スカーレット・キーパー

佐久良 明兎

プロローグ

彼は彼女に未来を託す

 何かが壊れたような、がしゃんという派手な音が鳴り響く。


 一枚の絵画の前だった。絵画の下に付けられたプレートには、ごく小さな字で“SNOW WHITE”と記されている。

 壁に掛かる絵を覆っていたガラスが砕け、薄汚れた赤い絨毯じゅうたんの上に破片が散らばっていた。そしてガラスの他に、桃色の幾重にも連なった大きな布が落ちている。


 いや。

 布ではない。ほとんど布地に覆われてしまっていたが、布の端からは白く細い腕がのぞいて見える。装飾のように布の上へ広がった栗色のフリンジは、よくよく見れば絹のような髪の毛だと分かった。


 それは、華美なドレスを身にまとった一人の人間だった。


「キサぁ!」


 涙目の少女が、倒れている人物にしがみつく。うつろな目で顔を上げた少女、キサは、自分を覗き込む双眸そうぼうに気付くと、小さく息を吐き出しながら呟く。


「ヨウ……あんたも助かったのね」

「うん。いっくんが、助けてくれたの」


 ヨウと呼ばれた少女はやはり目に一杯の涙を浮かべたまま、こくこくと頷いた。

 なだめるようにヨウの頭を撫でながら、キサは傍らにいるもう一人の人物を見上げる。


「ありがとう。……あとの二人は?」

「まだだ。まだ、見つけられない」


 憔悴しょうすいした様子で、彼は右手を額に押し当てる。

 肩でぜいぜいと息をしながら壁により掛かっており、今にも床に崩れ落ちそうだった。


「畜生。無駄にあちこち広すぎて、どこを探しゃいいのかさっぱり検討が付かない。早く。早く行かないと……!」


 彼は壁に手を突きながら、体を引きずるようにして部屋の扉のところまで歩み寄った。キサは慌てて体を起こす。


「ちょっと、その状態じゃ無理よ! 私もヨウもいる。後は私たちに任せて休んでて」

「そうだよ! これまでずっと、いっくんに任せきりだったもの。しばらくじっとしてた方がいいよ」

「……駄目だ。これ以上は、時間切れ……だ」


 険しい表情で扉を睨みつけながら、低い声で彼は告げた。

 微かだが、扉の向こうから誰かの足音が聞こえ、彼女たちは息を飲む。ヨウはぎゅっとキサの手を握りしめた。

 不意に真顔になると、彼は唇を引き結んで振り返る。


「逃げろ、キサ。ヨウと一緒に、逃げてくれ」

「逃げるって、どうやって……」

「こうするんだよ」


 彼は、二人の前に右の手の平をかざす。彼が何をしようとしているのか理解し、キサは仰天して立ち上がろうとする。

 が、上手く体勢を整えることができずによろけてしまい、再びその場に倒れ込んだ。

 座り込んだままでキサは声を荒げる。


「ちょっと、何やってんのよ! これ以上、術を使ったら!」

「こうするしか、ないだろ」


 にやりと、彼は笑みを浮かべてみせる。


「キサとヨウ、二人分の鍵は手に入れた。今の状態じゃ、どの時点になるかは調整が利かないけど……前でも後でも、二人は抜け出せるはずだ」


 先ほどより、足音が近づいてくるのが分かる。震え上がったヨウはキサの腕に抱きつきながら、しかし不安そうな眼差しで彼を見つめた。


「そしたら、いっくんは、どうなるの……?」

「どうもならないさ。二人が、いい具合に書き換えてくれるんだろう?」


 キサとヨウ、二人の周囲に、淡い青色に光った光の粒が集まってくる。粒子は次第次第に数を増していき、やがて銀河のように二人の周りをぐるりと取り巻いた。


「こうなったら、根本的なところを叩くしかない。

 あいつらを見つけるんだ。奴らを、諸悪の根元を潰すしか、僕らが生き残る道はない。……キサならそれができる」


 彼は掲げていた手を下げると、静かにその場に座り込み、二人の頭を抱きかかえる。


「頼む。行って彼女を、助けてくれ。お願いだ、……“スノー・ホワイト”、“サンドリヨン”。

 僕らは奴らの呪縛から逃れて幸せにならないといけない。念のために僕の『名前』を教えるよ。僕は、『ナリィ』だ」


 いよいよ足音が扉の前までやってきて、鍵がかかっているのを知るや否や、扉へ体当たりする音が聞こえる。

 彼は二人を突き放すように離すと、背で扉を押さえつけた。


「いっくん!!」


 ヨウが手を伸ばすが、しかし青白い粒子の渦は勢いを増し、二人を飲み込んだ。片目でそれを見届けながら微笑むと、彼は早口で叫ぶ。


「ただ、一つだけ。一つ、言っておかないといけないことがある。

 戻った先で、僕に会うことがあるかもしれない。けれども、その僕は――」


 最後まで聞くことはできなかった。

 ぐらりと視界が揺れたかと思うと、何者かに後ろからぐいと強く引っ張られるような感覚に襲われ、二人は暗い空間へ放り出された。

 次第に彼の姿は遠ざかっていき、やがて視界には闇しかなくなる。まるで宇宙空間にでも放り出されたかのような、眠りに落ちる直前のような、そんな浮遊感の中にしばらく身を置いた後。




 彼女は、目を覚ます。

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