3幕 企みが上の平穏
1 神那と沙羅
1 神那と沙羅
「ただいま帰りましたぞ~」
その声と共に、熊屋の戸が開き、厨房に立っていた熊狩は軽い調子で返事をする。
「おう、どこ行ってやが……その子は」
しかし中途でその声は強張った。帰り着いた雫の傍らに、娘がいたからだ。角のある娘―鬼の娘が。
「拾ってきたのだ。のう、沙羅」
あっけらかんと言い切った雫の横で、沙羅は頷き、ぽつりと言う。
「拾われてきた」
「……まさか、守人衆から攫ってきたのか」
「ご明察ですな。流石、熊狩殿」
「まったく、相談も無しに……」
呆れ果て、熊狩は頭を抱える。と、そこで話し声を聞いてか、店の奥から神那が現れた。
「おや、戻りましたか雫。まあ、そんなに汚れてしまって……可愛そうに」
「ははは、いや、これは少々蛙を―」
「お黙りなさいな、雫。私は今、この子に話しているのです」
「ぬ……やらせておいてねぎらいもないとは…」
雫の文句もどこ吹く風と、神那は沙羅の前にしゃがみ込み、目線を合わせた。そして、そこで気付いたかのように、沙羅の額に目を向ける。
「あら、かわいらしい。角が生えているのですね」
「ふむ、見える角は愛らしいの。どこぞの女郎のように心にある角とはまるで―」
「雫?何か言いましたか?」
「へい、まるで鬼のように勇猛果敢な心の持ち主だと言いました、姉御!痛い!?」
「姉御はやめていただけませんか。さて、可愛らしいお嬢さん。お名前は?」
そう尋ねられて、沙羅はぽつりと答えた。
「……沙羅」
「沙羅というのですか。良い名ですね。私は、」
「あねご」
「姉御ではありませんよ、沙羅。私は神那と言います。神那と呼んでくださいな」
「へい、あねご」
ぴき。なにかが割れたような音と共に、神那の笑顔は凍り付いた。
「雫。沙羅が妙な言葉を覚えたではないですか。この落とし前はどうつけるおつもりで?」
「指でも詰めましょうか、姉―痛い!?」
「なんと、余計な口ばかり挟むのでしょうか、この駄犬は。沙羅、これからこの者は駄犬と呼びなさい。さげすむ風に呼ぶのです」
「神那様!幼子に妙な言葉を吹き込むのは―」
「お黙りなさい、駄犬。さあ、沙羅。駄犬と。犬畜生と」
「だけん、いぬちくしょう」
「ぬ……自分に可愛げがないからとよその可愛げまで奪おうとはなんたる卑劣か!染められるでないぞ沙羅!駄犬などと呼んではいかんぞ!」
「へい、あにじゃ」
「兄者?沙羅、この駄犬は貴方の兄ではありませんよ?」
「へい、あねご」
その言葉に、神那は深くため息をついた。
「はあ。もう、良いでしょう。では、沙羅。まずは汚れを落としましょう。雫。風呂を炊いて下さいな」
「わしは今一仕事を終えて―」
「それすら出来ないというのですか?……この駄犬が」
諦めはすれど、苛立ちが収まっているわけでは無い。かつて無い凄みを持つ目で睨まれた雫は、まるで蛇に睨まれた蛙のように動けなくなった。
そんな雫を置いて、神那は沙羅を連れて風呂場へと向かう。
神那がいなくなった事で漸く動けるようになった雫は、震えた声で呟いた。
「……熊狩殿」
「なんだ」
「まこと、鬼は心に棲むのですな……」
「……難儀な」
*
頭上の窓から湯気が立つ……その真下で、雫はふうふうとふいごを吹いていた。
風呂を沸かすも一苦労、逐一加減をしなければならない。熱いぬるいと神那は一々うるさいのだ。
が、今日に限って、聞こえてくるのは文句では無く、どこか楽し気な声だった。
「……くすぐったい」
「沙羅。暴れないでくださいな。洗えません」
湯気と共に聞こえてくるそんな声に、未だ泥にまみれたままの雫は肩を落とした。
「なぜわしがこんな……わしが救ってきたのだぞ。泥にまみれ苦労にまみれ、挙句雑用。疲れたのう。……なにか役得があっても良いではないか……」
そんな文句をぶつくさいって、雫は羨まし気に湯気立つ窓を見上げた。楽し気な声が聞こえる窓―その向こうで神那と沙羅は湯につかっている。
「……そう、役得。役得よ。しめしめ…しめしめ…」
当然の如く邪な思いを抱き、にやにやと笑みを浮かべながら雫は立ち上がり、窓の向こうを覗き込もうとした。しかし高床が故か、雫の背丈では覗き込むには至らない。
そう背丈が足りないからと、これまでも毎日、雫は諦めてきたのだ。
だが、今日はそれで諦める気は無い。届かぬならば、窓枠を掴んで這い上がれば良いのだ!
「とう!今日こそは!いざ、桃源郷へ!」
その掛け声と共に雫は枠に掴まり、跳ねた勢いと腕力でもって風呂場を覗き込もうとして―その瞬間、濡れた腕に頭をがしりと押さえつけられた。
「痛い!?…こ、この腕、神那様!なぜ、ばれたのだ!?」
「雫。悪だくみは口に出さぬものですよ」
そんな事を言いながら、神那は窓から顔を出し、楽し気に雫を見下ろした。
よほど人を見下ろすのが好きなのか、濡れた肩の辺りまで晒していても、その笑みにまるで陰りは無い。
「く、くう……しかし、わしは屈しはせぬ!虐げられた日々の末、今日こそは桃源郷へ!」
意地でもと雫は両の腕に力をこめ、風呂場を覗き込もうとする。
途端、雫の頭を掴む腕の力が緩み、同時に意外な言葉が降ってきた。
「確かに、役得は必要かもしれませんね。では、手伝ってあげましょう」
「神那さ……痛い!?髪!?髪を引っ張るな!」
まさか、と期待を抱いたのも束の間、雫の髪が思い切り引っ張られたのだ。
痛みに雫はのたうち回り、枠から手を離して派手に尻もちをついた。
「はげたらどうする!」
涙目のままそう訴えた雫を見下ろし、神那はやはり満面の笑み。
「手を合わせて拝んであげましょう。よい輝きと」
「ぐぬぬ…この程度で屈しはせぬわ!とう!」
もはやひと時だけでも良い。役得を、と雫は両の足に力をこめ、思いきり跳びあがった。
跳ねて覗こうというのだ。そしてその思惑通り、雫は一瞬、窓枠の向こうを覗き込む事が出来た。しかし、見えたのはやはり、神那の肩の辺りまで。
そもそも今、神那は窓のある壁に身を寄せているのだ。これでは例え窓が雫の背丈より低かったとしても、肝心な場所は何も見えはしないだろう。
「く……見えぬ……神那様。もう少し、離れていただけないか?」
「態度次第では考えましょう」
それを聞いた直後の雫の決断は早かった。両膝を、そして両の手を地につけ頭を下げる。
「お願いします!」
まごうことなき土下座の姿勢で、雫は懇願した。
「まあ、貴方に誇りはないのですか、雫」
「誇りは、捨てる為にあるのだ!」
「良い言葉ですね。では、その意気に免じて考えましょう。考えました。お断りします」
にべもなくそう吐き捨てて、それから神那は桶ですくった湯をぱしゃりと雫に浴びせかけた。
「熱!?…くない。ぬるい…。く……ぐぬぬ、おのれ神那。………かくなる上は!ここに見せようぞ!我が妖刀の力を!」
雫の妖刀、水を目にし、耳にする力。すなわちそれは、覗きの為にある力といっても過言ではないのだ。湯を浴びせられた故に近場には水もある。もはや覗いた様な物。
しかし、待てど暮らせど桃源郷は見えもせず、妖刀は震えもしない。
妖刀は、雫に応えなかったのだ。愕然として、雫は妖刀に語りかける。
「な…そなた、裏切ると言うのか!」
妖刀は何も応えない。幾ら妖しかろうと刀は刀、一々返事をするはずがないのだ。
だが、雫は構わず語り掛け続ける。
「いや、そなたの言いたい事もわかる。このような事に使うなど、確かにそなたの矜持は許さぬであろう」
「……」
「確かにわしのしがない欲望、矜持の欠片も無いただの意趣返しである。しかして、考えても見てくれ」
「……」
「人を切る事に矜持があるのか?否、断じて否である。そこに矜持も無く、あるのは唯の意趣返し、愚かな願望の果て、ただの感情に過ぎぬのだ!」
「……」
「さればそこに何の違いがある!覗きと人切りの間に何の違いがあると言うのだ!否、ありはしない!どちらもかわらぬ罪深き行いよ!なればこそ、ここもまたそなたの戦場!思い出せ、師匠の風呂を覗いたあの時を!既に協力してくれたではないか!さればここで躊躇う故はないであろう!」
「……」
「…わかって、くれたのか…。さすが、わしの一部、ふんどしとならび、共に歩んだ相棒よ。さあ、共に行こうぞ!桃源郷へと!水とは我が目であり、耳であり、そして身体である!」
ついに妖刀は雫の声に応じ、僅かに震える。
同時に、雫には見えた。誇りを捨てた末の桃源郷、ただの風呂場、されど風呂場―いつの間にやら神那も沙羅もいなくなっている空っぽの濡れ場が。
「………なぜ、もうおらんのだ!」
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