―― 96 ――

 車は丘を下るかと思いきや逆方向の曲がりくねった山道を進んだ。窓の向こうに広がる曇天におおわれた海の町をながめていると、数分も経たないうちに車は一度大きく右折した。すると、フロントガラスの奥には、鉄格子のような立派な門扉もんぴと、さらにその向こうに西洋風の建物が姿を現した。使用人がふたりがかりで門扉を開けると、車は邸宅の敷地へと入っていった。

 丘から屋敷までの距離は意外と近かった。

 駐車場に車を停めて運転席から降りたおじさんは、後部席のドアを開けて「歩けるかね」と手を差し出してきた。あなたは「ひとりで歩ける」と答え、車を降りた。

 そのままおじさんに先導されて屋敷に入ると、エプロン姿の少々太り気味のおばさんが出迎えてくれた。おばさんは雨でずぶ濡れになったあなたの裸を見るやいなや、「なにがあったんだい」と驚いて、慌ただしい素振りを見せながら早足であなたを風呂場へと案内した。


「湯船につかって、ゆっくり休むといいよ。うちのは特級品だかんね」

 腰に手を当ててひと笑いしてから、おばさんは更衣室の扉を閉めた。

 扉に耳をあて、足音が遠くに消えていくのを確認すると、あなたはそそくさと更衣室を出た。おばさんの足音が向かった先とは反対の方向に進み、来た道を戻る。脱出は意外にも順調かと思われたが、それも束の間、エントランスまで出たところで、偶然通りかかったおじさんに声をかけられてしまった。

「なぜ逃げようとするのかな」

 後方からの声に、あなたはなにも応じなかった。その代わり、しまった、と下唇を噛んだ。視線は、あくまでも玄関の向こう側を見据えていた。

「君は傷だらけだ」

「あんたには関係ない」

「放っておけない」

「これはあたしの傷だ。あんたの傷じゃない」

 なかなか折れない彼に、あなたの口調はキツさを帯びた。

「それでもさ。どうだい、一日だけでも手当てを受けていけば」

 なかば懇願するように、おじさんは頼み込んできた。立場が真逆であることに違和感を覚えながら、やはりあなたは首を左右に振った。

「あたしに関わろうとするな」

「待ってくれ」

 踵を返そうとしたところで、あなたはおじさんに手首をつかまれた。

「関わるなっつってんだろ!」

 そしてその手を思い切り振り払うと、あなたは勢いよく屋敷を飛び出した。


――――第一章へつづく

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