2 師弟、妖刀、覇者の太刀
2 師弟、妖刀、覇者の太刀
熊狩は一人、城を出る。降りしきる雨の中に、一歩踏み出し―そこでその足は止まった。
雨の最中、熊狩の目の前―面が浮かんでいた。ぼうと、狐の面が。
「熊狩。…神那はどうした」
狐面はそう問いかけた。熊狩は一人だけ―その手には太刀が握られている。見慣れぬ太刀―いや、狐面はかつて一度だけ見た事がある―覇者の太刀だ。
「さあな。見て来ればどうだ?天手にいるぞ。……血を流してな」
醜悪な笑みを浮かべ、熊狩はそう言った。
神那は傷を負ったのか―――そして、熊狩はそんな神那を置いて、一人身を現した。
「……切ったのか」
狐面は問いかける。その問いに熊狩は涼し気な顔で―醜悪な笑みで答えた。
「いかにも」
「何故…」
狐面は尚も問う―神那をここまで育てたのは熊狩だ。いや、神那だけではない―狐面もかつて世話になっていた。
いわば恩人、育ての親―そんな人が神那を切った?
故が知りたかった―あるいは、信じたくないだけか。
「…用が済んだから。否……その血筋が憎いからか」
「血筋?」
「太刀守の国は、戦を選ばなかった。あの親父は、戦わないと言った……だが、それを言った時点でもうすでに血は流れていた」
雨を見上げ、懐かしむように熊狩は呟く。
「国の為と、死んだ者がいた。来る戦の為と…だが戦が無くなれば、その血は無為になろう。無為にしようとした者がいた―その血筋が俺は憎い」
血筋―太刀守の血筋か。戦せずに国を明け渡そうとした者が憎いと、熊狩は言う。だが、それはもう10年も前の話だ。
「…今更、それを蒸し返して何になる」
「……俺の気が済む。流れた血の……友の為。かつてあったはずの勝利を、俺が体現する」
その目はどこか淀んで見えた。
「狂ったか、熊狩」
「お前は正気になったようだな。ふん、
狐面は応えず、太刀を抜いて身を屈めた。その様に、熊狩は酷く醜悪に笑い、覇者の太刀をすらりと引き抜いた。
見事な刃紋が雨に濡れる―そして、熊狩はだらりと身体の力を抜いた。
構えようとせず、太刀も何もだらりと垂らす―。
「ならば、俺も狐面と呼ぼう。……言い残す事があれば聞くが?」
「熊狩。お前は恩人―されど神那を切ったとあらば、その恩も忘れよう。もはや俺は義賊にあらず、ただの人切り―故にこそ、お前を切る」
その言葉と共に、狐面は駆け出した。
雨をはじき、泥を踏みしめ―未だ構えぬ熊狩へと、鋭く太刀を振り下ろす。狐面の姿は見えないはず―面で居場所はわかろうとも、どの太刀筋かは見切れまい―。
瞬間―熊狩は笑った。
かん、と軽い音が鳴る―たった今までだらりと垂れていたはずの熊狩の太刀が跳ね上がり、狐面の振り下ろした太刀の腹を叩いたのだ。
完璧な流し―太刀の勢いはまるで殺されず、ただ軌道だけがそれて熊狩の真横を空ぶる。
狐面は太刀を中途で止め切れず、熊狩の目の前に無防備な首を晒す。対して、熊狩はただ太刀を振り上げただけのような格好―即座にその太刀は振り下ろされる。
雨に血が混じる―切られたのは肩。首を落とす事も出来ただろうに―熊狩は狐面の肩を切った。
「……手心とでも言うつもりか…」
怨嗟の声で狐面は言った。しかし、熊狩は呆れた風に答える。
「いいや。防がれると思っていたが―もしや二刀ではないのか。なんだ、面白くも無い」
そう言って、熊狩は狐面の肩から太刀を抜き―同時に蹴りを繰り出す。
その蹴りが当たる寸前に、しかし狐面は飛びのいて距離を取った。
「脇差しを取って来い、狐面。でなければ面白くなかろう」
「舐めるな!」
狐面のそう叫び、再度踏み込む。今度はその面までも包み隠して、完全に姿を消して―。
直後、狐面は踏み込みを一瞬だけ緩める―一瞬の誤差を生む。熊狩は誤差が無いつもりで反応するだろう―そのずれが致命。
狐面は太刀を振りぬいた―しかしまたも、その太刀筋は太刀の腹で逸らされる。
おかしい―太刀を流すなどほとんど曲芸だ。機もわからず、そもそも姿が見えない太刀相手に出来るはずがない。
「……見えているのか…」
「雨、故な」
そう答えた熊狩は、しかし隙だらけの狐面へと切り掛ろうとしない。完全に舐められている―その憤りをのせ、狐面は太刀を返し、そのまま熊狩へと切り掛った。
しかし、その一閃をも容易に流される。ならば、とまた躍起になって、狐面は更に切り掛った。幾度も幾度も切り掛り―けれど児戯と笑わんばかりに、その事ごとくが流される。
「……弱くなったな」
不意に、熊狩はそう呟き―蹴りを繰り出す。
先程は交わせたその蹴り―だがそれすらも、狐面には交わせず、無様に泥に尻もちをついた。蹴りですら、手心を咥えられていたらしい―。
「太刀が重いか、狐面」
熊狩は狐面を見下ろし、そう言った。
「何……」
「かつては軽やかだった。志あり義賊を気取るその時は。しかし、今は見る影もなく重く遅い……一度狂ったが故だろう?狂い、志亡きままに切ったが故だろう?」
「戯言を!」
狐面は立ち上がり―再度切り掛る。だがやはり、その一閃は流された。
「この世には二種類の人切りがいる。故なく切るを良しとする者。そして、故なくば誰も切れない者。俺もお前も後者だ。いや、後者だった」
「黙れ!」
太刀は熊狩に届きもしない。
「大儀がある内は良い。国の為、弱者の為、守るためならと言い訳すれば気もまだ楽よ。だが、それを奪われればどうなる?大儀が、志が無くなれば?残るのは重さだけだ。隣の友の末期の血、切った敵の血―それに塗れた重い太刀のみ。大儀なければただの人切り―なればもはや、罰を願うか……狂うほかない」
「ぐ……」
狐面は一旦身を引いた。攻め疲れたのだ―息が切れ、一時の休息を必要とした。
しかしその途端、熊狩の方が前に出た。ゆるりと、だらりと、その太刀を振るう。
どこにも力が入っていない酷く緩やかに見える一太刀―しかし、その一閃は鋭い。
咄嗟に、狐面は太刀でその一閃を受け止めた。これまでにない重い音―流すのではなく受け止めたが為に、鍔迫り合いに相応睨み合う。
「お前は罰を願った。だからこそ、その太刀は重い。俺もかつて罰を願った。だから、太刀を置いた。だが、……俺は狂う事にした」
狐面は熊狩を押しのけ、同時に飛びのいて距離を取る。此度は熊狩も見逃し―まただらりと腕を垂らす。型がない事こそが型―極致たる無型。それが、熊狩の剣。かつて狐面も真似ようとして真似きれなかった無双の型。
「同情でも引く気か」
内心に怯えが宿った―それを打ち払うように、狐面は問いかける。
「違う。俺はお前に同情している―妖刀になど頼るから、その太刀は重くなったのだ」
「覇者の太刀を求めておいて良く言う」
「まったくだな………求めねばこうはならなかったのだろう。滑稽な話だ」
「今更、悔いた所で」
「何にもならん。故にこそ、歩むしかあるまい」
そう言って、熊狩は狐面を睨みつけた。
「汝、強者たり得るか」
熊狩はそう問う―その目は鋭い。手心はもう宿っていないのだろう。
次で終い―狐面は妖刀の力を解いた。どうせ雨でばれるのであれば、使っていても仕様がない。狐面は身を屈め、構える。大上段―もはや振り下ろす他にない構え。
小技はどうせ通用しない。ならば、力づくで―速く鋭く。
「この一太刀で示そう―」
そう答え―狐面は地を蹴った。
*
がら、と熊屋の戸を開ける。その中では沙羅がこっくりと船を漕いでいた。貴条の姿は無い―奥で寝ているのだろうか。
濡れた衣、背に神那を負って、雫は沙羅の元へと歩む。
「沙羅。沙羅。頼む。疲れていると思うが」
そう呼びかけると、沙羅はぼんやりと瞼を開き―しかし雫の背の神那の姿に気付いた途端、その目を見開いた。
「あねご!なんで?」
「……うむ。後での……治してやってくれ」
そう言った雫に沙羅はこくりと頷いた。それから、奥へと駆けて行く。その後を追って雫も熊屋の奥へと歩みだした。
「……雫」
と、雫の背に負われた神那は、不意に口を開いた。
「神那様……目が覚めたか?今、沙羅が治してくれるそうだぞ。喋らず……」
雫はそう言い掛ける―しかし、神那は口を閉ざさなかった。
「私は、許すと言えなかったのです……」
囁くような声―神那の手は強く、雫の衣を掴んでいた。
「神那様?」
「もう全てが遅き事でしょう……あるいは、それを言ったところで…」
神那は尚も続けた。熊屋の奥、座に辿り着き、雫は背から神那を下し、その場所に寝かしつける。
途端に、沙羅が神那へと飛びついていった。
「雫。父の望む通りにして差し上げて……」
雫を見ている様で、しかしもっと別の場所を馳せている様に―神那は言った。
「はい」
「それから、許すとお伝えください」
「……喜んで」
いつかそうしろと言われた返事を雫が返す、すると神那は安心した様に目を閉じた。
「治るか、沙羅?」
「治す」
沙羅は断言した、その言葉に、雫は一つ頷き、神那に背を向ける。
「また行くの?」
「うむ……言伝せねばな…」
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