―― 97 ――

 人の目に触れられないよう、できる限り道路を避けながら山のなかを進んでいると、見晴らしの良い丘に出ることができた。そこはあたり一面にたけの低い草花が生えわたっていた。天気の良い日に寝転んでみればさぞかし気持ちがいいのだろう、とあなたは思った。

 あなたは人間の気配に注意しながら、朝までずっと町の景色をながめていた。屋敷から飛び出てきた道のりを頭のなかで考えてみたり、朝方になるにつれてすこしずつ増えてゆく住宅の灯火の数を数えてみたり……そんなことをして暇をつぶしていると、いつの間にか空は黎明れいめいをむかえていた。

 ………………。

 …………。

 ……。

 世界が朝を迎えるとともに、ふたたび体が熱を持ちはじめた。熾烈しれつな痛みが体中をかけめぐり……、気づけばあなたは産まれたままの姿で緑の絨毯じゅうたんに横になっていた。丈の低い草が、一糸まとわぬ肌をちくちくとくすぐった。

 体温の急上昇と急低下のせいで、体からは湯気が出ていた。しかし幸いにも、毎度のように体の熱が間延びすることはなかった。先程からぽつぽつとそぼ降る雨のおかげだろう。

「やっぱり……そうか……」

 動悸がしずまってから、あなたは神妙につぶやいた。

 すでに数度の変化を遂げているあなたは、その規則性についてある見解を出していた。それは変化の始まりと終わりの時間が日没頃と日の出頃だということだ。思い返してみればおとといも、きのうも今日も、その時間に変化が起こっていた。

 晩秋の冷気を帯びた風が草原を吹き抜けるたびに、あなたは身震いを起こしていた。本格的な冬の到来を痛感させられる寒さだった。あまりの寒さに、あなたは二度三度と体勢を変え、最終的には三角座りに落ちついていた。腕をひざにまわし、ひざを胸に強く押し当て、あごを腕とひざにくっつけ――できるかぎり肌の密着面を増やし、体温の保持につとめた。

 何度もくしゃみが出た。そのたびにずずず、と鼻をすすり、何気なしに灰色の空をながめた。それを繰り返していると、何回目かのくしゃみのあと、背後から車のエンジン音が聞こえてきた。あなたが視線を向けた先では、赤のジュリエッタの中から丸眼鏡のおじさんがこちらを見ていた。

 おじさんには見覚えがあった。昨夜ゆうべ、屋敷のエントランスで倒れているところに駆けつけてきた彼だった。

 目が合うと、おじさんは車から降り、黒い傘をさして近寄ってきた。

 エンジン音は近づいてきたわけではなく、今ある車の位置で鳴りはじめた。ということは、車はあなたがエンジン音に気がつくよりも前からそこにあったことになる。

 今度こそ見られたかもしれない。その可能性に、あなたは肝を冷やした。ぞくりと、嫌な予感が背筋を這い上がってくる。

 ――逃げないと。

 衝動的に立ち上がり、走り出す。すると、背後から「待っておくれ」という声が聞こえてきた。ぴたりと、あなたは足を止めた。

 それからすこしの間、沈黙が続いた。

 体の芯まで凍てつかせるような風が、草原の草花を撫で、あなたの体をさらに冷やしていく。そしていくつかの小鳥のさえずりが止んだとき、あなたは声を返した。

「どこから見てた?」訊くと、おじさんは「きっと、君が見られたくないと思っているだろうところから」と答えた。

 実は目が合ったときから、なんとなくそんな予感はしていた。だからあなたは、もう隠し通すことをしなかった。一晩宿を貸してくれたお礼と、そして餞別せんべつの品ということで、自分の正体を明かすのも悪くはないだろうと思ったのだ。このおじさんひとりが自分のような存在を知って、たとえそれをいたずらに吹聴ふいちょうしたところで、世間は耄碌もうろくしかけたおっさんの戯言ざれごととしか認識しないだろう。それに、もうすこししたらこの町を離れようとも考えていたところだったのだ。

 ひとりくらいなら……ましてやそれが、もうすぐとうとしている町の、それも結構歳のいったおじさんなら、なおさら正体を明かしたってなんの問題もない。

 おじさんが気を利かしてコートを羽織らせてくれそうになったが、あなたはそれを断ると、時間をかけず、端的に自分の怪異現象について話した。

 夜になったらあの姿になり、朝になったらまた人間の体に戻る、それだけを短くまとめて話してみせた。これまであったできごと――〝あの晩〟の惨劇のことは、なにも話さなかった。

 おじさんはいくつか質問を挟んできたが、あなたはそのすべてを無視した。なぜなら、それらの質問はすべて自分の過去や境遇についてのものだったからだ。あなたはのできごとと、それに至るまでの話を自分ひとりのなかに封じ込めていた。


 早朝の冷たい風が、音を出してとおり過ぎていく。

 正体を語ったのはいいが、ふたたび三角座りの体勢で縮こまっていたあなたの体は、寒さに耐え兼ねていつの間にか固まってしまっていた。手を支えにして立ち上がろうとするも、足は言うことを聞いてくれなかった。

 すると、一向に立ち上がれないあなたの前に、レザーグローブを脱いだシワの多い手のひらが差し出された。はじめは無視して自力で立ち上がろうとしていた。しかしいくら試しても立ち上がれず、このままでは無理だと断念したあなたは、ついにおじさんの手に自分の手を重ねた。

 おじさんの手のひらは大きくてあたたかかった。

 立ち上がると、おじさんはなにも言わずにコートを羽織らせてくれた。いらないと言ってるのにとつぶやきそうになったが、あなたはその言葉を呑み込んだ。

 おじさんの手を借りて立ち上がったのはいいものの、それからもあなたの足が動くことはなかった。すると、おじさんは目の前であなたに背を向けてしゃがみこんだ。ここで首を横にふって逃げ出したところで、この体ではそう遠くまでもたないだろう。……はぁ、と気づかれないように溜め息を吐くと、あなたは不本意ながらもおじさんの背中に体を預けた。

 車まで背負われると、あなたは助手席に乗せられた。あらかじめエンジンをかけておいてくれたからだろう、車内は暖房が効いていてあたたかかった。運転しながら、おじさんは携帯でだれかと連絡を取っていた。電話越しにもれてくる声からして、相手は奥さんだろうと推し量った。これから車が向かう場所は、きっとおじさんの自宅――昨夜ゆうべの屋敷にちがいない。

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