―― 98  ――

 じんじんと熱くて、

 どこかむずがゆくて、

 とにかく気持ち悪くて、

 それは無視できない存在感を放っていて、

 けるものなら今すぐにでも掻きむしりたい……。

 体の中のそんな感覚をたとえるのにもっともしっくりくる表現を思いついたところで、あなたは目を覚ました。

 ――まちがいない、これは体内をうじ虫が這い回っているような感覚だ、と。


 あなたがまぶたを開けると、そこには見慣れぬ天井があった。右側の両開きの窓からは強い西日が射し込み、室内にただようほこりの分子をきらめかせていた。

 乱れた脈拍をおもんぱかり、んっ、と腹と手に力を込めて不格好に起き上がる。夕方になると、体のせいでこれくらいのことでも汗が吹き出た。

 窓から入ってくるそよ風が白いカーテンをひるがえし、続いてあなたの腰まである長髪をなびかせる。晩秋の風にあてられて、あなたは体をぞくりと震わせた。ふと体に視線をやってみれば、桃色の病衣が汗でびっしょりと濡れていた。しかも病衣は汗を吸いきれず、上半身にぴっちりと密着していた。 

 なんだろう、この感じ……。

 謎の気配に、あなたは部屋全体を見渡した。

 ……?

 いくら部屋を見渡しても、監視カメラの類が設置されている様子はない。

 周囲をうかがっている最中、あなたは一瞬、ここは病院かと疑った。が、もう一度部屋の様相をうかがって、そうではないことを確信した。カーペットの上には雑誌や絵本が散らばり、部屋の片隅にはほこりをかぶったアコースティックギターが眠っている――こんな生活感あふれる不衛生な部屋が、病院の一室のはずがなかったからだ。

 ならいったい、この服は、それにこの部屋は、だれの物なのだろうか。そしてここは、どこなのだろうか。皮膚に張りついたシャツをつまんではがしながら、あなたは目覚める以前の記憶をたどった。

 昨夜ゆうべはたしか……、お腹が空きすぎたのと疲労が相まって……、走りつづけてきた足を止めて……、あの丘で、姿のまま眠りに落ちて――、やはり記憶はそこから途切れていた。

 そのときから今さっきまでの空白の時間になにかが起きて、あたしはこの場所にいる。そのなにかとは、もはやあらためて推測するまでもない。

「……だれかに拾われたんだ」

 寝ているあいだに徘徊はいかいしてたどり着いた先がこの場所だったなんてあるはずもない。まちがいなく、あたしは拾われた。他人にベッドと病衣を貸してくれる親切なだれかに。そしてここは、そのひとの家の中なのだ。

 確信して、あなたは目を見開いた。

 本能的な危険予知能力が、寝ぼけていた頭を一気に冴えさせていく。


 もうすでにははじまってしまっていた。

 胸の奥にひそむの、目醒めの予兆が――。


 つぅー、と脇から汗がしたたる。

 この現状は考えうるなかで最悪の展開だった。

 このままこの場所にいれば、取り返しのつかないことになってしまうかもしれない。

 ……こうしちゃいられない。

 あなたはとにかく部屋を出ようと立ち上がるが、ひどい立ちくらみにおそわれてベッドから転げ落ちた。両手で頭を支えながら、今は早くここから出なければいけないと、立ち上がって一歩踏み出す。

 早くしないと、あたしは……、

 あなたは前のめりになりながらよろよろと歩き出した。しかしなにもない床につまずき、そのまま鏡台に倒れ込んでしまった。ドンという鈍い音に続いて、鏡台に置かれてあったいくつもの化粧品が床に落ちた。

 鏡台の上に両腕だけを残してうなだれていたあなたは、意識があるのを確認すると、そのまま両腕の力を使って体を持ち上げた。そして鏡の向こう側を見つめて、唖然あぜんとなった。

「――、――――」

 長すぎて下まで映りきらない金髪。人を威圧することしか能のない目つきに、深い暗澹あんたんをのぞかせる瞳。凝り固まった、変化のない表情。そして整ってはいるが、歳相応の無垢さや可愛いらしさが完全に欠如した顔――と。鏡に映りこんだ自分あなたの姿はたしかにいつもどおりであった。しかし、明らかにいつもとはちがう部分があった。それは前髪のはえ際から血が流れていることと、まるで風呂でのぼせてきたかのように顔が熱を持って赤くなっていることだった。十数年間付き合ってきたなかで、ここまでひどい顔を見たのは初めてだった。

 あなたは熱い息を吐きながら、鏡に映った外の風景を見た。

 ……もたもたしてる暇はない。

 外が夕方だと再確認するやいなや、あなたは部屋の扉を乱暴に開け、せまくて薄暗い廊下を走った。その表情には、ますます剣幕の影がおりはじめていた。

 廊下を抜けると吹き抜けのエントランスに差し掛かった。ここから階段を下りて玄関まで走れば、ひとまずは外に出られるだろう。あなたはそう確信して、減速することなく足を伸ばした。まさかその瞬間に、強烈なめまいにおそわれるとは知らず――。

 めまいのせいで一段目を踏み外したあなたは、そのまま階段から転げ落ちることとなった。鈍い音が連続し、目の前が暗転したかと思えば、そのときにはもう、額の傷口でエントランスの床の冷たさを感じ取っていた。

「う……ぁ……」

 低いうめき声を垂れ、ぐらんぐらんと揺れる視界のなかで立ち上がろうとする。しかし今度ばかりはそうはいかなかった。まるではりでも打ちつけられているような頭痛が、それを邪魔するのだった。

 あぁ……このまま蒸発してしまえばどれほど楽だろう……。

 冷たいタイル張りの床にすっかりうなだれながら、あなたは発情した動物のように荒い呼吸を繰り返していた。すると突然、正面の扉が勢いよく開け放たれた。

「何事だ!」

 騒がしい足音が近づいてくると、まもなくあなたの額に人肌の温度が触れた。

「……来るなっ!」

 眼前の人影をなぎはらい、あなたは両手を床について必死に態勢をととのえた。走ることはおろか歩くこともままならない足をあげ、無我夢中で踏み出してみる。が、結果は虚しく転倒してしまう。

「いま救急車を呼ぶから、そこから動いてはいけないよ」

 くらく、くらく、くらく、――かすんでいく視界のなかでこだまする声は、あなた同様に焦りを含んでいた。

「いいから、あたしから離れろ……」

 遠ざかる足音へ向けて、あなたは言った。

「うぅ……」

 のこぎりの刃をほうふつとさせるようなずきずきとした頭痛が押し寄せると、それは体内をむしばむ予兆とあいまっての記憶をよみがえらせた。


 ――――蒼い光の射す部屋。


   ――――ぶちぶちという、繊維の裂かれる音。


     ――――口のなかにあふれかえる、吐き気をもよおす臭い。


 意識朦朧としているのにも関わらず、その目に映るその景色はまるで現実のようで。いまここで手を伸ばせば、の自らの過ちを止められる気さえして。あなたは記憶のなかへと手を伸ばし、たしかな感触を得た。

 瞬間、時は止まり、記憶の中の自分が振り返って言った。

『みんな死んだんだ』

 返り血にまみれたまま、彼女は繰り返した。

『みんな、死んだんだよ』

 虚空へと伸ばした手を、あなたは退けた。

 ……やめろ。

自分あたしのせいで、みんな死んだんだ』

 その言葉は、否定する余地もなく、あっさりとあなたの耳を通り抜けていった。

 ……やめてくれ。

『――でも大丈夫。もう悲しまずにすむ』

 向こう側で、あなたの幻影がわらう。

 聞きたくない声が、言葉が、耳小骨じしょうこつを震わせていた。

『――大切なひとなんて、

 ぐさりと、鋭利なもので心臓を刺されたような気分だった。

 だれでもない自分自身から罪を責められ、赦しがどこにもないことを告げられたのだ。

 それは今のあなたにとって、これ以上ないくらい残酷なことだった。

 もうこんな光景、見たくない――ッ!

 すこしでもの記憶から遠ざかるため、あなたは動けない体で必死にもがいてみせた。そして思いは体中を駆けめぐった。タイル張りの床を掻く爪ははがれ、喉奥からしぼり出た叫びはついにしゃがれてしまっていた。

 その光景は、まさに悶絶と言えた。

「君――」

 かすんだ視界のなかで声がひびき、肩に何者かの手が触れた。……かと思えば、「熱っ」という声とともに手は離された。

「なんということだ……」

 その声を最後にして、あなたはついにその時をむかえた。

 次の瞬間、これまで体中の血管でうずいていたうじ虫がいっせいに羽化をはじめたかのような感覚に見舞われ、あなたの意識は途絶した。一度、持ち主あなたの支配から逃れた肉体は数回の痙攣けいれんを起こしたのち、溶けるようにして体の輪郭を失った。続いて体をえがく線がぐにゃりとゆがんだかと思えば、途端に盛大なとぐろを巻き、たちまち別の生物の骨格をかたどっていく――。

 めくるめく変化を遂げてできあがった体は、あなたの意識をその内に宿したまま、猛スピードで屋敷を出て行った。

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