けたように――そしてその姿は熊狩の目の前にあった。
雫はその手の脇差しを振るう―。移動自体は確かに速い。だが、その後の動きは熊狩のそれとは比べものにならない。
かん、と軽い音が鳴り、雫の一閃は流された。そしてすぐさま熊狩は太刀を返す。
「む!?」
一閃を前に、雫の姿は消え去った―ぴしゃり、同時に聞こえたその雨踏む音は熊狩の背後から。
熊狩は倒れこむように身を捻った。自分から体を崩しているようにしか見えないその動き―しかし腕を引くように回されたその太刀は鋭い。
「く!」
またも、雫は姿を消す。その刹那を、熊狩の太刀は切り裂いた。
熊狩の間合いを離れた位置に、雫は姿を現す。その腹が、僅かに赤く滲んでいる―切られたのだ。体を崩させ、背後もついた。その上で先に振るったというのに―熊狩の太刀の方が鋭く速く、雫の刃に先んじて裂いて見せたのだ。
あのまま切り伏せようとしていれば、雫の胴は両断されていただろう。
「無形か…極みにあるらしいの。まったく、妖刀相手に勝てないとは良く言ったものだ」
雫はそう呟いた―畏怖の念を持って。
「すくんだか?」
またもだらりと身体の力を抜いて、熊狩はそう笑う。
「否―こうでなければな、」
その言葉を残して、雫はまた姿を消した。その姿は熊狩の側面に現れる。熊狩の太刀はそちらへと反応仕掛けて―しかしすぐさま雫は姿を消す。
ぴしゃり―次に現れたのは後ろ―熊狩は振りかけた腕の軌道を変えて、そのまま背後を狙う。しかし次の瞬間、雫は熊狩の正面―数寸に現れた。
横、後ろと誘い、反応させた上で正面から襲う。幾ら速かろうとも、動いてしまった後であれば融通も効かないだろう―まして間合いの内側に入り込んでしまえば、太刀では対応出来ないはず―雫は正面から、熊狩の心臓へと脇差しを突き出した。
「捕らえた―――」
「―――遅過ぎる」
熊狩は呟くと同時に、後ろへと倒れこむ。倒れている分、心臓は遠ざかり、ほんの刹那であろうとも熊狩は猶予を得た。
そして、その刹那であれば熊狩には十分―太刀は翻る。先程、背後であっても熊狩は避けて見せたのだ。正面ならば尚の事、その太刀の返しは速い。
脇差しが胸を引っ掻いた刹那、ごう、と太刀は振るわれる。
雫は遅れて反応し、その姿を消すが―血と、脇差し握る雫の腕はその場に残された。両断されたのだ―体勢を問わず逃れられるはずの妖刀の技でありながらも、遅れを取った。
どさり、と雫の腕が泥の中に落ちる。
その向こう―熊狩の間合いの外には、両腕を失った雫の姿があった。
「く……速すぎよう。それが、覇者の太刀か……」
「どうかな」
熊狩は笑った。そして、雫を眺める―両腕が無いその姿を。そもそも片腕で戦っていたこれまでがおかしかったのだが―これでもう、脇差しを握る事すらできない。
「それより、どうするんだ雫。文字通り、もう手も無いようだが?」
「うむ……困ったのう。まあ、わしは良い。で、わしはもう阻めんぞ。熊狩殿はこの後どうするのだ?」
「さあな。南でも北でも、適当に切りに行こうか」
「お主を切るに足る者に遭うまで、か。…本当にそれが望みか?それなら覇者の太刀など狙わず、単身往けば良かったでは無いか」
「これがないと勝てない思ったのさ」
熊狩はそう呟き、ちらりと路肩に倒れた男―狐面を見た。
「……狐面を切ろうと?」
「ふん。切る必要など無くなっていたようだがな……」
「熊狩殿。お主は……」
雫はそう呟いた―その事に熊狩は笑い、言う。
「お前は恩を忘れないらしい…ならば、罪も忘れはしないだろう?」
そう言って、熊狩は空を見上げる―曇天からの雨が熊狩の身を打つ。だが、それでその身に染みついた血が拭われることはない。
「戦場で友に救われた恩…半端に捨てるわけには行かん。若さにかられ人を切った罪……それも消えぬ。かつて止められなかった責もまた……消えはせぬ」
友は言った―熊狩が生きていればまだ勝てると。ならば、その言葉に報いねばならない。
君主は言った―覇者の太刀は飾り、弱さでは無く誇りだと。それを切ってしまった責は負わねばならない。
子供は―息子は言った―我が望みを叶えよと。それを叶えてやるべきだった。
「これは恩であり、罪…かつての血の続きを。その末に朽ちるが我が本望…」
俺はお前達の父を切った―それを熊狩が言ったのは、裁かれたかったからだろう。だがその望みも叶わず―子は今までと変わらず接した。
あるいは、それが裁きか。わからずとも安寧に過ごした―罪を心に押し隠しながら。
熊狩の行動は一念に寄るものではない。積もり積もった数多の念の末に、今ここに覇者の太刀を握っている。友の夢、犯した罪、望んだ裁き―全てが絡んだ末に機に出会い、熊狩の胸中に出来上がった望み。
「汝、強者たり得るか。……俺を切るほどに」
熊狩が、切られて負ける。狐面か、あるいは雫に。戦の続き―覇者の太刀を持ちながら強者に破れるは本望。所詮、その程度だとあの世で笑おう。
罪への罰―亡国を生んだ罪にも報いよう。
そして、望みと責務―熊狩よりも強い者が傍にいれば、熊狩も安心して死ねる。
熊狩の目に、何が浮かんでいたのか―ただ雫は、諦めたように呟いた。
「望んだ通りにせよ、か…よかろう。熊狩殿。そなたは恩人―故に望み叶えよう」
雫は腕を―失われた両腕を空へ、雨落とす曇天へと掲げた。
「水とは我が目であり、耳であり、身体である―故にこそ脆く永劫……水は途切れぬ。朽ちぬ。全て繋がり、流れに流れ―けれど断たれば、露と消ゆ」
口上―どこか悔恨と憤りを孕んだその声は、失われた腕に変化を生んだ。
ちゃりと音が鳴る―かさぶたのような何かが雫の傷口を覆い、膨らんでいく。
「祟れ、祟れ、祟れ―我が身を裂いたその汚濁―なぜついえねばならんのか」
膨らび、延びる瘡蓋―いや、それはかさぶたでは無く鱗だ。鱗に覆われた腕が、傷口から生えてくる。その両腕は天を掴むように、雨を掬うように―。
「―嘆こうぞ。渇いた。嗚呼、渇いたと。水を。汚濁慣れど水を。臓物食みて、赤き水を」
そして、雫は鱗に覆われた両手を下し、熊狩を睨んだ。
その瞳には切れ目がある―蜥蜴か、蛇か。しかしその眼は瞬きの後に失われ、人の目に。
「その目、鱗……真、妖刀か」
熊狩はそう呟いた―雫は鱗に覆われた両腕を太刀に添える。
「もう一度問おう。望みは?」
雫は熊狩に問いかけた。本当にそれが望みかと。
「その姿、偽りで無くば俺の望みは自ずと叶おう」
「……承知した」
その言葉と共に、雫は太刀を引き抜いた。すらりと雨に妖刀が舞い、そして雫はその場で構える。
鍔は顔の横、だがその刃は天に、切っ先は熊狩へと向ける―突きのみを示す型。
熊狩は気を張った―身体は脱力。だが、気は抜かぬ。
あの素早い移動で、一挙に肉薄して突きを繰り出すのだろう―熊狩はそう予想したのだ。だからこそ、間合いの外で構えたのだろうと。
「――
雫は呟き、突きを繰り出す―しかし、その姿は消えない。
酷く滑らかで、鋭い一突き―不意にその切っ先が雨に溶けて消えたように見えた。
鋭い熱気が熊狩の胸を貫く―見ると、太刀の切っ先が熊狩の胸をついていた。雫の位置は変わっていない―ただ突き出した妖刀の先がうせているのみ。
その先は、熊狩の胸に突き刺さっていた。刃は中途で雨に溶けている―刃先だけを雨に溶かし、離れた位置に生み出したのか。
ずるり、と熊狩の胸から刃が引き抜かれ、抜かれた傍から雨に溶けていく。
やがて刃は熊狩の傍から完全に消え――雫の手には血を纏った妖刀があった。
「熊狩殿。お主は妖刀に負けたのだ。わしにではない」
どこか納得していない様子でそう呟きながら、雫は太刀にこびりついた血を振り払った。
「妖刀、か……。やはり、妖刀には勝てないらしい。…こうでなくてはな…」
熊狩は笑う―その身体がふらりと倒れこみ、泥の中へと転がった。
並々と血が流れる―止めどなく。
「……なぜ、その妖刀を使わん。手心か?望みの為か?」
雫は問いかけた―熊狩が妖刀を使っていた様子がなかったからだ。覇者の太刀―最強とまで呼ばれるそれが、まさか少々動きが速くなる程度であろうとは思えない。
熊狩はまだ笑っていた―どこか満足げに。
「誰が、妖刀と言った。……ただの太刀さ、これは。覇者の太刀と呼ばれているだけのただの業物、飾りだよ……知ったのは俺も、ついさっきだがな」
「飾り……か、」
使っていなかったのではなく、使えなかった―そもそも妖刀では無いから。
あるいはそう言われるまでもなく雫は気付いていたのかもしれない―妖刀を使う者として、まみえればそうとわかるのだ。
「常勝たる覇者の太刀……使い手を選ぶとはそう言うことらしい。人の身で妖刀を超える者だけが、覇者に太刀の使い手よ。俺では不足だったらしい」
不足―否。不足では無い。その技の冴えは明らかに常人を超えていた。であればこそ、そして故あればこそ、雫は奥の手を使ったのだ―妖刀を使わぬただの人に対して。
だから、今立っているのは雫だが……勝ったのは熊狩だ。
「こんなものの、為にな……」
悔いるように―しかし満たされた様に、熊狩は呟いた。
「最後に問う。なぜ、神那様を切った。殺す気だったのか?」
「切られたならば、神那も怨めよう。故あれば、お前を許す事も出来よう」
「…………そうか」
「雫。俺も最後に問おう。人を切るに故は必要か、否か」
「知らん。極力切らんが、切ってしまったものは仕方なかろう。人切りの癖に甘え腐る気などわしにはないわ。まして妖刀。切ったのだ。ただのそれだけよ」
「ふん…」
雫の応えは満足のいくものか、あるいは拍子抜けだったか。熊狩はただ鼻を鳴らした。
「望めば、沙羅の所へ連れていくぞ。まだ間に合うやもしれん」
「……漸く、楽になるのだ。無粋な事をするな」
「望む通りにしよう」
「ああ、そうだ。……もう一つ聞くことがあった。雫。料理は出来るか?」
「ん?うむ。伊達に師匠に雑用ばかりさせられていたわけでは無いぞ」
「そうか。……厨房を探せ。秘伝の書がある」
どこか冗談めかして、熊狩は言う。その目からは段々と、光が失せていく。
「……こちらも、一つ伝え忘れた。神那様は許すそうだ。よそ者のわしには、何を許すかしれんがの」
「そうか……」
血が流れ、意識も遠い―だが確かに聞こえたその声に、熊狩は笑みを消した。糸が切れた様に―熊狩は雨を見上げる。
「漸く……許されるか…」
やがて、熊狩は目を閉じた。静かに、眠るように―。
その様を見送った末に、雫は太刀を収めた。そして、自身の両の手を見る。
うろこに覆われた人のそれでは無い腕を。
「そう、人切りよ。熊狩殿を切った」
そして、雫は天を見上げた。未だ降り続ける雨を。
「……戻れんよなぁ」
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