―― 93 ――

 あの屋敷を飛び出してから、どれくらいの時間が過ぎただろう……。あなたは体が熱を帯びていくのを感じながら、山のなかの斜面を下っていた。

 ふと、土踏まずに痛みを覚えたあなたは、歩みをとめて足の裏をたしかめた。この三日間、特に村を出てからの一日はずっと足場の悪い土地を走っていた。人間の体に戻ってからも、走り続けていた。そのせいで足首から下は傷だらけで、血と土とほこりにすすけていた。

 ついこの間まで綺麗でやわらかかった皮膚は、いまでは石のように硬くなっていた。そこら中がれ上がり、疲労もとうに限界を超えていた。地面いっぱいに敷かれてある枯葉の絨毯じゅうたんがなければ、今頃もっと大変なことになっていたことだろう。

 そんな足を指先で揉みほぐすあなたの表情に、ほんのわずかに、ほころびが生じた。かつて、姉に冗談で『人殺しの顔』とまで言われた、感情の露呈が極めてすくないその顔に――。

 なんでこんなことになったんだろ……。ついこの間までは姉貴もいて、おばさんもいて、貧しくともそれなりに楽しい生活を送れていたはずなのに……。

 それは口元がやや吊り上がった程度の、取るに足らない微々たる苦笑で、同時に自らの境遇をあざける嘲笑ちょうしょうでもあった。

「……ぜんぶ、この呪いのせいだ」

 つぶやいて、あなたはふと、大切な人たちとの日々を思い返した。

 ……大切なひとがいた、はずだった。

 勤勉きんべん美貌びぼうの持ち主で、だれに対してもやさしく、村の子供たちからも羨望せんぼうの眼差しを受けるような、姉という存在。あたしたちは双子だというのにも関わらず、姉貴は、決定的にあたしとはちがっていた。性格も、顔つきも、スタイルも、頭の良さも、なにからなにまであたしより優れていた。そしてそんな姉貴を、あたしは誇りに思っていた。

 ……もうひとり、大切な義母ひとがいた、はずだった。

 両親を失ったあたしたちを引き取ってくれた、父方の叔母おばさんだ。僻地へきちにある寒村かんそんで、叔母さんはときどき舞い込んでくる仕事の稼ぎを生活費にてながら、あたしたちの面倒を見つづけた。親戚といっても、長いあいだ疎遠になっていてもはや他人とも言える親族の、それも双子だ。預かって育てるとなれば、それなりの覚悟と苦労が必要なのは言うまでもない。しかし、叔母さんは引き受けてくれた。そしてあたしたちがちゃんと自立できるまで育て上げた。それは一生をかけても報いきれない大変な恩義だった。あたしたちにとって叔母おばさんは、もうひとりの母親だった。

 ――けれど、すべてはほんのひとときのうちに失われた。

 あなたは指紋が剥げた手のひらに視線を落とした。

 この手が、この呪いが、姉貴を、叔母さんを、しあわせな時間を、平穏な暮らしを奪っていった。大事なものを、ぜんぶ奪っていったんだ。


 ――ゆるせない。

 ――赦しちゃいけない。

 ――赦されるわけがない。


 あまりのくやしさに、あなたは歯ぎしりを立てた。固めていた拳のなかからは、いつの間にか血がしたたっていた。昨夜ゆうべ、屋敷のエントランスで藻掻もがいていたときに欠けたり割れたりけずれたりした爪が、無意識のうちに手のひらの肉をえぐっていたようだ。

 あなたは手から視線を移した。

 木々の隙間からは、薄いオレンジ色の空がのぞいていた。

 あなたのほのぐらい瞳には、夕陽とはちがう、憎悪の炎が灯っていた。

「赦さない――」

 この体に宿る怪異かいいが、たとえば産まれたときからあるなんらかの先天的せんてんてきな病気というなら、まだ許せたかもしれない。だってそれは、だれが悪いというわけじゃなく、本当にどうしようもないことで、ありのままの事実をありのまま受け止めるしかすべがないから。

 でもこれはちがう。

 あきらかにちがう。

 夜になれば体が人から獣に変身して、朝になれば元の姿になる病気なんてあるわけがない。たとえどんな名医にどう熱弁されようとも、うなずけるはずがないのだ。……となれば、これはもう呪いと考えるしかない。山月記さんげつき李徴りちょうは人食い虎に変身し、白雪姫は呪われたりんごを食べて死に、灰かぶり姫は最終的に姉たちの足を切り落とさせることになって――って、これはちがうか。

 とにかく抽象的ではあるけれど、この怪異はそういった呪いの類でしか説明できないものだ。呪われた者がいるってことは、呪った者ももちろん存在するはず。

 赫然かくぜんと湧き上がる怒りにまかせて、あなたはすべての息を吐き出すように言ってみせた。

「絶対に赦すもんか……」

 この呪いをかけたやつには、あたしと同じか、それ以上の絶望を与えてやる。そして苦しみ悶えるような殺し方で殺してやる。そう、蹂躙じゅうりんだ――。

 それはあの晩、村から逃げ出したとき自分に立てただった。あなたは今もまだ復讐という烈火に燃えていたのだ。しかし、その轟轟ごうごうと盛る炎が燃やし尽くそうとする者の正体は、依然として判明できていない。その糸口さえ見つからない不完全燃焼の状態が続いていた。

「情報がいる……」

 つぶやいて、あなたは血のついた親指の爪を噛んだ。

 なにかしらの情報……。たとえば、あたしと同じような呪いを持った者に遭遇できれば、それを得られるかもしれない。あたしは父の精子と母の卵子が結びついて産まれた紛れもない人間の子供なのだから、呪いは後天的なものにちがいない。なら、これだけ広い世界に、あともうひとりかふたりは同じ境遇の人間がいてもおかしくはない。

 なんにしても、行動を起こさないと結果はついてこない。とにかく今日は安全な寝床を探そう。人気ひとけがきわめて少なく、かつ防寒性にすぐれた寝床を。

 ……そんな場所、ここらへんにあるのかな。

 自問自答して歩きはじめようとしたところで、あなたは枯葉に足をすくわれて斜面を転がり落ちてしまった。さいわい、転がり落ちている途中に出っ張った岩などに体をぶつけることはなかったが、平地に着いたときの衝撃は想像以上のものだった。

「いったぁ……」

 きしむ体を持ち上げてなんとか立ち上がると、目の前には見たこともない景色が広がっていた。

 そこは尋常でない光と人の密集地だった。回転木馬や観覧車、巨大シーソーといったアトラクションが、いろんな色の照明にいろどられながら慌ただしく稼働していた。

 それだけではない。人という人があちこちを行き交う様子は、まるで虫かごの底を蟻で埋めたみたいで。つづいて耳をふさぎたくなる喧騒のことを考えると、蟻のほうがまだマシだと、あなたは思った。

 いずれにしても、ここに長居していては最悪の事態を招くおそれがある。あなたは背後を振り返り、急すぎる角度の斜面を確認した。この体じゃ、ここから登ることはできない。そう判断して、あなたは仕方なく人ごみのなかへ足を踏み入れた。まちがっても、幻惑的な狂騒きょうそうに誘われたわけじゃない。早急に出口を探すためだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る