3 安らぎと暗雲

 3 安らぎと暗雲


 ―切れ。切り捨て、名をはせよ。我はここにあり―


 石段を二人の子供が下りてくる―一人は鬼の娘。そしてもう一人は―――この面に傷をつけた者、雫。


 ―切れ。切り捨て、名をはせよ。我はここにあり―


 雨の日では無い。だが――出遭ってしまえばもはや止められぬ。


 ざらりと地を踏み、踏み出る―その音に雫は顔を上げた。


「これはこれは……確かに太刀を佩いてはおるが、闇夜では無いぞ。狐面よ」


 そう言って、雫は太刀に手を伸ばした。


 ―切れ。切り捨て、名をはせよ。我はここにあり―


 頭の中で声がする―もはやその声に抗えない。


「遭うては止まらぬ……我が望み、叶えてみせよ」


 その言葉と共に、狐面は進み出た。応じて、雫は太刀を抜こうとして―しかしその前に鬼の娘が進み出て、狐面へと近寄って来た。


「沙羅?危ないぞ、下がるのだ」


 雫はそう言う―けれど沙羅は聞かず、狐面の目の前に立ち、狐面まっすぐ見上げた。


 ―切れ。切り捨て、名をはせよ。我はここにあり―


「くるしい?」


 不意に―沙羅はそう言った。そして、沙羅は狐面へと手を伸ばす―


「いたいの?」


 ―切れ。切り捨て、名をはせよ。我はここにあり―


 頭の中で声は響く―切り捨てよと。だが―狐面は抗った。


 ―名をはすならば、幼子を切るべきではない。


 あるいは闇夜であれば、抗う事は出来ないのかもしれないが―幸運にも日は出ている。まだ、声に抗うことが出来る。


 幼子は掴んだ―見えていないはずの狐面の手を迷う事なく。


 ―切れ。切り捨て、名をはせよ。我はここにあり―


「いたくない、いたくない…」


 沙羅は優しく呟く―その身体が僅かに輝き、輝きは狐面に伝う。


 ―切れ。切り捨て、名をはせよ。我はここにあり―


 ずっと聞こえていたその声が、遠ざかっていく―胸の内の暗さが消え去るように。


 妖刀の力が消える―いつの間にやら狐面はその姿、襤褸の着物を晒していた。


「これは………」


 狐面は呟いた。訳はわからぬが、楽になっている。


「……鬼の術は、妖刀の穢れも癒せるからの」


 雫はそう呟いた。その手はもう太刀に添えられてはいない。警戒を解いているらしい。


 不意に、沙羅は狐面の手を離し、ふらつきながら雫の元へと歩んだ。

 疲弊しきった様相の後、沙羅は雫へと持たれ掛かり、雫はその身体を抱き留め、石段へと座らせる。


 そして雫自身をも石段に腰掛け、狐面へと尋ねた。


「なんと言われておったのだ?狐面」

「切れ。切り捨て、名をはせよ。我はここにあり―と」

「そうか。わしはしきりに渇くと聞いていたな、確か」

「お前も、呑まれていたのか?」


 呑まれる―力、妖刀の意思に。声は際限なく聞こえ、日の出る内はまだ良いが、しかし夜には夢を見る―武人と死合い、切り捨てる夢を。その夢の内容は覚えている―ただ、自分の意思で身体が動かないだけで。


 この一年、ずっと声は聞こえていたが―今は静かなものだ。鬼の力、か…。


「かつての。だが、わしは師匠に拾われ、癒され、そう。我に返ったのよ。今のお主のように。ま、完全に呑まれたわけではなかったようだがの」

「夜のたびに呑まれたさ。気付けば誰かを切っている……」

「だが、それも今日まで。であろう、沙羅」


 雫は沙羅にそう問いかけた。けれど、沙羅は首を横に振る。


「……黒いの、消えてない。私じゃ消せない」

「む。そうか……妖刀も、鬼の力も、長い程強まるからのう。沙羅はまだ、いささか若いか。ではいずれ、また聞くやもしれん」

「そうか……」


 この静寂は一時―それがあるだけましか。


「しかし、かつて良き者であったと聞いたぞ、狐面よ。好きで切っていた訳では無かろう?」

「かつても今も、ただの人切りに過ぎぬ。良い者のわけが無かろう」

「義賊などそんなものか……まあ良い。とにかく、これで狐はもう暴れぬな。なんともつまらぬが、よき幕引きよ。面を捨て、家族の元へ戻ってはどうだ?そのなり、長く放浪したのだろう?」

「今は、確かに声は聞こえぬ。だがいずれ聞こえるとも知れない。凶刃向けぬとも」

「そうか。…これも縁、頼みがあれば聞こう」

「……切ってくれぬか?」

「それが、狐面の望みか。断る。せっかく沙羅が癒やしたのだ。切らせるために癒したわけでは無かろう」


 雫の問いに、沙羅はこくりと頷いた。


「そうか……」

「それに、脇差しよ。神那様は見覚えがあるようだった。……もう一度問おう。帰る気は無いのか?」

「楽になった。礼を言う」


 それだけ答えて狐面は立ち去ろうとした。その背に、雫は声を掛ける。


「待たれよ、狐。返すものがある」

「傷か?」

「脇差しよ」

「否。預けておこう」

「む?」

「雨の日、だったな。それまで預けておこう」


 そう告げて、狐面は歩み去っていく―社へと背を向けて。


 *


 天手、才条にしなだれかかりながら、杏奈は言った。


「神那と鬼の子をさらってきなさい」


 突然の言葉に、貴条は異を唱える。


「は?……それは、一体。今更、何故…」

「北のお客様にせっつかれたのよ。こちらで急に反故にしてしまったでしょう?それが気に食わないらしくて、ねえ」

「ですが、見逃すと…」

「お客様はお怒りなの。このまま放置すれば、刃を持って襲いにきかねない。それは困るでしょう?襲われないにしても、北に嫌われては商売は立ち行かない。噂が回ればいずれ南もこちらを信用しなくなる。だから、取引はしないと、ね。責はおうと言ったのは貴方でしょう、貴条様」

「しかし…神那まで攫うというのは?」

「本当はね……別に鬼の子である必要はなかったの。ただ、年頃の娘であれば、ね。鬼であったのはただの謳い文句の一つに過ぎない。年頃のおもちゃが欲しかったんですって、お客様は。ふふ……好色よねぇ」


 そう笑った杏奈を、貴条は睨みつけた。


「それでね、今回は反故では無く、遅れであった事にしてくれるんですって。なんて、心が広いのでしょう。けれど当然、遅れの責は負わねばならない。色を付けろと……ふふ。同じ値で一人増やせ、とね」

「それで、神那を?」

「ええ。盗んだのはあの娘の手の者。責はあれにおってもらいましょう?性格はどうあれ、見た目は良いから……お客様も気に入るでしょう」

「………才条様もそうお考えで」

「当然でしょう。ふふ、ねえ、才条様」

「うむ……」


 才条はただ頷くのみ―完全にただの置物、人形だ。貴条は言った。


「…出来かねます。人を売る、ましてその様な人道に反す目的で売る為、攫うなど」

「あらそう?じゃあ、しょうがないわね。別を用立てましょうか」

「別……」

「言ったでしょう?年頃の娘であれば、誰でも良いと。……そう言えば、盗まれた日にこの城にいたわよねぇ、年頃の娘。あの子も見なかったことにしたとか。なれば、罪は同じ。責は負うべきでなくて?」

「な……」

「陽、と言ったかしら。良い子よね……。貴方を慕っていて。同じく売られ、才条様に買われ、自由を与えられ。誰かを慕い、微力なれど力になろうと女の身で太刀を握った。健気よねえ。でも、恩は返し、責は負うものでしょう?」

「貴様……」

「私を切るの?恩人である才条様諸共?ああ、怖いわ、才条様」


 そう杏奈がすがると、才条は傍らの太刀に手を伸ばした。

 才条は恩人。いくら乱心しようとも、それは変わらない。


「さあ、貴条様。神那と鬼の子を攫わせるか、あるいは身内に責め苦を負わせるか。返事を聞きましょうか。………お返事は?」


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