4 歩み寄る終幕
4 歩み寄る終幕
ざわざわという喚きが聞こえる。
狐面―狐面―衆目は口々に。
――掴め。引きずれ。落として殺せ。全ては躯。共にこの暗がりの底に―
嗚呼、うるさい。黙れないのか―。
悲鳴が上がる。鮮血が舞う―人が倒れる。己が太刀は血の尾を引いて―。
何をするんだったか?神那?熊屋の娘―を?確か―
――掴め。引きずれ。落として殺せ。全ては躯。共にこの暗がりの底に―
そう。殺すのだった。
ずるりずるり。ゆらりゆらり。重い身体は歩んで行く―。
*
ぴくり、と沙羅は動きを止めた。熊屋の仕事、嫌々な働きの最中に。
「どうしました、沙羅?」
神那は尋ねるが、しかし沙羅は神那の方を見ようとしない。その視線は家の中を見ていて―不意に沙羅は駆け出した。
「沙羅?どこに」
問いかけながらも、神那は沙羅を追い掛ける。沙羅が向かっているのは、どうやら風呂場らしい。
駆けこんだその先―風呂場には血が溢れていた。
張ってあった水に赤が混じっている。その最中に、雫が沈んでいた。肩に深手、右腕はない満身創痍のその身が。
沙羅はその身に手を触れ、身を輝かせながら、痛くないと囁いている。
「雫!……城で遭ったのですか。狐面に」
「うむ。だが、偽物だった…」
「偽物……?」
神那は戸惑い、呟く…そこで物音を聞きつけてか、陽もまた風呂場にやってくる。
「雫殿!一体、なにが…」
「そう騒がれるな、陽殿。いるとばれるぞ」
「しかし、その傷…」
言い淀む陽に沙羅はちらと視線を送った。
「治る。……治す」
そしてまた、痛くないと囁きだす。
「勝手に治るから良い…と言いたいが、それ所でもないのう…左肩からにしてくれんか?」
雫はそう呟き、沙羅は頷く。と、そこで、外から何やら悲鳴が聞こえてきた。
「騒ぎ?」
「いってはいかんぞ、神那様。どうも、神那様が狙われている様での。あと、陽殿も行くべきではない」
「私も、狙われているのですか?」
「そうでは無いがのう。…見ない方が良かろう」
「それは、一体…」
「うむ…そうさの……」
雫は何やら考え込む様子で、ゆっくりと瞼を閉じた。どうにも、眠気が耐えがたくなったらしい。
「雫殿!」
「大丈夫でしょう。この間も治っていました。しかし、私が狙いとは…」
神那は呟く。その耳には、騒ぎが近づいてくるように大きく、はっきりと聞こえだした。
狐面、狐面と…。
「狐面…」
神那もまたそう呟く―そして、踵を返し風呂場を後にした。
*
騒ぎを見に、客は外へ出ていき、しかし一人も戻らない。
狐面、狐面―熊狩もまた熊屋を出て、通りに立った。通りでは人が逃げ惑っている。まるで大火を恐れるように―けれど迫っていたのは大火では無かった。
身体が半分暗がりの、狐面の男―それがずるりずるりと、歩んできている。
「狐面…偽物か。しかし、」
熊狩は呟き、迫る狐面へと歩みだした。そして声を張る。
「狐面よ!何用か!」
その声に狐面はぴたりと足を止め―言った。
「……神那は、どこか…」
酷くかすれた声で、狐面はそう問う。
「聞いてどうする?」
「…殺す」
「何?…攫うのではないのか?」
「攫う?…殺す?…同じ事……」
夢現のように、うなされるように―狐面は呟く。その様に、熊狩は舌打ちする。
「混濁しやがって……」
そこで、熊狩は背から声を聞いた。
「父上!……あれは、…狐面?」
神那が出て来たのだ。騒ぎを聞きつけたか―――まずい。
「神那、戻れ!」
熊狩が叫ぶのと、狐面が駆け出すのは同時だった。
「神那ァ!」
咆哮と共に狐面は叫ぶ―仕様もないと素手のまま、熊狩は狐面の前へと出たが―途端、狐面の纏う暗がりが延び、熊狩の身体をしたたかに殴りつけた。
「―が、」
呻く間もなく熊狩の身は吹き飛ばされ、その背はしたたかに壁に打ち付けられる。
「父上!?」
叫ぶ神那―その身を守る者はいない。狐面は疾走し、神那の身を引き裂かんと太刀を振り下ろした。
がきん―激しい音、ちゃりと鍔ぜりあう音。狐面の太刀は、神那の目前、中空で止まっていた。
まるで見えない太刀に受け止められたかの様に。
「これ、は……」
神那は呟く―事態がわからぬのだ。ただ、誰かに守られた事はわかった。
「神那!下がれ!邪魔になる!」
身を起こした熊狩はそう叫んだ。その声に、神那は我に返り、熊狩の元へ駆けて行く。
「逃がすか!」
狐面はその背を負おうとするが、しかしまたも、見えぬ太刀にその行く手を阻まれた。
「ぐあああ、」
遮二無二太刀振るう―しかし、見えぬ太刀はその事ごとくを受け流していく。
「ぐうううううううああああああ!邪魔をするな!」
再びの一閃―しかしそれをも流されて、そして次に、狐面は額に衝撃を受ける―。
面を、額を割られ―狐面は後ずさった。
「キサマ……」
顔を抑え、狐面は呻いた。
――掴め。引きずれ。落として殺せ。全ては躯。共にこの暗がりの底に―
神那は殺す。だが、その前に……。
何も無い宙に、いつの間にやら面が浮かんでいた。傷のついた狐の面が、ぼうと。
「偽物め。真似るなど無粋にして迷惑な話。紛らわしいだろう……」
声がする―姿なき者の声。偽物では無い、本物の狐面の声が―。
――掴め。引きずれ。落として殺せ。全ては躯。共にこの暗がりの底に―
「がああああああああああああああ!」
*
外から咆哮が聞こえた。獣様に理性の無い咆哮―けれどその声は確かに、陽には覚えのある声だった。
―見ない方が良い。狙われているわけでも無いのに…。
「まさか、」
呟いて、陽は駆け出す。嫌な予感―凶兆を胸に外へと駆け出す。
すっかり人気の失せた通りに、狐の面が浮いていた。
そして、それと対峙する者がいる。半身を暗がりに、額からは血を流し、どこかぼうとしながらも獣じみた目をしている男――その顔に、陽は息をのむ。
「貴条、様?」
浴びる程の鮮血に染まる貴条―その歩みを示すように、通りには多くの躯が転がっている。これを、貴条がやったのか―。
「貴条様!どうされたのです?そのお姿は―」
「下がっていろ!」
近寄りかけた陽の足を叱責が止めた―貴条が言ったのではない。今言ったのは、狐面か。
「この男は妖刀に呑まれている。知り合いだろう?こいつにお前を切らせるな」
「妖刀、なぜ……貴条様!」
尚も陽は呼び掛ける―だが、貴条はその声に一切反応しなかった。
「なぜ…………」
ただそう呟くしかない陽―貴条はただ、太刀を構えた。いつも陽が真似ていた型で。
*
「八双……貴条。そうか、あいつか……」
狐面は呟いた―目の前の男の構え、名から思いだしたのだ。守人衆に、腕の立つ者がいたと―。
狐面は自身の姿を消している―面のみを晒して。面まで消せば狙いはずれて、神那を狙いに行きかねない。それにいくら狂おうと、背中から切ってしまう気にもならなかった。
腕が立つなら、尚の事―。
狐面は身を屈めた。二刀では無い―脇差しは未だ預けたまま。だがそれで技の冴えが失われることはない―一刀は一刀でまた良い。
下段、脇構え―ただ切り上げる事のみの構えで、狐面は機を待った。貴条も動かない―狂おうとも腕は落ちないらしい。
だが、工夫は無い―狐面は僅かに前へと身を揺らした。
途端、はじかれた様に貴条は動き出す。狐面が先に動いたと見て取り、応じてその身を両断しようというのだ。
だが、狐面の動きはただの誘いに過ぎない―自身の姿を隠し、面だけで動きを判断させるこの妖刀。面が少し動けば、反応してしまうのが腕の良さ―。
貴条は淀みなく流麗な動きで太刀を振り下ろす―だがその目測はずれている。
狐面は僅かに身を引いて、その一閃を空ぶらせた。そして刹那の間に再び踏み込む。
切り上げる―貴条の身を両断せんと。空ぶったばかりの貴条は身体の立て直しが効かず、狐面の一閃は貴条の腕を切り伏せかける。
暗がりがうごめいた―貴条が半身を包むそれが、貴条の体とは関係なく狐面を襲う。
いくつもの影、それは暗がりの色をした手―
狐面は飛びのいた。幾つもの手は空を掴み、しかし狐面を追って更に延びる。
「―く、」
歯噛みしつつ、狐面は距離を取り続けた。迫る黒い腕を切って捨てながら。
けれどどこまでも手は追い掛けてくる―切って捨て、切って捨て―けれど切り無く。
「仕様もない―」
狐面は呟く―途端、その姿は完全に消え去った。唯一見えていた面をも隠したのだ―どうやら貴条も、それで完全に見失ったらしい。
黒い手は闇雲に宙を掴んだのちに、引き戻って行った。
道を塞ぐように長く長く、いくつもの腕が競うように伸びては絡み合い―それは大木を倒した様。身の丈を優に超える太さの腕が真横に延びる。
何をする気か―単純な話。
「見えぬなら、まとめて吹き飛ばせば良い、か。強引な……」
狐面が呟く―直後、黒い腕は振るわれた。
ごうと風を吹き飛ばし、家屋を崩し、地面をえぐり―腕は振り回される。防ぐか、交わすか。どちらも出来ぬ―狐面も、力押しには弱いのだ。なれば、活路は一つ―切り伏せる。
狐面は駆けた―振るわれる腕は忘れ、この機に貴条を切り伏せようと。
距離は遠い―だが間に合う。姿を消したままに、狐面は貴条へと駆け、その身を間合いに捕らえ、上段から太刀を振り下ろす。
きん―その一閃ははじかれた。貴条の太刀によって。
居場所を知られたか―しかしなぜ?
疑問を持った狐面の目の前に、細い細い何かが―蜘蛛の巣のような黒い線が見える。その線は、貴条の周囲を目に見えぬほど細く、だが確かに覆っていた。
酷く細い、黒い腕―狐面はそれを知らず切っていた。そのために、居所を知られたらしい。
「―それで、狂っているとは。知恵も腕の内か」
呟いた狐面の身を、黒い腕がしたたかに打ち付けた。
*
見えぬ何かが、はじけ跳び、家屋にぶつかり壁に穴を開ける。勝った、狐面に―
「があああああああああ!」
貴条の口から勝鬨が吐き出される―狐面を倒したのだ。
――掴め。引きずれ。落として殺せ。全ては躯。共にこの暗がりの底に―
これで、障壁は消え去った。後は―神那を殺すだけ。
その一念―貴条はすぐさま周囲を見回した。神那はどこへ行ったのか―その後ろ姿が見えた。
神那は熊狩に手を引かれ、逃げ延びようと駆け出している。
「逃がさん……」
唸るように呟いて、貴条は逃げ出していく神那達を追おうとした。
しかし、その歩みの前に、また別の誰かが立ちふさがった。太刀佩く男装の少女が恐怖に打ち震え、今にも泣きそうな顔をしながら貴条の前で両手を広げた。
「う、あ……」
その姿に、貴条は足を止めた。知っている顔だ、知っている者のはずだ。だが―。
――掴め。引きずれ。落として殺せ。全ては躯。共にこの暗がりの底に―
記憶は暗がりに塗りつぶされていく―。
「おやめ下さい、貴条様……これ以上は、」
その声も知っている。知っているはずだが―。
「う、ああ、ああああ……」
――掴め。引きずれ。落として殺せ。全ては躯。共にこの暗がりの底に―
まるで思い出せない―。
「うああああああああああ!」
記憶の靄を振り払うように、貴条は咆哮する。けれど、それは振り払えず、貴条の記憶を更に深くへ引きずり落していく。
全て、奈落の底―思い出せない。
――掴め。引きずれ。落として殺せ。全ては躯。共にこの暗がりの底に―
不意に、貴条はだらりと脱力した。
「貴条様?」
正気に戻ったのか―淡い期待を胸に陽は呼び掛ける。けれどその期待を打ち払うように、貴条は太刀を構えた。慣れ親しんだ八双の型―その昏い目は陽を睨みつけていた。
「邪魔だ……」
貴条の声は冷たい―切って捨てられる。その視線を前に陽は身動き出来ず―ただ、絶望のみがその心に刻み込まれた。
貴条は自分をわかっていない―別のモノになってしまわれた。
ぽつり―水滴が地面に落ちる。それは陽の瞳から流れた水。そして、それに呼ばれでもするかのように、ぽつりぽつりと、空から水が降り出した。
今日は曇天―いつ降りだしても不思議ではない。
雨が、降り出した―。
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