―― 90 ――

 そこはどこかの町の砂浜だった。

 晴れ渡った空からはやわらかな日が射し、海原うなばら燦々さんさんときらめかせていた。

 真冬なのに、寒くはなかった。

 つないだ手のぬくもりがあったからだ。

 幼いあなたのとなりには、あなたが姉貴と呼ぶ少女ひとの姿があった。姉といっても、その決め手となったのは産まれてくる順番が先だったというだけの、ほんのささいなちがいしかない。それでもあなたにとって彼女は姉で、その手のぬくもりだけが、あなたのすべてだった。

 母は死に、父からは捨てられ、居場所さえ失ったその時となっては――。

『実はね、これからはお父さんの親戚の叔母さんのところでお世話になるのよ』

親父おやじの?』

『そうよ。お父さん、仕事が忙しくて面倒見切れないらしい』

 あなたの口の利き方や一つ一つの言葉遣いが品性に欠けているのは、この頃から同じだった。いいや、この頃のほうが現在いまよりもずっとマシだったかもしれない。

 かたや姉はといえば、あなたよりも成長が早くて、髪も綺麗だった。運動もできて、勉強に関しては人一倍できた。目上に対する言葉遣いもなっていたし、とにかくあらゆる物事においてあなたの上を行っていた。だがそんな姉に対して、少しばかりの妬みはあったものの、あなたは「なんであたしだけ」と身の上を恨んだりひねくれたりすることはなかった。むしろ誇りに思っていたくらいだった。

 そんな姉の姿を見て、あなたはある日から心に決めたことがあった。

 姉貴がなんでも無難にこなせる人間なら、あたしはそんな姉貴の面潰しにならないよう、周りに面倒をかけないように生きよう――と。自身が姉のような人間ひとにはなれないと悟ったうえで、「あたしにも、だれにも負けないものがほしい」と思い考え得たのが……ひとりで生きる強さというものだった。

 それからであった。

 あなたがだれに対してもびず、甘えず、寄り添わず、寄せつけず、微笑ほほえむことすら滅多になくなり、少女の格好のまま精神だけが異様に大人びて、孤独をつらぬくようになったのは。

『……そう』

 あなたはなにも応えることなく、海風になびく姉の長髪を横目に見ていた。

『姉貴だけ行っちゃうの?』

『そんなさびしいこと訊くんじゃありません。もちろんあなたも一緒よ』

『ふーん』

『でも、これだけは覚えておいて』

 あなたは姉を見て小首をかしげた。

『叔母さんのところで、わたしたちは叔母さんの家族になるの。けれど、本当の家族はわたしたちふたりだけ。あなたの家族はわたしで、わたしの家族はあなただけ。これから生きていくなかで、たとえだれかからどんな奉仕を受けようとも、どんな甘い言葉をささやかれようとも、こころから信頼し合えるのはわたしたちだけなんだからね』

 言い終えるにつれて、姉の語調はじょじょに強まっていった。この時点で、姉はあなたの見知らぬ未来を見据えていた。やっぱりあたしの姉貴はあんただけだと、幼くともあなたはそう確信していた。姉の存在は、あなたにとって唯一無二なるものだった。

『だから、なにかあったら、なによりもまずわたしに言ってね。かならず、よ』

 姉は顔を近づけて言った。

『なにかあったら、わたしが絶対にたすけてあげるからね』

 あなたは言葉なくしてうなずいた。

 一定のリズムで押し寄せては引いていた波の間隔が、どんどんと広くなってゆく。

 漠然と、夢の終わりが近づいていると、あなたは思った。そして、できるならばいつまでもここにとどまっていたいと、切に願った。自分の罪も悲しみも絶望もなにもかも忘れて、失った人あねきといられるなら、いつまでもここに――と。

 しかし、いずれさざなみは間隔すらなくなり、アナログテレビの砂嵐のような耳障りな音へと変化した。波の音に似た、だが鼓膜をじかに刺激する不快な音だった。深いまどろみの中、あなたはその音の正体に気がついた。それは現実の音だった。それに気づいた途端、思い出ユメのなかの幼くてまだ無垢だった手が、まどろみが浅くなるにつれて大きくなって、そしてけがれていくのがわかった。


 ああ……。

    姉貴…………。


 あなたは薄くまぶたを開けて、自分の両手を見た。

 大粒の涙が、手のひらに落ちていくのがわかった。


        もう少しでも長く、あんたと居たかったよ…………。


 それは泣訴きゅうそ悔恨かいこんの涙だった。

 けれどその想いは、記憶のなかの彼女あねきにさえ届くことはないのだろう――と、あなたはさらなる悲しみにおぼれた。

 姉貴は死んだんだ……。

 あたしの無慈悲なひと突きで……。

 出来事あやまちが、なによりも強く、なによりも深く、抉るようにして、あなたの胸に突き刺さった。


 ごめん……。

               あたしのせいで……。

                   ごめん…………ほんとに…………。


 これまで物静かなさざなみだった音は、いつしか人ざかりが生み出す喧騒けんそうとなってあなたの耳を犯していた。総身に、まとわりつくような気持ちの悪い汗がにじむ。それはまちがいなく予兆のものだった。

 最悪の目覚めだと思いながらまぶたを開き――、そうしてはじめて、あなたは気づくこととなった。

 自分が、四角い長方形のおりのなかに閉じ込められていることに。

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