―― 89 ――

 あなたは咄嗟とっさに檻をつかみ、力を込めて前後にすった。だが檻は頑丈で、少女ひとりの力ではびくともしない。

 なんだ、ここ……。

 その答えは、すぐに得ることができた。

 そうだ、あたし、あのとき遊園地から出してもらえると思ってあやしいジジイについて行ったんだ……。

 そしてなぜか楽屋に通されて、出されたお茶を飲んですぐに眠りに落ちてしまったのだ。

「お次は本日の超超目玉商品、獣女けものおんなです!」

 大音量のエコーとハウリングの混じった声が聞こえた途端、天井に設置されてある三つのスポットライトが、一斉にあなたの檻へ集まった。じりじりと、三日三晩風呂に入れず汗と土とほこりに汚れた体が、浴びたこともない光力に刺激を受ける。

 いつも以上の尋常でない熱を体に感じて、焦燥しょうそうが押し寄せていた。舞台袖に立つ道化師を装った老人に、あなたは叫んだ。

「ここから出せ!」

 あまりのまぶしさに目を細めながら、あなたはふたたび檻にしがみつき、両手を前後した。すると、さらなる歓声が沸き上がった。前方のせまい通路には、身動き一つするのも難儀そうな人の群れがあった。彼ら彼女らは明らかに観客だった。檻のなかで叫ぶあなたを見て、ある者は猿のように手を叩き、ある者はわけのわからぬ歓声をあげ、奇妙な興奮を示していた。よく見てみれば、男性の割合が高く、子供の姿はあまり見られない。

 観客の方を照らす、見るからにあやしい色をした薄暗い照明が、甘ったるい麝香ムスクの微粒子を鮮明に浮き上がらせていた。

 この様子じゃ、いくら叫んでも声は狂騒きょうそうにかき消されるのが関の山だ。そう判断して、あなたはもう、なにも声にしなかった。できなかったのだ。自身の内にむ悪魔が、具現の時を前にして高揚こうようしているのがわかったから。

 ついに、あなたは檻をつかんだままうなだれた。静かになったあなたに、観客はまたもや沸き上がる。観客はあなたの一挙手一投足にいちいち興味を持ち、目を輝かせ、行き過ぎた反応を寄越していた。

 早くなる動悸がアイツを呼び寄せる――。

 吐き気をもよおす頭痛がアイツを呼び寄せる――。

 立っていられなくなる眩暈がアイツを呼び寄せる――。

 群衆の狂騒にうなされて、密閉された開場にのぼせて、熱気と汗と麝香の入り混じった、熱くて、酸っぱくて、甘ったるい臭いが吐き気を底上げする。

 ああ……だめだ……このままじゃ……。

 変化の波長はすぐそこまで来ていた。もう三度の変化をむかえているあなたは、実際に変化が起こる間近の感覚を理解していた。そしてその波が、いま体のあらゆる部分を駆けめぐっていったのである。

 このままじゃ、また、みたいに……、


 ――――淡青うすあおの部屋。


   ――――ごりごりとした、骨の舌触り。


      ――――甘酸っぱい、甘美な肉の味。


 また、頭にあのときの映像が去来する。

 やはりあの光景は、脳裏に焼きついて離れはしない。

 ぼやけた視界の向こうに、ふと、姉の顔が思いえがかれた。

「あね、き……」

 虚ろげに、あなたはつぶやいた。

 見慣れた姉の整った顔は、やがて血ににじみ、頬骨に穴が空き、至る部分が損壊そんかいしていく――。その幻想を、あなたは歯を食いしばりながら見ていた。

『なにかあったら、わたしが絶対にたすけてあげるからね』

 いつかの姉の言葉が、頭のなかで反芻はんすうされる。

「なら……」

 声は、震えていた。

「なら、たすけてくれよ……」

 それは、何事もひとりで成し遂げることをだれにも譲れぬ強さとしてきたあなたが見せた、はじめての弱さだった。


 そのときだった。

 あなたのなかで頑なに守られてきた信条しんじょうが、鮮やかに砕け散ったのは。


 ――もう無理だ、と。

 あなたの体が反応した直後、出口付近から「ここは危険だ! 逃げなさい!」という声が歓声に割って入った。拡声器によって大幅に増大されてはいるが、その声にはたしかに聞き覚えがあった。

 疲労感に打ちひしがれた体をあげ、あなたは観客の方を見咎みとがめた。すると、出口の方から人波に逆らってこちらへ向かってくるふたりの姿が見えた。

 男と女であった。

 手前の男は拡声器を口元にあて、逃げなさい、と同じ言葉を連呼していた。よく見てみればそのふたりは、二度も自分のことを助けようとしてくれた、あのおじさんとおばさんではないか。

 どうしてここに……。

 そんな声がのどい上がったが、それも次の瞬間には打ち消されていた。――ドクン、と。ひときわ大きな拍動はくどうが総身をほとばしったのだ。

 もはやこの場所での変化は避けられないと、あなたは諦めるしかなかった。


 ――だからせめて、えてみせた。


 血と涙の味を知りすぎた壊れた喉で――。

 いくつもの命をってきた罪深き口で――。

 十代の少女にはふさわしくない、しゃがれた声で――。

 獣のごとく、あなたは吼えてみせた。

 おじさんとおばさんと同じ、「逃げろ」という言葉を。

 ……しかし、そろそろ不審に思うも、その声にしたがおうとする観客の姿はなかった。

 体の重心がさまよい、五臓六腑がうなりをあげているなかで、あなたは切に思った。

 せめてあんたたちだけは、ここに来てほしくなかった――と。

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