―― 88 ――

  ――刹那せつな、会場にいたすべての人の視線が、あなたという一点に集結した。いな、そのときにはもう、あなたはあなたではなくなっていた。

 人間ヒトという像を失い、猛毒におかされて凝固ぎょうこした血液みたく舞台にしたあなたは、おもむろにわだかまるにつれて、元の人間よりもずっと大きく、たくましく、威圧的な存在となっていく――。

 変化へんげの全容を見届けただれもが、あっけにとられ、刮目かつもくし、息を呑んでいた。

 しんと静まり返っていた会場に突然、けたたましい金属音が響きわたり、鉄製の破片が弾け飛ぶ。獣の体躯たいくが、檻の収容可能な体積を大幅に上回ったためだった。

 続いて若い女性の悲鳴がこだました。女性の頬にはかすり傷があり、そこからは血がしたたりはじめていた。今さっき飛んできた檻の破片がかすったのだろう……女性の周りの人はそう思った。

 ――が、女性のおびえた眼差しの先にあるものを見て、みな同様に目をいた。そこには胸に鉄の棒が突き刺さり、倒れ込んでいる男性の姿があったからだ。

 その事態に気づいた晋三は、すかさず拡声器に向けて声を発した。

「言っただろう、ここは危険だ。みなさん一刻も早くここから離れるんだ!」

 会場はたちまち数々の悲鳴とうめき声におおわれた。ようやく抽象的な危険をさとった群衆が、晋三と智代の避難の声に応えて、こけつ転びつ、一目散に屋台を飛び出して行った。

 晋三は智代をまもるようにして、人の荒波に埋もれていった。


 観客のいない舞台でスポットライトが照らしているのは、荒い息遣いきづかいを繰り返して静止する獣の存在だった。

 血流が煮えたぎるのを感じながら、あなたは巨躯きょくのなかに我を覚えた。

 ――大丈夫だ。

 ――今回も大丈夫だった。

 ――ちゃんとあたしがいる。

 ――ちゃんとあたしが残ってる。

 ――このままこの遊園地から脱出して山を駆け登れば、このあいだのような惨劇は生まれない。この巨躯なら、きっとさっきの急斜面も登りきれる。

 大丈夫だ。本能が暴走を起こさないか限り――。

 走り出そうとしたところで、舞台袖から聞こえてくる拍手の音に、獣が反応した。そこにはまだ、ひとりだけ、観客が残っていた。あなたを眠らせて檻に閉じ込め、見世物にしたこの屋台の店主の老人であった。

 なに、してんだ……よ。

 あなたは唖然となった。

「素晴らしい!」

 目を涙でうるませ、どこか恍惚とした表情で、老人は近づいてきた。

(……殺せ。)

「やっと帰ってきてくれたか……」

 その期待と希望をたたえた瞳は真剣そのものだった。しかし、老人が近寄って来れば来るほど、あなたは本能的な衝動を抑えることに理性を力ませた。

 来るな……。

(……殺せ。)

 まるで間欠泉かんけつせんのようによだれが湧き出し、口のなかをいっぱいにする。しかしそれは食欲という二文字で済ませられるほど安易な欲望しろものではなかった。人間の空腹時に感じるあの感覚とは明らかにちがっていたのだ。なんというか……そう、たとえるなら今にももがき苦しみそうなくらいの強烈な、それはであった。

(……ハヤク、)

 来ないでくれ……!

      (……コロセ。)

 今にも暴れだしそうな獣の本能を、理性でなんとか食い止める。しかしもう歯止めが効かないと直感した後、獣は咆吼すると老人に飛びかかった。だが間一髪のところであなたの理性が捕食本能を食い止め、飛びかかった勢いを保ったまま外へと転がり出ることとなった。ぶちあったった壁は薄く、たやすく外に出ることができた。

(……ナゼ、)

「待ってくれ! なぜ逃げる!」

 背後から老人の悲痛な声が聞こえてきたが、あなたはできるかぎり無視するように獣のからだに言い聞かせた。

(……ドウシテ、)

 飛び出た先、目の前には大勢の人がいた。その光景を視界に収めるやいなや、あなたはさらなる頭痛に視界がかすんだ。

(……コロサナイ?)

 

――――第二章へつづく

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る