3 目くるめく縁日
3 目くるめく縁日
たった三日、されど三日。
札が立ってから縁日まではほとんど準備の間はなかったが、しかしそれでも騒ぎが好きな浄土の民、普段の仕事を止めてまで瞬く間に準備は進み、その当日には提灯、屋台に騒ぎの声と、立派な縁日の様相が成り立っていた。
ある者は稼ぎ時と気合を入れて客引きに声を張り、またある者は縁日は楽しむものと割り切って既に千鳥足で顔を赤らめている。
そんな喧騒が夕陽にのって入り込む差中、沙羅は真剣な面持ちで筆を取り、手本をそのまま書き写す。その様に、神那は優しく声を掛けた。
「そこは払うのです。そう、良くできましたね、沙羅」
今日は縁日―これまでの三日、熊屋は普段通りに商いを行っていた。縁日は楽しむもの―熊狩も神那もそう考えている為に、特に仕度をする事も無くその日を待っていたのだ。
今日この後も、熊屋ははやくに閉めて縁日へと遊びに行くつもり―その前に、と神那は沙羅に文字を教えていた。
字は一朝一夕に覚えられるものでも無い。ならば、日課として日々少しずつ教えているのだ。ひとたび遊びに行ってしまえば、今日はもう勉強する気にはならないだろうと―。
外から、ひと際大きな笑い声が響いてきた。その声に沙羅は筆を止め、羨ましそうに声の方向を向いた。それから、沙羅はねだるように神那に言う。
「……あねご。縁日、行きたい」
「これを終えたら往きましょう。縁日は逃げたりはしませんよ。どこぞの犬の様に…」
そう言って、神那は沙羅の横を向く―そこにはそろばんが一つ置いてあった。
自身で言っていた通り、雫はよく字を知っていた。ならば他をと考えた末、神那は算術でも教えようとそろばんを引っ張り出して来て、雫はこの三日、文句を垂れながらも沙羅の横で算術を教わっていたのだが、今日ばかりは少し目を離した末に逃げ出していってしまったのだ。
「…あにじゃ、ずるい」
恨めしそうに、沙羅は呟いた。まったく、その通り。沙羅の手前年長として手本を見せるべきところを―そんな風に神那は呆れた。
またも外から声―熊屋の中は静まったまま。雫はさっさと逃げていき、熊狩もまた早くに出て行った―どこぞで呑んでいるのだろう。
溜息一つ、神那は呟く。
「…仕方がありませんね」
外からの声のたびに沙羅はそわそわと気を散らしてしまい、どちらにせよこれ以上ははかどりもしないだろう。
「あねご。明日がんばる」
神那の声に遊びに行けると思ったか、沙羅は目を輝かせ、少しばかり機嫌を取るようにそう言った。
「良いでしょう。では、沙羅。片付けを。その後に、縁日へと赴きましょう」
神那の声に沙羅は嬉しそうにこくりと頷いて、てきぱきと後片付けを始めた。
その様を横目に、神那は微笑む。神那とて、縁日に行きたくないわけでは無い。共に回るのが楽しみではあるのだ。……どこぞの犬は、勝手に出て行ってしまったが。
*
「いや~賑わっておるの。ははは。これが音に聞く縁日。しかし、まさか金がいるとは…」
そこらの屋台、食事に飾りに遊びの場―それらを恨めしく眺め、雫ははあと息を吐いた。
雫は文無しである。熊屋で働きはしても、衣食住を得るのみで駄賃の類は貰っていない。
そもそも使い道もない為にこれまではそれで良かったのだが―こと縁日。金にうるさい浄土において、文無しはただ指をくわえ、恨めしく眺めながら歩む他にする事も無い。
「ああ、世知辛い。そも、神那様が金をくれぬから……わしは働いておるのに。小遣いくらいくれても良いではないか!」
と憤ってはみても、逃げ出してきた手前戻ってねだる訳にもいかず、ねだった所であの神那が甘い顔をするとも思えない。
「仕様がない。金成殿にでも頭を下げて……む?」
そこで雫は足を止めた。路肩にひそりと物憂げに、知った顔が佇んでいたからだ。
腰に太刀佩く男装の娘―陽だ。
「おお、これは…誰だったかの……確か、陽殿と言ったか?」
そう呼びかけると、陽はゆらりと顔を上げ、しばし雫を凝視した末に、首を傾げる。
「え?……どこかでお会いしましたか?」
「は?いや、わしだぞ、わし」
そう言った雫をまたしばし眺め、その末に陽はぽんと手を叩く。
「……ああ、熊屋で尻に敷かれていたお方」
「いや、…それは確かにそうだが……わからんのか?」
「何をおっしゃっているのか。…と、これで私も忙しいのです。立ち話なら、いずれ」
それだけ言って、陽はささと立ち去って行った。その背を眺めて、雫は呟く。
「むむ。もしや、面をつけておったのがわしと気付いておらんのか?……見たままだと思うのだがな……」
それから雫は自身の姿を見下ろす。声やら太刀やら気付いても可笑しくないと思うのだが……。
首を傾げた末に、雫は気を取り直した。
「とにかく、金成殿にねだりに行くか。しかし……陽殿。もしや、阿呆か?」
*
「阿呆ですね。文無しだのに…」
普段より少しばかり着飾って、神那は屋台のたびに目移りする沙羅を連れて、道行きながらそう呟いた。
「あほう?」
「雫の事です。まったく、」
首を傾げた沙羅にそう答え、それから神那は足を止めた。当面の行き先―金成の店に辿り着いたからだ。
「ここにあにじゃいる?」
「はい。おそらく、ですが。……もし、」
そう言いながら、神那達は店へと踏み入る―途端、それまで金成と話していた誰かがさっと物陰に身を隠した。
どうやら、勘が当たったようだ。
「お、神那殿……これはこれは着飾って。良くお似合いですな」
少しばかり顔を引きつらせながら、金成はそう世辞を言う。
「ありがとうございます。ところで、うちの犬がこちらにいらしておりませんか?」
「な、なんでまたそんな事を?」
「いえ、あの駄犬がせびる先などお見通し……どうせふんどし云々のたまった後、熊屋で礼をするなどと言ってせびろうとしたでしょうと」
「す、鋭い……」
呆れ冷や汗を垂らす金成を横目に、神那は店を見回して、先程身を隠した誰かを探す。
もっとも、探すまでもなく居場所はわかった―物陰から鞘が覗いていたからだ。頭隠してなんとやら、と神那は微笑み、その隠れている誰かに声を掛けた。
「あら。そこに隠れているお方は、どちら様で?」
その声の途端、隠れている者はびくりと身を震わし、それから覚悟を決めたか姿を現す。
……否。覚悟は決めていなかったらしい。
「な、何を言っているのかな!わしは雫ではないぞ!」
そう言って姿を現した雫は面をつけていた。いつぞや神那が与えた犬の面だ。
「誰も雫などと言う名は出していないのですが」
呆れて、神那はそう呟く。その脇で、沙羅は面を指差し言った。
「…わんわん」
「犬と呼ばんでくれ、沙羅……」
もはや正体を晒しているに等しい様相に、金成は呆れた。
「阿呆だ……」
「…まあ、良いでしょう。では、誰とも知れぬ方。貴方にお尋ねしたいのです。雫の居場所を知りませんか?」
「し、知ってどうするのだ?」
露骨に警戒しながらも、雫はそう問いかける。
「いえ、せっかくの縁日。良ければ共に回ろうかと思ったのですが」
「む、むむ……そう言ってまた虐げる気だろう!…と、雫なら言うぞ!」
神那の言葉に嘘は無く、ただそれだけにと金成の店まで雫を探しに来たのだが……しかし普段を思えばそう思われても可笑しくはない―慕われていると思っているわけでも無いのだ。
神那は頷き―少しばかり俯き、言った。
「確かに。…ならば、仕方がありませんね」
そうして神那は巾着を漁る。その様に、何をされるかと雫は怯え―
「な、何をする気だ!わしは雫ではないぞ!わしが虐げられるいわれなど―」
「お手」
しかしその声と共に差し出された神那の手に、雫は反射的に自身の手を置いていた。
「わん。……は!?わしは犬では、」
などと言って逃れようとした雫だったが、しかしそれに先んじて神那は雫の手首を掴み、その手を返した。
「その面をかぶって良く言いますね。では、これを」
そして雫の手の上に、神那は巾着から取り出した何か―重みのある包みをのせる。
「む?…なんだ、これは…重いが」
「いえ。どうにも、私よりも、貴方の方が雫と巡り合い機会もありそうかと。もし雫に会えば、これを渡してやって下さいな。たまの駄賃。好きに使って良いと」
そう言って神那は頭を下げ、それから沙羅に語りかける。
「沙羅。残りたければ、ここに残りなさいな」
そう言われた沙羅は、雫と神那を交互に見て、それから再び神那の手を取った。
「…あねごと行く」
「そうですか。では、往きましょう」
神那はそう言うと、沙羅を連れて店を後にした。
その背を見送った末に、金成は雫に問いかけた。
「良いんですかい、行かしちまって」
「ふむ……まさか、虐げられぬとはな。これぞ凶兆」
「前々から思ってましたが、雫殿。中々口が悪いようで」
「しかし…金か。のう金成殿。これはどの程度の価値だ?」
そう言った雫は包みを解き、中に入っていた銭を金成に見せた。
「そうですな…まあ、今日縁日で遊ぶ分には困らないのでは」
「そうか……ふむ。では、あの櫛は買えるか?」
そう言って雫は棚に並んでいたうちの一つ―特に派手ではないが品のある櫛を指差す。
「ええ、買えますが……まさか贈るので?」
驚いた金成に、雫は頷いて見せる。
「うむ。それも良いかと思ってな」
「なんでまた」
「考えてみよ、金成殿。神那様が金をくれたのだぞ?……裏が無いはずがなかろう。もしこの金で遊んだ日には、いずれそれを楯に酷い目にあわされるに違いない!」
「いや、流石の神那殿でもそこまでは……」
「であれば!この金で贈り物をしてしまう……神那様であっても一応乙女。形ばかりの誠意を見せれば多少態度が軟化するやもしれん!」
「本当に形ばかりですな…。悪知恵が利くのかただの阿呆かわからん」
「む。良いからその櫛をくれ!」
「良いのですかい?多分神那殿、そういうつもりで渡したんじゃないと思いますが?」
「良いのだ。…これでわしも一応、恩義は感じておる。食も宿も衣も頂き物よ。それに、なんだかんだと面倒見の良い神那様の事だ。追いかけてたかればこき使いつつもきっと遊ばせてくれようぞ!」
信頼があるのかないのか……そう呆れながらも、金成は頷いた。
「……まあ、うちとしては損もないしですし」
*
買った櫛を懐に、金成の店を後にした雫は、すぐさま方々に視線をやった。
「よし。これで神那様のご機嫌も取れるはず。さて、どこに行ったのか…いた。神那さ…」
そして彼方に神那と沙羅の姿を見つけ、声を上げ掛けたところで―
「あ!助平!」
そんな声が響く。声の主は陽だ。どうにもまだ、ここいらに居たらしい。陽は雫を睨みつけ、足早に駆け寄ってくる。
「ん?これはこれは陽殿。どうしたのだ、そんな形相で!?」
驚きに声を裏返しながら、雫は身を交わした―街中だと言うのに、陽がいきなり切り掛って来たからだ。
「危ないではないか!な、何をするか!」
そう喚く雫をどこか暗い目で睨みつけ、陽は言う。
「無論……切る。あの辱め…忘れん……ここであったが百年目!」
そしてその言葉と共に、陽はまた切り掛った。
「のう!?やめよ、怪我をするぞ!?」
「また馬鹿にして!」
やたらめったら切り掛られ、雫はじりじりと後ずさる。さっき会った時はほとんど無関心な風だったというのに、何故こうも狙われているか……面をしているからか。
「く、ぬう……相手をしていられぬわ!」
そう叫び、雫は踵を返して人気のない方へと逃げ出していった。
「逃げるな、助平!」
白刃を手に声を張る娘に追われながら。
*
何やら後ろが騒がしい―そう、神那は振り返った。しかし、その先には縁日の賑わいのみ。
「気のせい、ですか……」
そう呟いた神那の視線の先を見て、沙羅は言う。
「あにじゃ、来ないね」
「そうですね。まあ、慕われているとも思っていません。今日くらいは、羽を伸ばしても良いでしょう」
「縁日だから?」
「はい。兄上が言っておりました。縁日は自由に遊んで良い日だと。その日だけは、どこをふらつくこともなく、共に遊んでくれたのです」
「あにうえ?あにじゃ?」
「雫のことではありませんよ。兄がいたのです。遠出をすると言った切り、どこかへ行ってしまいましたが…」
そう呟いた神那の横顔は、提灯の明かりに照っている。
「さびしい?」
「いいえ」
「ほんと?」
「本当です。……そんなに睨まないで下さいな」
じっと見上げる沙羅の視線をくすぐったがるように、神那は微笑んだ。けれど沙羅は神那の微笑みをまたじっと眺め続け、やがて背伸びをすると神那の頭を撫でだした。
「よしよし」
その仕草に神那は少し驚いて、……それから優しく微笑んだ。
「ありがとう、沙羅。さあ、せっかくの縁日。楽しみましょう」
*
「てやあああああ、たああ!」
「のわ!?のわ!?……危ないぞ陽殿!自分を切るぞ!」
「舐めるな!」
「おお!?……今の鋭い、良かったぞ……ってそんな事を言っている場合ではない!なぜ、縁日に追われねばならんのだ!?」
白刃に追われ逃げる事いかばかりか―町を走る川を背に、ついに逃れる場がなくなった雫は心の底からそう叫んだ。
そんな雫へと、辱めを忘れんと頭に血が上った陽は叫ぶ。
「自業自得だ!」
「まあ待て。何を怒っているのか知らんが、話そう!腹を割って!」
「良いでしょう!貴様の額を割ってから!」
「それでは話せんだろう!?」
またも切り掛られ、もはや真っ当な逃げ場もない。後ろには川のみ……
「仕様もない……とう!」
そんな掛け声と共に、雫は着の身着のまま川へ飛び込んだ。
「川に!?……おのれ、そうまでして逃げるか!戻ってこい来い、助平!」
白刃を振り回しながら丘からそう叫ぶ陽を眺め、雫は呟く。
「そういわれて戻るはずがなかろうが……。まったく……」
そして雫はぶくぶくと、川へと潜り込んでいった。
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