2 狐面との死合い

 2 狐面との死合い


 月明かり薄い曇り空、雫は一人通りを歩んだ。


「太刀佩いて夜道歩けば現れるとは、なんとも簡単な話よ」


 その声と共に吐き出される息は白い―春ではあるが未だ残雪。寒さも残っている。


「まったく。こう寒くては応えるな。羽織もない。早く現れて欲しい物だ」


 適当に歩んでいる内に、やがて家屋が遠ざかり、水のせせらぎが近くなった。


 川があるのだ。冷たい小川。そして、一本の木。つぼみを実らせしかし薄紅の花が未だ咲くことのない枝垂桜。その横で、雫は不意に立ち止まった。


 木の向こう、残雪に足跡が現れ、薄闇の中、白い狐面が浮かび上がったのだ。


 ただし見えるのは足跡と面だけ―その身体は夜に溶け込んだようにまるで見えない。


「狐面。なるほど確かに、それは紛れもなく妖刀の類」


 雫は呟いた―途端、低い声が響く。


「汝、我が問いに応えよ。強者たり得るか」

「否。わしなど所詮は青二才。若輩であるが、そなたを切るに不足はなかろう」

「さればそれを示すが良い。汝、我が望みを叶えよ」


 りんと鍔がなる。どうも狐面は太刀が抜き払ったらしい。けれどその刀身もまた、闇夜に紛れ見えはしない。


 雫もまた太刀を抜き、脇構えを取った。刃は下に、刃先は後ろ。

 鞘とは逆の右の腰、その真横に鍔を置く構え。即座に太刀を振るうには、切り上げるほか無い手の限られた構えではあるが、しかし刃が身体の影に隠れるため、敵からしても間合いが測りにくい。


 敵の刀身は闇に紛れ、目視すら出来ず、故に間合いを測る事は不可能だ。その上でこちらの間合いをさらすのでは、ただでさえ不利なこの状況で、さらに相手に塩を送る事になりかねない。故に、雫はその構えを取ったのだ。出来るだけ対等な状況とする為に。


 とはいっても、相手の姿が見えず、相手の構えすらもわからぬこの状況では、雫の不利は変わらない。狐面からはどの軌道で刃が走るか見えていると言うのに、雫からは敵の打つ手を予想する事すらできない。

 見えているのは狐の面、そして足跡のみ。


 ゆらりと、狐面が揺れ、泥につく足跡がじりと進む。雫はただ狐面だけを睨み、腰を落とす。こちらからは距離をつめる事は無く、ただその場で狐面の動きを待った。


 せせらぎ、風が枝垂れをざわめかす―――やがて、狐面が動いた。


 雫の間合いの外、太刀では届かぬその距離で、狐面が僅かに沈んだ。太刀を振るう呼び動作。この距離で届くだけの間合いを持っていると言う事か。


 それを見た瞬間、雫は一切迷う事なく、後ろへと大きく飛びのいた。同時に耳を澄ます。


 太刀振り風切るごうと言う音、それが聞こえない。狐面の足跡、それも踏み出されてはいない。

 太刀を振るわなかったのだ。今の動作は、こちらを焦らせ、飛びつかせた後にしとめる、そういう意図を持ったものだったのだ。

 と言う事は、あるいは狐面の間合いが異様に長い、と言う訳でも無いらしい。

 見えぬその身体、刃共に異形とも言うべき長尺ではないのだろう。

 それともこちらが逃げると知ったが為に振らなかっただけか―結論を出すにはまだ早い。

 せめて一度は振らせてからでなくては、間合いを測りきれない。


 雫はすり足のまま、じりと狐面へと歩みだした。

 狐面もまた、歩みだす。


 此度、雫は下がる気はない。脇構えのこの一刀を振るうつもりである。既に縮まった距離、お互いの歩み。再びの交錯は間をおかず訪れる。先に動いたのは雫だった。脇構えから、一挙に太刀を振り上げる。

 

 闇夜に、刀身を隠す脇構え。あるいは間合いを測りかねていたのは、狐面も同じだったか。雫が刃を振り上げた箇所、そこは未だ、雫の間合いの外であった。例え振るったところで、その刃が狐面には届きようも無い距離である。しかし、その一閃に狐面は反応した。


 刀身が月夜に輝くことは無く、ごうという風切りのみが届く。

 振り上げた雫の刃、それが狐面との間で、中空で鈍い音と共に止まる。


 刃を切り合わせたのだ。二人はすぐさま、距離を離す―雫は今の競り合い、刃がぶつかった位置からどうにか狐面の間合いを測った。


 狐面の太刀、確かに雫のそれよりも少しばかり長いが、しかし大太刀、野太刀と呼べるほどの大きさでも無いらしい。重くもなかった―間合いは確かに雫よりも長いが、勝負にならないほどにその間合いが違っているわけでも無い。十分に対抗できる長さだ。


 間合いさえわかれば、例え姿が見えなかろうとも問題はない。姿が見えない、その本当の強みは闇討ち、完全に認識できていない時にある。だが、この狐面はそうはしなかった。わざわざ眼前に姿を現し、あくまで勝負を挑んでいる―腕試しでもしたいのだろう。


 けれどそうなれば、姿が見えないことの強みは半減する。残った強みは、構えがわからないこと、そして何より間合いがわからない事だ。

 だが、その間合いは既に知れた。間合いさえわかれば、構えが見えずとも裏をかく手はある。足跡、そして狐面で距離を測る事も出来る。ならばもう、おびえる必要もない。


 脇構えを正眼に。相手の喉下へとまっすぐ切っ先を向け、雫は三度距離をつめた。

 迷いの無い足取りで、狐面の間合いに踏み込む。その寸前、雫は進む足を一瞬止めた。慣性で前へと流れる髪、目の前を奔った狐面の見えない刃が、それを切り取った。


 しかし、切ったのは髪だけ。その刃が雫の身を切り裂く事はない。空ぶったのだ。姿が見えない。その事が相手にとって不利に働く点がある。それは、油断だ。自らの姿が相手からは見えない、その油断が、無数にある選択肢から安易な手を選ばせる。


 雫は、すぐさま最後の一歩を踏み込んだ。それにより、狐面を自らの間合いの内へと捕らえる。一刀を振るった直後、身動きしきれぬ残心の最中にある狐面へと、躊躇う事無く雫は太刀を突き出した。


 避け様のない一撃。雫は一寸先の勝利を確信し、口元に笑みを浮かべた。


 しかし、その勝利はすぐさま夜へと飲み込まれる。狐面へと突き出した太刀、その軌道が、僅かに逸れた。雫の意図したことではない。他の刃で弾かれたかのように、突如その軌道が逸れたのだ。

 貫くはずの刃は、その面を引っかくだけに留まった。


 外した。必勝の間合い、機でありながら決めきれなかった。ならばその後に訪れる隙は、雫にとって致命的なものだ。

 痛みが走った。鈍い痛みが、雫の右胴から這い上がってくる。切られたのだ。その事を認識するよりも前に、雫の身体に次なる衝撃が襲う。


 左胸、心臓へと、刃がつきたてられたのだ。わき腹には未だ刃が食い込んだまま、されどそのままに胸へも刃を見舞う。なるほど、空を切った直後に刃をそらすも納得か。


 傷跡から刃が抜けると同時に、雫は力なく泥の中へと倒れこんだ。


「…油断しておったのは、わしか」


 胸、脇から血が流れ落ち、泥へと吸い込まれてゆく。

 地に伏せ、焼け付く痛みに顔を引きつらせながら、夜空、枝垂れ揺れた木を背景に、浮かび嗤う狐面を睨む。


「…汝、強者たり得た。されど、我が望みを叶えるには足りぬ」

「ふん、強欲なものだ」

「名を聞こう」

「雫よ」

「そうか。覚えておこう」


 不意に、一滴の雨粒が零れ落ちる。


 どんよりと重い曇り空、そこからは雨が降り出したのだ。骨身にしみる、冷たい雨が。


「今更、雨とは。……水とは我が目であり、耳であり、身体である」


 雫はそう呟く―途端、その手の妖刀が僅かに震え、そして雫は狐面の姿を知るに到った。


 色まではわからぬが、あるいは元の色などもはや残ってはおらぬであろう襤褸をまとう、痩躯の男。右の腕には太刀を、左の腕には脇差しを握っていた。


 僅かに間合いが広かったのは、太刀が長かったのではなく、片手で、それも半身で振るっていたが為。必勝の一閃を防がれたのもまた、その二つの刃が為。

 なるほど、二刀を隠すのであれば、姿が見えぬのは良い手だろう。虚を突くにはもってこいである。


 狐面は倒れ臥す雫に最後に一瞥をくれると、刃を収め、闇夜へと歩んでいった。

 追いかける事もできず、闇にまみれ消え去る狐面を見送った末、雫は一人瞼を閉じた。


「…まったく。死ぬのか。久しい限り。…おっしゃる通りでした、お師匠。世は広い……」


 それを最後に、雫の意識は落ち込んでいった。

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