2幕 鬼の子沙羅
1 妖しげな異国の女
1 妖しげな異国の女
一体、あれより幾日過ぎたか。多くの苦難、苦渋を飲み込み、もはや口癖になりつつある喜んで…。
「もはや、我慢もこれまでよ…」
未だ誰も目覚めぬ明朝早く、雫は一人声を抑えて気合を入れた。なぜ自分がこんな目に遭っているのか………全ては、師匠の羽織を取られている事が原因。ならばそれさえ奪えば良い。
場所については見当がついている。神那の目をかいくぐろうと努力しつつ家中探しまわったが、未だ影も形もない。ならばある場所はまだ探していない場所――神那の寝室だ。
今、神那はそこで寝ているはず。物音を立てればすぐにばれるだろう。あるいはいない隙を見て入り込めば良いのかもしれないが、雫がこき使われだして数日。
一体どう見ているのか神那の目を完全にかいくぐれた試しは無い。だからこそ、寝ている間に盗んでしまおうというのだ。
「ふふふ、別についでに寝顔を拝んでやろうとかそんな事まったく思ってないぞ……喋りさえしなければただ身目麗しいだけとか思っておらんぞ……しめしめ」
そう呟き、雫はすす、と戸を開けた。部屋の真中に布団は一つ。寝息と共に揺れている。
「おうおう、寝ておるわ。しめしめ……しめしめっ!?」
部屋へと入り込もうとして、雫は転んだ。ふすまが渕に足を取られ、すってんころりんと。そしてその音に、寝息はぴたりと止む。
「…………なんと騒がしい。なにごとですか……」
僅かに着物がはだけ、瞼をこすりながら、神那は身を起こす。少しばかりぽう、と呆けて、それから神那は雫に気付いた。
「…雫」
「はい、神那様!なんでございましょうか!」
もはや違和感も無くなった敬語に雫は静かに涙を流した。
「夜這いとは良い根性ですね、雫」
「夜這いでは無い!わしは羽織を取り返しに……」
「雫。邪な考えを持つからには、相応の覚悟はございましょう……」
神那はどこかぼうとし続けながらもそう言い放ち、神那はゆらりと立ち上がった。
「か、神那様………何やら普段に増して恐ろしい雰囲気が……」
「雫。覚悟は良いですね?」
「ひ、ひ、ひいいいいいいいいいい!?」
二度と寝ている神那は起こさない。雫はそう、固く誓ったのであった。
*
「お前……その顔どうしたんだ?」
店を開け、いそいそと動き回る雫の顔を眺め、熊狩はそう尋ねた。雫の顔に、大きな手形が張り付いていたからである。
「……わしは、羽織を返して欲しかっただけよ。それが、どうしてこんな…神那の女郎め!」
「聞こえていますよ、雫。ささ、働いて下さいな。あなたに手を休める権利は……」
そこで神那は口を閉ざした。店の戸があり、客がやってきたからである。
「いらっしゃい。……あら、」
実る穂積の色が髪。瞳は水面、映る空。白過ぎる肌、派手な着物を着崩した、どこか緩さの漂う女性。
その来客の姿に、神那は思い切り顔をしかめた。
「何をしに現れたのです、異国の方」
「あらお言葉。これでも、ここに馴染んで長いんだけど」
女性はそう答え、空いた座席に勝手に腰を下した。
「馴染む?浄土にすら居場所なく、点々と男を漁る女狐が良くもそんな事をおっしゃる」
「ここ一年は馴染んでいますわ、一つの場所に。しかし、その態度。これでも私は客よ?」
「では、注文を聞きましょう。茶漬けにされますか?ぶぶづけにされますか?」
「出してもらいましょうか、茶漬け」
平穏な店の一角に、世も末とばかりに火花が散っていた。いつの間にやら熊狩の姿は失せている。やたら逃げ足の早い……自身も続かねば。雫はそろりそろりと足音を忍ばせる。
「うむ……何やら触らぬ神になんとやらなご様子。剣呑剣呑……」
巻き込まれては身が持ちそうもない―が、そんな逃げが雫に許されるはずも無かった。
「雫」
「何でございましょうか!」
やけのように大声で、雫は神那に返事をした。そんな雫に、神那は微笑みと共に告げる。
「お客人が帰られるようです。お見送りを」
「いや、しかして神那様。このお方今いらしたばかりで…」
「雫?」
「喜んで!……あの、名も知らぬ異国の方?神那様がそうおっしゃっておりますので、まこと申し訳ないのですが、お引き取り願えないでしょうか」
もはや逆らう事は出来ぬ。肩を落しながらも、雫は来客の女性にそう告げる。
すると、女性はそんな雫をしげしげと眺める。
「どうされました、異国の方。わしの顔になにぞついておりますか?ああ、この手形は詮索せんでくれると」
「いえ、そうではなく。…へえ。ねえ、貴方。私の物にならない?どんな弱みを握られて神那の所にいるのかは知らないけれど、私の所の方が良い思いができるわ」
「良い、思いですと?」
「ええ。楽しい思いが……」
そう言って、女性は笑う。これ以上ない色気を漂わせ。
「た、楽しい思い。……ぐぬぬ、わしは知っておるぞ!その誘い文句の後は大抵良くない目に会うのだ!」
と言いつつ雫は女性へとじりじりと近づいていった。雫の性分として、抗えないのである。と、その背に冷たい視線、声が射貫いた。
「雫。貴方は犬の分際で好色を巻き散らそうというのですか。ああ、なんと、品の無い」
「犬!?…ついに犬でございますか……おのれ神那!もう良い、わしは決めた!この異国の方と楽しい思いを……」
「水を汲んできてくださいな、雫」
「く、ぬ……喜んで…」
神那の命にもまた、抗えない。それは雫の性分では無くしつけられた結果である。ぶつぶつと文句を言いながらも、雫は店を出ていった。
その姿に女性は残念そうに声を上げる。
「あらあら、可愛かったのに…」
「人の物と見るとすぐに手を伸ばす……本当に品の無い方ですね」
「つっかかってばかり。まだ私が貴方の大好きな兄様に何かしたと思っているのかしら?」
「なにをしに現れたのです?要件を済ませて去りなさい」
ぶつ切りに話を進めた神那に女性はにやりと笑う。
「……実は、耳寄りな話があってねぇ」
「ほう。葬式の日取りでも決めたのですか?明日ですか?それとも今すぐに?」
「あいにくと長く生きますわ。実はね、才条様が面白い商品を仕入れたの」
「商品、と」
「人よ。……珍しい種類の。北のお客様に売るんだそうで」
「それを私に言って、どうしろと。何が狙いです女狐」
「いいえ。……思い入れでもあろうかと思って。もし、まだ狐面がまともだったらどうしただろうってね。それだけよ」
それだけ言って、女性は立ち上がり店を後にした。本当にただ、その話をしたかっただけだったのだろう。何かしら企んでいる……それは神那にもわかった。
才条と言うのはここ最近あの女性が身を寄せている場所の主、その汚点を漏らすなど悪だくみがない方がおかしい。しかし、
「狐面なら……」
その言葉は、神那にとって重い物だった。
*
水を汲んですぐさま戻る――と、丁度異国の女性が帰る所に出くわした。
「む。帰られるのか異国の方」
そう雫が声を掛けると、女性は笑みと共に言う。
「杏奈。偶然、この国でも通用しそうな名前だったの」
「そうか、杏奈殿。覚えておくとしよう」
「貴方のお名前は?」
「降りしきる雨の下、雫だ」
「そう。……覚えておくわ、雫。仲良くしましょうね…」
そう言い残し、杏奈は歩み去っていった。時間から見て、食事をせずに去ったのか。そんな事を考えながら、入れ違いに雫は店へと入り込む。途端神那の文句が飛んだ。
「遅かったではないですか、雫」
「……これ以上どう早く汲んで来いと……」
「聞こえません、雫。もしやとは思いますが、犬の口から文句でも飛び出たのですか」
「ぐ、ぬ…」
「さて、用ができました。ついてきてくださいな」
「む?どちらへ行かれるので」
「来ればわかります。文句など、ありませんよね?」
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