―― 92 ――

 それにしても熱い……。

 今が冬であることを忘れさせる熱さだった。それがこの会場の熱気なのか、それとも予兆にともなった自らの体温なのか、あなたにはまだ判断できなかった。ただ、布切れ一枚しか羽織っていないというのにこの酷暑こくしょは、異常とも言えた。

 人と人のあいだを縫いながら進んでいると、あなたはとつぜん何者かに手首をつかまれた。手首の方を振り向くと、そこにはあなたより身長の高い男が三人いた。三人とも肌を褐色に焼き、ひとりは口元にピアスを、もうひとりは耳を拡張していたが、未だに手首を離さない大男はふたりのように特徴的な部分はなかった。強いて言うならば、ボクシング選手のように隆起した胸筋や二の腕の筋肉が威圧感を放っていた。

「離せよ」

 この数十秒間で熱気がいちじるしくなっている。熱が予兆のものだと察したあなたは、イラつきながら言った。しかし大男の手は力を抜こうとはしない。

「おい」

「いーじゃねーか、一緒にまわろうぜ、な」

 直後、あなたは勢いよく大男の方へと引き寄せられた。その際、それまでまとっていた布切れが体から離れて、地面に落ちた。

「おお!」

 男どもは三者三様に驚き、いやらしい表情を浮かべていた。そのとなりでは家族連れの父親が――彼もまたいやらしい目つきで――あなたを凝視してきたが、そばにいた母親が目を吊り上げて「あんた息子の前でなに鼻の下伸ばしとんねん!」と平手打ちをかましていた。

 そのほかにも大衆から舐められるような視線を注がれたのにもかかわらず、あなたは見られても一向に構わないというように堂々と立っていた。

 ――第三者からすれば、まちがいなくそう見えたはずだ。なぜなら裸一貫になっても、あなたのつらは恥じらいの赤を浮かべることもなく、あくまでも不動のままで、くわえて胸部や恥部を隠そうとする様子もなかったからだ。

 しかし実のところ、あなたも一端いっぱしの乙女であるからには当然、その羞恥しゅうちを柳に風と受け流すことはできなかった。あなたは女という部分に関してたしかに無頓着むとんちゃくな部分もあるものの、恥じらいに対して浅はかなわけではない。――ただ、感情を表現することが、他人ひとよりもっぱら苦手なだけで。

 真っ裸になってもにらんでくるあなたを見て、大男がわずかにどよめいた。その隙をとらえると、あなたは大男の股間に会心の一撃を入れた。蹴りではなく打擲ちょうちゃくであった。すると、大男はわけのわからぬ断末魔だんまつまを上げ、地面に倒れてしまった。よく見ると、大男の口元からは泡が吹き出ていた。

 意外と簡単だな……。

 と、油断した隙だった。あなたは後ろに回り込んできたもうひとりに羽交い絞めにされてしまった。

「離せッ、このッ」

 身動きしても、男は断固として離れなかった。すこしでも左を向けばすぐそこにある男の口から、酒臭い息が放たれる。これにはさすがのあなたも不愉快そうに表情をゆがめた。

「こら! やめんか!」

 いきなり体が解放されたかと思うと、あなたを羽交い絞めにしていた男は背後で昏倒こんとうしていた。倒れた男のそばでは、老人が杖を肩にかけていた。きっとその杖で、頭でもどついたのだろう。

 老人は紫色のスーツを着ていた。落ちくぼんだ眼窩がんかの奥で、冴えた黒目がぎょろりと動き、もうひとりの男をにらむ。すると、男は分が悪いと察したのか尻尾を巻いて逃げていった。

「ありがと」

 あなたが言うと、血色が悪いうえに起伏のない薄い顔がこちらを向いた。それから老人は一度驚愕し、続いてあなたの腕をつかんだ。

「その格好でこの場所は危険だ。またさっきのような畜生に絡まれるといけない。来るといい」

 そう言って、老人は歩き出した。この人ならきっと外に出してくれるだろう。そう思い、あなたは拒むことなく老人について行った。

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