味の形

 

 講義終わり、生ぬるい空気のように彼女は教室を後にする。大抵ひとりでいる彼女は物静かに息をしている。その背中を慌てて追いかけることが増えた。あの飲み会以来だ。あれから、私と彼女は時々一緒にお茶をするようになっていた。

 だいたい彼女は暇だった。私もだいたい暇だった。互いの余った時間を常温で混ぜ合わせる。暇つぶしの形は往往にしてそんなものであることが多い。


 彼女は水しか飲まない。どんなに雰囲気のいいお店でも水しか飲まない。私が頼む。紅茶を頼む。セイロンを頼む。彼女はメニュー表を一瞥して、ひどく穏やかな顔で「ブレンドコーヒーとお水をひとつ」と言う。そしてその「ブレンドコーヒー」はいつだって私のものになる。温かい紅茶と冷え切ったブレンドコーヒーは意外と相性の良い組み合わせだった。

「どうして水だけしか飲まないの?」

 外の空気で冷え切ってしまった両の手を擦り合わせながら問う。もう冬だ。温かい飲み物を飲めばいいのにと、言外に滲ませてみる。彼女は水の入ったプレスチックのコップをつつきながらその温度を確かめているようだった。

「水はまるいから」

 まるで他は「まるい」ではないような物言いだ。だったら紅茶は三角なのだろうか。思うと途端に、口に含んだ紅茶が尖った気がした。彼女の世界は相変わらず曖昧だ。だからこそボールを投げる。

「紅茶は?」

「少し、さんかく気味」

「さんかく気味」

 よくわからないボールが返ってくることは多い。そういう時はとりあえず手にとって、音にして噛みしめる。だいたいよくわからない。目の前にいる彼女を遠くに思う瞬間だった。慌てて覗く。

「味は形?」

 ぼうっと窓の向こうを見ていた彼女がこちらを向く。目を合わせてくれる時は決まって一呼吸があった。「覗けたぞ」と、刹那の満足とわずかの緊張が胸に色づく。閃光にも似ていた。

 彼女はふっと息を吐くと同時にわずかに視線を下に落とした。言葉を選ぶ。再びこちらをみる。言葉が決まったらしい。ゆったりとした動きがどうにも常温を似ているから、この時間はやはり暇つぶしなのだろう。安堵する。彼女が口を開く。

「形と色と質感」

 今度のボールは幾分かわかりやすい。私は声にしない場所でそれを静かに復唱する。それは私の器に染み込んで揺れていた。確かに煙を吸っていると思う。彼女はふいと意識を窓の向こうに戻して、ぼんやりの形をしていた。

 言葉を重ねて追い縋ろうか、わかったように紅茶を口に含もうか。彼女がくすくすと笑う。幾許かの逡巡を見抜かれたようで居心地が悪かった。けれど彼女は変わらず外の世界を見ていた。

「寒そうだね」

 背の低い女性がマフラーに顔を埋めるようにして歩いていた。猫背のその姿に、まるいと思った。だから言ってみる。

「彼女は水だ」

 突拍子を失う真似事は楽しかった。彼女は一瞬きょとんとして、こちらを見ることなく言った。

「水だね」

もわりと空気が膨らむ。暖房の温度が上がったのかもしれない。まるいの女性が凍えるさまを膨張した世界から見ていた。凍ってしまったらどうしようと思って、ハッとする。

 彼女は私を見ていた。覗いたのか、覗かれていたのかわからなくなった。きまりが悪くなって紅茶を飲み込む。ぬるかった。砂糖は溶けないだろう。常温はものを溶かすのに最適なはずなのに、なんてことを思った。

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