1.ひととせのひととき

ミツキは胡乱に水を浴びせる

『ミツキさん、今から仕事みたいっすよ』


 唐突に耳元で聞こえた声に、ミツキはびくりと肩を震わせた。

 何度も経験済みのことだとはいえ、やはり驚くものは驚く。ミツキは動揺を表に出さぬようにして、何食わぬ顔を取りつくろった。

 流れていた音楽を声が遮っている所為か、音楽の音量はいつもより小さく聞こえる。あるいは声が聞き取りやすいようにわざと向こうがそうしているのか。毎回そう思うのに、そういえば本人に確認したことはなかったなと、ミツキはぼんやりと思う。

 聞き慣れた声には、尚も続きがあった。


『今の居場所、図書館ですよね? シグさんもその辺にいると思うんで、適当に合流しといてください。俺も今から向かいまーす。そんじゃまた』


 そして声はまた唐突に止んだ。音量が元の大きさに戻る。

 声の音源であるイヤホンを手早く耳から引っこ抜くと、向かいに座っていた友人が何事かと顔を上げた。


「や、……ちょっと、用事を思い出した。悪いけど今日は先にあがるわ」


 短く説明して手早く荷物を片づけると、ひらひらと手を振り、ミツキは数人の学友に見送られながら少人数用の勉強部屋を後にした。

 足早に図書館の館内を出ると、ミツキは玄関先で辺りを見回した。図書館の周りにはちらほらと人が行き交っているが、目当ての人物は見当たらない。


 ふと思いついて、ミツキは意識を集中させると。

 当たりをつけた方角に向けて小声でもって囁く。


「シグさん。いるんだろその辺に」

「ばれた?」


 声がしたのは、ミツキが視線を向けた先。

 図書館入り口を出たところの左側面の壁に、一人の青年が寄り掛かっていた。


 しかし、つい先ほどまでこの場所には誰もいなかったはずだった。いくらなんでも玄関先に人がいれば、外に出たときに気が付く。

 にもかかわらず、あたかも最初からずっとそこにいたかのように、彼、シグレこと通称シグは、悠然とその場へたたずんでいたのだった。銀縁の眼鏡をかけた眼差しの奥には、悪戯めいた色と一抹いちまつの口惜しさとが入り混じる。

 体重を預けていた壁から身を起こし、シグはミツキの隣にやってきた。


「見つかっちゃったかー、全員揃うまで隠れてようかと思ったのに」

「イツキさんからいるって聞いたし、そう思って探せば、まあ。

 ってか仕事の前に遊ぶな社会人」

「まーまーまー、ちょっとした暇つぶしっていうかね。誰か見つけてくれないかなーっていう」

「来たのが俺じゃなかったらどうすんの」

「永遠に一人かくれんぼ? うわ寂しい」


 軽口を叩いてから、ミツキは改めて辺りを見回す。


「イツキさん、は、まだ来てない?」

「まだだね。さっきまであいつはゼミだったみたいだし、終わってからこっちに来るまで少し時間かかるだろ。でもクロードに連絡してからだとしても、そろそろ来るんじゃないの」

『クロードさんは女の子と楽しそうにデートしてるよ』


 ミツキとシグとの会話に、別の声が交じった。

 シグと顔を見合わせてから、ミツキは頭上に設置されていたスピーカーを見上げる。


「イツキさん。そこ、派手」

『え、だって他に誰もいないし』


 三人目の声は、放送用に設置されたスピーカーから聞こえてきていた。先ほど、ミツキのイヤホンから流れてきたものと同じ声である。

 シグはちらりと後ろの図書館を振り返り、様子を窺う。


「図書館から人が出てきたらどーすんの。一般の方がびっくりしちゃうよ」

『大丈夫、そこは防犯カメラをチェック済みです。出てきそうな人はいないよ』


 シグの懸念を振り払い、声の主であるイツキはどことなく弾んだ声をあげる。


『クロードさんがさあ、なんだか楽しそうで邪魔するの悪いし、二人ともこっち来てよ。図書館出てすぐ近くの広場にいるからさ』

「イツキはそっちにいるの?」

『うん。面白いからこの場を離れたくない』

「このやろう」


 笑いながら悪態をついて、シグは歩き始めた。ミツキもやや遅れてそれに続く。

 図書館からしばらく歩くと、三方を校舎に挟まれた空間が現れる。人通りが少ない場所で建物に挟まれてはいるが、南側が開けているため比較的日当たりもよく、学生たちのたまり場になっていた。広場には何組かのテーブルとイスが置いてあり、暇を持て余した学生たちがまばらに陣取っている。

 そのうちの一つに、携帯電話を手にしたイツキが座り込んでいた。


「あ、来た来た。お疲れーっす」


 二人に気付いたイツキが軽く手を挙げた。

 自分もイツキの隣の空いた椅子に座り、シグは周囲に視線を配らせる。


「で、クロードはどこよ」

「そこそこ。あの反対側のテーブルに座ってます。院生が無垢な大学生たぶらかしてます」


 イツキが携帯電話でもって指し示した方角には、彼らと同じく揃いのブレザーを着たクロードが座っていた。

 イツキやシグが主に緑色や紺色ベースのネクタイとスラックスに身を包んでいるのに対し、クロードは赤ベースの制服であるためにそれだけで若干目立っている。同じチェック柄のネクタイとスラックス(ないしはスカート)が基調のデザインとなっている彼らが学園・レッドカストルの制服は、色は各人で自由に選択が出来るとはいえ、男子で赤ベースのデザインを選ぶ者はやや珍しいのだ。

 もっとも制服の色で言うのならば、この場所で一人だけ白のブレザーに身を包んでいるミツキの方が、余程浮いてはいたのであるが。


 クロードと隣り合って座っているのは、イツキの報告通り、まだ二十歳そこそこと思しき若い女だった。何やら話し込んでいるが、会話の内容までは聞き取れない。

 2つのテーブルはそれなりに距離があるが、それでも20メートルも離れてはいない。3人の位置からクロードのことがよく見えるように、クロードの方からもこちらはよく見えるはずだった。だが、彼はまるでこちらに気付く様子はない。


「連絡は?」

「普通にメールしたけど気付かないし、伝達できるような機械もクロードさん今は持ってないから」


 イツキは肩をすくめてみせた。

 面白そうにシグが口元を緩める。


「さっきみたく、スピーカーで校内放送してやりゃいいじゃん。『クロードさん、女性から3件ほどお電話が入っております。迷惑ですので今すぐお越しください』みたいに」

「あーなるほど、女の子の前なのに『ヒカリさんとハルカさんとコトネさんからお電話が入っておりますよ!』みたいにね!」

「うっわ、具体名あるとリアル」


 実際にやる様子を色々と想像してみて、色々と想像しすぎたがゆえに思わずミツキは鳥肌を立てた。


「ホントにやっちゃだめだよイツキさん」


 一応とばかりに制したミツキへ、イツキはおざなりに弁解してみせる。


「やだなぁ、僕がそんな酷いことするわけないじゃないですか!」

「うわ、こいつ止めなきゃマジでやりそう」


 ぼそりとシグは笑いながら呟いた。

 少し首を傾げて考えるそぶりをしてから、イツキはぴんと人差し指を立てる。


「じゃーまー、校内放送は後々のクロードさんの評判に関わるからやめといてー。

 こういうのはどう?」


 額を寄せ、小声でイツキは案を伝えた。

 イツキが話し終えてから、イツキの案で実行犯となる予定のミツキが苦言を呈する。


「いや、流石にそれはちょっと可哀相じゃね?」

「でもクロードさんのためにも、僕らの業務の円滑な遂行のためにも、ここでビシッィっとやってやらなきゃですよ! 大義名分だ仕方ない!!」

「やりたいだけだろ、イツキ?」


 シグが核心を突く。

 が、彼の表情は楽しむ気満々の色はあれど、反対する素振りは見受けられない。


「やりたいのは否めないですけど」


 イツキも否定しなかった。

 2人の反応を見て気の抜けた声を漏らしながら、ミツキは緩慢な仕草で頬をがり、と掻く。


「あー、まー……いっか!」


 クロードのためにやんわりと止めてはみたものの、持論を固持するほどでもなかったらしい。建前であるとはいえ、さっさとクロードを引っ張ってこなければ仕事が進まない、というイツキの言い分ももっともではあった。

 早速、実行犯のミツキは行動に移す。


「ま、ま、あくまで偶然といいますか、事故を装って、……と」


 ミツキは狙いをつけてクロードの背後に建つ校舎を見定めると、右手を開き、ひょいと何かを招きよせる仕草をした。彼が見つめる先には、ちょうど開け放たれた窓がある。

 その窓から、透明の液体がにわかに流れ出てきた。


 水、である。


 量は、大きめのバケツ一杯分は悠にあるだろうか。窓からあふれ出た水は、重力に従って、地面に向けて小さな滝のように流れ落ちた。

 ただし慣性の法則とは裏腹に、窓から自然に流れ落ちたにしては不可解なアーチを描いて。


 直撃したのは、クロードの頭上。


 頭から水をかぶって、当然の如くクロードは全身びしょ濡れになった。

 あまりに突然の予期せぬ出来事に、クロードは目を瞬かせてしきりに上を見上げている。


「ミツキさん、あんま偶然や事故で頭上から水は落ちてこないっす」

「ま、それは誤差の範囲内ってことで」


 半笑いでのイツキの指摘に、ミツキはいい加減に答えた。ミツキは声を立てて笑うのを抑え、くしゃりと笑みを浮かべる。


「やあクロードくん! 奇遇だね! どうしたんだい、いい天気なのに水浸しで!」


 2人が話している間に、気が付くとシグは彼らのテーブルを離れ、クロードの所に駆けつけていた。彼も彼とて行動が早い。

 シグは、双方とも状況が飲み込めないうちに、あれよあれよという間に一緒にいた女の子を適当に言いくるめ、クロードをこちら側へ引っ張ってきてしまった。

 相手が水浸しになった上、シグに連れ去られたので、やや呆然としながらも女の子はそそくさとその場を立ち去るしかなかった。


「何!? 何なの!? 俺が何したの!?」


 制服から水を滴らせながらせわしなく辺りを見回し、事情をまだ把握しきれていないクロードを3人は温かく迎え入れた。


「やあクロードさん、御機嫌よう!」

「流石クロード、水も滴る色男だね!」

「まったくですね! 女の子には逃げられたけど!」


 にやにやと笑みを浮かべた3人に、どことなく察しがついたようで、クロードはひくりと唇を引きつらせる。


「おーまーえーらー!」


 それ以上クロードが何かを言う前に、イツキが先陣を切ってまたしても畳み掛ける。


「えー? なんのことだかちっとも分からないなあ」

「そうそう、あれは不幸な事故だったんだよクロード!」

「大変だったねクロードさん、お疲れ!」

「お前ら、マジ最低だ……」


 クロードは濡れた制服を抱きかかえるようにして、その場にずるりと座り込んだ。

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