匂いの進め


 バスが来ない。ずっと来ない。かれこれ三十分は待っている。ずっと来ない。私が乗らないバスばかりが来る。私のバスはずっと来ない。どこにも行けない。

 バスを待ちながらタクシー乗り場を横目に見やる。すっと高く手が上がる。遠慮がちに上がる。挨拶をするように緩く振られる。先生当ててくれと自己主張の強い手もある。いっぱいあるを思う。


 タクシーはどうにも乗れない。メーターの数値が上がるたびに、胸が苦しくなるからだ。切なくて、見ていられなくて、けれど目が離せなくて、恋でもしているのかと思ってしまう。時よ止まれと、真剣に思ってしまうのだ。それがどうにも体と財布に悪い。たった一度の乗車でそう悟った私は、それ以来タクシーのお世話になっていない。遠くの世界の乗り物だと、つね羨望と言い知れぬ思慕、淡い嫉妬を胸に見つめている。

 タクシー乗り場の列は尽きない。その人の多さに物を言いたくなったが、きっとよくないものだと心を噤んだ。「あんなもの」は誰かに向けた途端、返ってきそうだから。仕方がないので「あんなもの」をバス乗り場から見つめる。

 ふらふらと手が上がった。中空を泳ぐように細っこい腕が揺れる。その姿に、彼女を予知して、彼女を見つける。彼女だった。

 黒いタクシーが彼女の前に停車して、恭しくその扉を開いた。彼女は身を屈めて乗り込んでいる。そうだ、あのメーターも苦手だが、車内の匂いも苦手だったと思い出した。彼女はあの匂いに何を思うのだろう。顔を顰めるのだろうか。それとも、人に珈琲を押し付ける時と同様に、何でもない涼しそうな顔をしているのか。

 目を凝らす。彼女の表情を一目見たかった。黒が滑らかにこちらへと向かってくる。何を待っているんだと笑われたような気がした。

 バスを待っているのだ、三十分も、と睨み返す。負けたくなかった。黒が近付いてくる。運転手の顔が見えた。彼は遠く先を見つめていた。すぐに後部座席が目の前にくる。

 矢張り彼女だった。目を閉じていた。顔を顰めてもいなかったし、笑ってもいなかったし、いつものようにぼんやりをしていなかった。彼女はただ目を閉じていた。

 これでは届かないではないかと思った。目を閉じられてしまっては、手を振っても何しても見てもらえない。彼女の世界に私は登場できない。いつも以上に届かないを思った。

 バスが来た。私のバスだ。私を目的地に運んでくれるバスだ。扉が開く。バスの匂いよりも先に、人の体臭の塊が外気を押しのけ暖気とともに襲いくる。数度のアナウンスの後、扉が閉まる。電車よりも幾分か柔らかな蒸気の音と、黒い排気ガスの臭いがした。

 乗れなかった。

 匂いに押し戻されたのか、何なのかわからない。けれど結局のところ私は乗れなかった。瞳を閉じた彼女の横顔を思い出す。いい気持ちも悪い気持ちもしない。なぜだか泣きたくなってしまった。きっとまたバスは来ない。ずっと来ない。

 タクシーにでも乗ろうか。

 そんなことを思って踏みとどまる。予想通りでは味気ない。踵を返す。バス乗り場にも、タクシー乗り場にも向かわない。家に帰ろう。そして隣の部屋に住んでる後輩に連絡を入れるのだ。あいつは原付を持っている。私は免許を持っている。ヘルメットも借りてしまおう。SHOEIのいいやつだ。ついでに手袋も借りよう。ポールスミスのいいやつを。

「原付を貸してくれませんか。ヘルメットもです。手袋があれば嬉しいです。あの虹色です。すぐ近くに行くだけです。お礼はしますから、お願いします」

 どうにも匂いがダメだったのです、とは付け足さない。煙まで吸わせてしまったら要求過多だ。

 果たして、そこまで考えてはたと思う。いつから私まで煙を纏ってしまったのだろう。吸いすぎたか、伝染したか、元からか。どれも本当だろうと結論づけたら、随分といい日になったような気がした。

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