5 天の雫
5 天の雫
「む!」
ぽつりぽつりと雨の音―微かなその音に、雫は目を開けた。場所は風呂場―いるのは不思議そうな顔をした沙羅だけ。
「あにじゃ?」
ぽつりぽつり―――その音は、やがてざあざあと。
「雨だ!」
雫は叫んだ―途端、沙羅の目の前から雫の姿が消え去った。水に溶け込みでもした様に。
「……けが、治ってないのに…」
残された沙羅は、ただそんな事を呟いた。
*
「雨だ!雨だぞ、雨!」
場の空気に似合わないはしゃぐ様な声が聞こえてきた―陽は戸惑いの声を上げる。
「は?」
雨―確かに雨は降り出した。だが、こんな時に、誰が雨くらいではしゃいでいるのか。
その姿はいつの間にやら、陽の目の前にあった。
貴条から陽の身をかばうように、雨の中から飛び出たように突然現れた男。
衣は血まみれ、右腕は失し―しかし何やら楽し気に雨だ雨だと騒ぐ者。
「雫殿?」
「む?おう、陽殿。雨だぞ。ほれ、屋根の下へ。風邪をひくぞ」
突然現れた雫は時に似合わずそんな事を言い出した。まるで緊張感も無く―
「そんな事を言っている場合では……」
言い掛けた陽の視界の中で、貴条が動き出す。背を向けた雫を、陽諸共切り伏せようとその太刀を振り下ろしたのだ。
「雫殿!切ら、……れ?」
警告しようとした陽―しかしそこで不可思議な事が起こった。貴条が太刀を空振りしていたのだ―しかも陽は、その姿を少し離れた位置、横から見ていた。
「は?」
何が起きたか分らない―ただ、一瞬の内に移動したらしい。けれど、何故?
訳がわからない―。
「ほっほっほ、隙だらけだのう、陽殿」
傍らで雫が笑っていた。その手は陽を掴んでいる。陽の、胸を。
「な、何を!?」
陽は声を上げた―しかしその時には、またも雫の姿が消え去っていた。
またも一瞬の内に、雫は雨に溶けて消え―気付くと今度は貴条の目の前に立っている。
一瞬の内に彼方飛び越え、移動する――陽は思いだした。縁日の夜、川に飛び込み、浮かんだ時には随分と離れた場所にいた事を。あれと、同じ事を?
「……妖刀…」
幼子の呟き―沙羅が熊屋から出てくる所だった。
「妖刀、ですか?」
「たぶん」
*
一度消え去り、しかしまたも眼前に突如現れた雫を、貴条は昏い目で睨んだ。
「ふむ。やはり貴条殿であったか。妖刀に呑まれるとは……修行が足りんな」
雫は余裕ぶってそう笑っている。
――掴め。引きずれ。落として殺せ。全ては躯。共にこの暗がりの底に―
「があああ!」
貴条は再び太刀を振り下ろした。すると、刃が当たる寸前に雫の姿が露と消え―後ろから声が聞こえた。
「のう、貴条殿。雨が降っておる事だし、止めぬか?正直あまり使いたく無いのだ、正々堂々とはいかんからのう」
振り向いた先には雫が居る―姿を消したわけでは無い。恐ろしく速く動いた―。
――掴め。引きずれ。落として殺せ。全ては躯。共にこの暗がりの底に―
ならば、そう心得た上で切れば良い。
「ま、呑まれた者に言うても仕様もないか……狐面は割と話せたのだが」
雫はそう呟いて、太刀を抜こうと腕を動かし、だが、一向に太刀は抜かれない。
「……あ。右手無いんじゃった。のう、貴条殿?やっぱりやめぬか?」
「があああ!」
咆哮と共に貴条は雫へと切り掛る―同時に、半身を包む暗がりから腕が出た。雫の逃げ場を奪うように、八方を封じて切り掛る―しかしその寸前でやはり、雫の姿は消え去った。
黒い腕もまた空を掴む―速くは動いている。だが、真っ等に移動しているわけでは無い―。
雫の姿は、二人の娘―男装の少女と鬼の娘の前にあった。
*
「のう、沙羅。妖刀を離せば、貴条殿元に戻るかの。妖刀握って日が浅いと思うのだが」
「わっ!?」
突然目の前に雫が現れ、そういうものだと知り始めてはいたものの、陽は驚きの声を上げる。対して沙羅は驚いた様子もなく、貴条を見て答えた。
「……黒いの、広いけど浅い。たぶん、消せる」
「そうか。それは良かった」
雫はそう言いながら、左手一本で太刀を引き抜こうとした。だが、どうも片手で引き抜くには長過ぎるのかうまく引き抜けない。
「その……貴条様は元に戻るのですか?」
陽は戸惑いながらもそう問いかける。
「うむ、恐らくのう。まあ、雨が降っておるし。大船に乗ったつもりで待っておれ。……抜けん」
期待しろと口で言いながらも、太刀すら抜けない様子に陽は状況を忘れて呆れた。
「……はあ。脇差しにするかの…借りるぞ、狐面!」
雫はそう言って脇差しに手を伸ばし―その姿が陽と沙羅の目の前から消え去った。
*
貴条の懐に雫が姿を現す―その手には脇差し。声も猶予もなく、雫は貴条へと脇差しを突き出した。
間合いが近過ぎる―太刀では受けられない。そう判断すると同時に半身包む暗がりが動き出し、雫の身を掴み取ろうとするが―またも雫は消え去った。
ぴしゃり、と濡れ土を踏む音が後ろから聞こえる。後ろに回り込んだらしい―そう知った途端、暗がりは貴条の背中を覆い隠す。
すとん、と暗がりに脇差しが突き刺さるが、しかしそれが傷を負ったところで貴条にはまるで影響はない。
「む。反応速いのう……」
貴条は振り返り様太刀を振るうが―しかしその一閃も雨を切り裂くのみ。
また逃がした。どうも、どこからでも消え、どこにでも現れる、そう言う妖刀らしい―。
――掴め。引きずれ。落として殺せ。全ては躯。共にこの暗がりの底に―
だが、現れてからの雫の動きは消して速くない。脇差しである以上、間合いも狭い。そもそも片腕一本、切られた所で大して傷は深くも無い。
貴条は太刀を構えた。八双―目の前に現れればすぐさま切り伏せて見せる。
同時に、貴条は自身の周囲を暗がりで覆う―背中も側面もすべて覆い隠し、ただ自身の前にのみ隙間を作る。貴条を切りたくば、正面から現れる他にない。それが、上策―。
隙間の向こう、数歩分距離をおいた場所に、雫は現れた。
「……なんと、まあ策を練るも早い事。呑まれておるというのにのう……」
呆れたように―だが同時に感心もしているらしく、雫はそう嘆息した。
「ま、まだ呑まれ切っておらんということか……。やはり、わしでは切れそうにない。だが、雨の日にまで負けては言い訳も出来んし。…いや、わし片腕だからの。いや~両腕揃っておればのう~」
そして雫は、脇差しを手にふっと身体の力を抜き、貴条を睨んだ。
飛び込む隙を探っているのだろう。そして貴条は、飛び込まれるその時を待っている。
雨は降り続く―ざあざあと音を立てて。
不意に―雫は雨の向こうへ消え去った。その瞬間に、貴条は身を引きながら、太刀を振り下ろす。雫は脇差し、懐に飛び込んでくる。それを読んで、雫が現れる先を、雫が現れる前に切り伏せる。
刹那―雫は現れた。だがその位置は、予測した懐では無く、貴条の間合いの外―。
貴条ならば読んで先に切る位の事はするだろう―雫はそう考えていたのだ。そもそも真っ等に切りあってはどうあがいても勝てないのは雫も知っている。
だからこそ、間合いの外に現れ―空振りを誘った。そして、空ぶらせた後に、貴条の懐へと飛び込んでいく。
「貰った!」
雫は叫んだ―今度こそ勝ったと。
しかしそれは束の間のぬか喜び―振り下ろされる貴条の太刀が中途で止まる。貴条の太刀、その柄を暗がりが覆い隠していた。
容易に人の手を握りつぶすほどの握力、腕力で全力の一刀を無理矢理止めたのだ。そして、そのまま太刀は跳ね上がり、突き出される。
「む!?」
まずい―と思った時にはもう遅く、雫は貴条の突きを交わす事が出来なかった。
雫の胸を太刀が貫く―雨の中を鮮血が散る。
「ぐは、……見事。やはりわしでは勝てんか……」
胸を太刀で貫かれ、血を吐きながら雫は言った。しかしその顔に浮かんでいるのは悔しさでは無く、笑み。
「だがの。故にこそ人に戻ってもらおうか―」
不意に―貴条の腕が撥ねた。雫に太刀を突き刺していた両の腕が、中途で両断され跳ね上がり、地に落ちる。雫が何かをしたわけでは無い―切ったのは別の者。
狐の面が浮いていた。雨の中にぼうと、貴条の血で濡れた太刀を手に。
「悪いな。この妖刀―真っ等に使えば、どうも卑怯になる」
「狐……」
貴条は呟き、膝から崩れ落ちる。妖刀が身から離れた故か、その身を包む暗がりも消え去り、頭に響く声も消え、意識が遠ざかっていく―。
*
「貴条様!」
両腕を切り落され、貴条が倒れこむ―その途端、陽は貴条の元へと駈け寄って行った。
貴条は返事をしない―気を失っているのか。いや、この出血。気絶で済むはずがない。
「貴条様!」
涙ながらに陽は声を上げた―と、その横に沙羅が駆け寄ってきて、ぽんとその肩を叩く。
「へいき。治す」
「治す……治るのですか?」
「たぶん」
と、そこで胸に妖刀が突き刺さったままの雫がぐん、と身を起こした。
「やれやれ、どれだけ傷を負えば良いのか……。のう、沙羅。貴条殿の腕、くっつくかの?」
「雫殿……平気なのですか?」
「うむ。痛いぞ。で、どうだ沙羅」
「黒いの残ってる。先に腕をくっつけて、その後黒いの消せば、いける。あにじゃ治るし」
「ほう、いけるか」
「たぶん」
尚も曖昧に答えながら、沙羅は落ちていた貴条の腕を拾い上げた。そしてそれを差し出しながら陽に言う。
「持ってて」
「はい?」
「手伝って」
「……はい」
*
陽と沙羅が貴条の傷を治しだした―それを横目にすっくと立ち上がった雫は、顔をしかめながら自身の胸に突き刺さった妖刀を引き抜き、投げ捨てた。
それから、雨の中の一角―何者もいないその場所へと声を掛ける。
「さて、狐面。念願の雨だしのう。やるか?」
狐面は姿を隠しているが―雨に打たれている以上、雫にはその姿が手に取るように分かった。狐面はふっと笑みをこぼし、答えた。
「……否。腕が生えてからだ。言い訳などさせん。それより、神那はどこへ行った?」
「む?そう言えばおらんのう……逃げたのか?」
呟いて、雫は目を閉じた。
水とは我が目であり、耳であり、身体である―雨の日であれば、雫は紛れもなく千里眼。
すぐにその姿を見つけ出した―熊狩に手を引かれ、どこかへと駆けているその姿を。
「おった、おった。熊狩殿と一緒か。……城に入るのか?」
「城?」
「うむ……なぜ、城へ?杏奈殿も居るであろうに……」
そもそも、杏奈は神那を攫って来いといっていたのだ。その攫う先は恐らく城だろう―だが、熊狩は神那を連れて城に逃げていこうとしている―――何かが、奇妙。
「……覇者の太刀か」
そう呟いて、狐面は踵を返した。どうやら、城に向かうつもりらしい。
「覇者の太刀……のう」
聞いた覚えがある―そう。確か、それを言っていたのは熊狩だ。最強の妖刀と呼んでいたはず―使えば、戦に勝ったはずだとも。なぜそんな事を知っているのか―熊狩はかつて城勤めだったらしい。名のある武者だったとも……なれば知っていて当然か。
否……どうにも、知り過ぎていないか?例えば、この浄土で国が無くなった時の話。金成殿は亡き殿の意思は誰も知らんと噂していたが―覇者の太刀の折、熊狩の語っていた言葉からして、亡き殿は使わぬよう決めた風だった。それも城勤め、殿と近しかったが故か?
……他にもある。沙羅を連れて帰った日、熊狩はなんと言った?鬼の娘であることを驚く前に、守人衆と口にしていなかったか?噂を聞いていたにしても、鬼の娘とは金成も知っていなかったはずだ。
神那から雫が攫ってくると聞いていたのか―それとも、捕らえられているのが鬼の娘と知っていたのか?もし知っていたとするなら―どこで聞いた?
どれもこれも、確証には至らない。だが、―何やら怪しい。怪しさが過ぎる……。
「まさか、の……」
その呟きの後、雫の姿は雨の中へと消え去った。
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