―― 94 ――

 最近になって拍車をかけるようにして増加したトルエン中毒の若者らを対象とした取り締まり、及び警備。そのために、わざわざとなり町からも警ら隊が駆り出されていた。

 実はこの三年間、未成年の犯罪率がひときわ高くなるのはカーニバルが開催されるこの晩だというデータが取れていた。犯罪者はもっぱらトルエン中毒者で、そこに飲酒が加わった者はおおむね精神に異常をきたしていてなおさらタチがわるい。

「ちょっと、そこのあなた」

「わたしかね?」

「そうです、」

「もしかして、取り締まりというやつかね?」

「そうです」

「わたしに貴重な時間を割くくらいなら、入口付近でバイクを空ぶかししとる連中を補導するほうがよっぽどいいと思うがね」

 そんな不良どもがいるせいで、かなえ恒道つねみちは七三という歳にもなって自分よりも幾回りも若い警察官に事情聴取を受けることとなった。その原因は左手からぶら下がっているヒトの頭部にあると、彼は自覚していた。

「先に言っとくが、この頭部もあくまでも商品であって、自分は決してあやしい者じゃない」

 恒道は遊園地の団長から許可をもらい、この場所でとある屋台を開いている者だと説明した。すると一度はうなずいたものの、まだ疑わしいのだろうか、警官はあろうことか商品に手を伸ばしてきた。

「触れてはいかん。これは商品だと言っただろうが」

 いくら商品とはいえ、やはり警官は疑いを持っていた。恒道からすれば、それはそれで商品の出来栄えがいかに精巧せいこうかを感じることができて名誉なことであったが、今はわずらわしい気持ちが勝っていた。

「もういいだろう。行かせてもらうぞ」

 話を終えてもまだ送ってくる怪訝けげんな眼差しを背中で受け止めながら、恒道は自分の屋台に戻った。

 せまい楽屋に入るや否や、恒道は椅子に深く腰掛けて瞑想めいそうに入った。ショーの前、彼はいつもこうして精神を統一するのだった。

 肩の力を抜き、まぶたの裏に広がる景色を見つめる。そこには今朝けさの景色が広がっていた――。


 彼の朝は趣味のウォーキングからはじまる。日の昇らぬうちに家を出て、セイレーンの歌声のような潮騒しおさいを耳に残し、海沿いをつたって宮市市役所までたどり着くとそこからまた山道を迂回して歩いて帰るのだ。

 今朝も例外なく同じコースを歩いていた恒道は、その帰り道、丘の草原をとおり過ぎたところで赤い車とすれちがった。車は自分のすぐ後ろで停まったため、彼は歩みをとめて後ろを振り返った。しかし、車からだれかが降りてくる気配もなく、彼は妙だな……といぶかっていた。

 すると次の瞬間、視界の片隅でが起こった。

 すぐさま視線を移して確認すると、そこでは信じられない事象が起こっていた。彼は、まるで子供がウィンドウ越しのおもちゃを見るような眼差しでそれを刮目かつもくし、立ち尽くしていた。

 並みの人間のふた回りほど大きいからだをしたが、気づけば溶けるようにして輪郭を失ったのだ。そしてぐにゃりとゆがんだ躯の線は、一度地に伏したかと思えばそれも束の間、ふたたび人型にわだかまっていく。しかもなんということだろう、結果として具現した人間は、産まれたままの姿をした可憐かれんな少女だった。

 なんてことだ……。

 恒道は思わずコンクリートに膝をついていた。そしてそのまま、どこか恍惚とした表情で、空を仰いだ。

『ああ、なんてことだ……』

 いつの間にか、彼は涙を浮かべていた。

 感涙にひたっていると、気づけば少女は黒いロングコートを着た男に連れられて、車に乗り込んでいった。

 刹那、という名の感動は憤りに上書きされることとなった。

 彼女の帰る場所が自分でなく、他の人物であることに、怒り、憎しみ、そして悲しんだ。

 もとからエンジンはかかってあったのか、排気音だけを鳴らして車が進みはじめた。それを見た恒道の脳は、即座に彼女を取り戻す算段を組み立てはじめた。

 もはや彼の頭のなかには、略奪の二文字しかなかった。そして良案を思いついたのはいいものの、そのときにはすでに車は彼の数十メートル前方に差し掛かっていた。ここからガードレールを越えて飛び出して車を停めるとしたら、まず、真っ先にこちらの体が破壊されるだろう。

 ……だめだ、できない。

 本能的に危険を察知して、恒道の体は車を見過ごした。せっかくの機会だったが、断念せざるを得なかったのだ。


「惜しいことをしたな……。しかしどうして今まで姿を……」

 デスクに置かれた写真立てに視線を移して、恒道はため息をいた。写真には冒険家らしい格好をした自分と、妻と娘の姿が映っていた。何年も前に、家族で撮った写真である。

『あたし、もう人間じゃいられないから』

 妻が消えて一ヶ月もしないうちに、娘はその言葉だけを残して実家を出た。

 ただの反抗期でないことは恒道にもわかっていた。娘の悩みが、当時研究していた《神林》に関係するものだということも、もはや確定的だった。というのも、娘が実際にに変化する瞬間を、その目で見たことがあったからだ。

 そして今日、この日に、恒道はふたたび獣が女体に変化するところを見た。彼女の体は娘のものとは完全に違っていたが、変化するたびに顔つきや骨格が変わることもあるのかもしれない……。

 ふと時計を確認すると、もうそろそろ開演時間だった。恒道は楽屋を出ると、屋台の出入り口にそれぞれ暖簾のれんをかけた。さて、今宵もがんばろう。三十年も前にひとりで制作した巨大な看板をみて、彼は大きくうなずいた。

 看板には、でかでかと〈見世物小屋みせものごや〉という文字が書かれてあった。

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