妖し裏京都の秋宵
泉坂 光輝
起:裏京都の噂
不穏な影はいつも突然やってくる。
小学校高学年までの幼少期を過ごした田舎を離れ、この京都という町に居を移すこととなったのは、十一歳の春のことであった。仲の良い友人たちとも別れ、突然右も左も分からないこの土地に放り込まれた。それが全ての始まりだった。
それから現在に至るまでの青春時代を送ったのは、阪急
そのうえ京都はつまらない町だ。道を歩けば人に揉まれ、足を休めるために列に並び、人目は避けられず、呼吸するだけで疲弊する。おまけに、青春を期待した中高はほぼ男子校で、薔薇色のキャンパスライフを描いた大学は変人の巣窟でろくな友人も出来ないし、進む先は真っ暗で、良いことなしの人生であった。
とはいえ、俺の人生もまだ二十と余年。絶望するには早すぎるのだと、理想の乙女に出会うことを夢に見ながら、虚栄を張った日々を送っている。
俺は正門近くの学生食堂で、真っ赤なケチャップの乗ったオムライスをスプーンで掬った。程良い酸味を含んだトマトの風味を感じながら口内の食物を嚥下したまさにその時、不穏な影はやってきたのである。
「やぁ、
人の断りもなく目の前に着席したのは、
彼は中学からの同級生で、何処にいても目立つ存在であった。男にしては肌が白く、くっきりとした目元は涼やかで、長い睫毛と整った目鼻立ちが美しい華やかな容姿なのだ。それに加え、実家は北区にある洒落たケーキ屋というのだから、数少ない女子は賀茂の纏う甘い香りにメロメロであった。
俺は当然の如く、彼はケーキ屋を継ぐものだと思っていた。何故なら賀茂はケーキ作りを好いていたし、自由気ままに大学生活を謳歌したあと、遊び疲れた頃合いに家業を継ぐことが性分に合っていると思っていたからである。
だからこそ、彼が医学部に進学すると知った時、俺は驚きを通り越して腰を抜かしてしまった。その理由を問うと、賀茂はにっこりとして「ケーキ屋にも医者が必要な時代が来たってことさ」と言うのだから、もはや意味が分からない。
そんなへんてこりんな男が目の前に姿を見せる時、決まって厄介ごとが起こる暗示であった。
「優雅に見えるのなら邪魔はするな」
「なんや、つれへんなぁきみは」
テーブルに頬杖をついて、賀茂はつまらなさそうに口先を尖らせる。
「おまえが来ると良くないことばかり起こる。失せろ」
「親友なのに冷たいね」
「親友は勝手に参考書のカバーをすり替えたり、穴に落としたり、激辛ケーキを食わせたりはしないんだぞ」
その微妙に手の込んだくだらない悪戯は、大半が高校生活の中で巻き起こったへんてこりんな事件であった。彼のせいで参考書は鞄に仕舞う前に中身を確認しなければ気が済まなくなり、落ち葉の溜まった地面は歩けず、甘いいちごのショートケーキは苦手になった。
まったく、迷惑な話である。
「それは僕なりの愛情表現だと思ってほしいなあ」
「そんな愛情は要らん」
にこにこと笑う賀茂に、俺は大きく溜め息を吐いた。
「それで、用件はなんだ」
食べかけのオムライスをつつきながら問いかけると、賀茂は待ってましたと言わんばかりに顔を明るくした。目の前のテーブルに右手を突いて、わざとらしく声を潜めて告げる。
「長岡君、裏京都って知ってるかい」
「裏京都?」
問い返すと、彼は人差し指を唇に押し当てて「しっ、声が大きい」と俺に警告した。お決まりの演出なのだが、突っ込みを入れることも面倒臭く、しばらくの間彼の与太話に付き合ってやることにした。
「文字通りこの京都の真裏にある世界だよ。どうやら表世界の裏側にぴったりとくっついていて、祭りの夜にだけ稀に繋がることがあるんだって」
誰が表と裏を決めたのかは知らないけれど、と付言する。
どこかで聞いたことのある、昔からよくある類の噂話である。
「なんで祭りなんだ」
「祭りが賑やかで楽しい場所だからだよ。それに、祭りの夜は人間だって浮かれているからねぇ。仮装だってするし、食べ過ぎもするし、ものを失くしたり、迷子になったり、お金の数え間違いだってするだろう。ちょっとくらい出鱈目でもまかり通る騒がしい夜だからこそ、喧噪に紛れて彼らは物見にやってくる。そして誰にも気づかれないままに元来た世界へと帰るんだ」
祭りは人に紛れるには丁度良い。
夜は人を欺くには丁度良い。
つまり、変わった格好の人を見かけたり、買ったものをどこかで失くしたり、迷子の子が奇妙な話をしたり、売り上げ金の計算が合わなかったり。祭りの夜に起こる不可思議な出来事は裏京都の住民たちがひっそりと遊び回った形跡なのかもしれないということなのだ。
「本当に存在するとしたら、どんな場所なんだろうな」
「表と構造は同じだって聞くね。でも、棲むものが違う。僕も詳しい事は知らんけどね」
「知らないって、行ったことあるんじゃないのか」
「まさか、あくまで噂だけの話さ。それに、裏京都には踏み入ってはいけないんだよ。彼らはこっちには勝手にやって来て土足で踏み荒らしていくくせに、表の人間が入ってくることをこっぴどく嫌うんだ」
「もし入ってしまったらどうなる」
「酷い目に遭うだろうね。縛り上げられて、食べられてしまうのかも。きっと帰っては来られない」
裏京都に行ったことのある人間がいないのはそういうことなのだろうと、賀茂は言った。もしくは、とても魅力的な場所なのだ。帰りたくないと思う程に。
「長岡君、京都がつまらないって思ってるなら、一度行ってみると良いよ」
よく賀茂は出鱈目な作り話を真実のように語った。「京都は退屈だ」「観光客が多すぎる」「あぁ早く田舎に帰りたい」そう零す俺に、ちょっとだけ覗いてから通り過ぎたくなるような絶妙にくだらない、けど何故か笑ってしまうような話題を語りかけた。
そんな賀茂の話を聞いていると、この町でこの男のくだらない与太話を聞きながら過ごすことも悪くはないと思えてくるのだから不思議で仕方ない。
「明日は
「東寺か。あれは骨董市じゃないか」
「なに、露店があればそれは全て祭りだよ。とはいえ、繋がるのは縁日が確からしい」
よく行ったねぇ、と賀茂は零す。
俺たちが通っていた私立中高は、東寺のすぐ傍にあった。賀茂の言う「弘法さん」は、毎月二十一日に開催される東寺の縁日である。
「そういえば、あれは夕方で終わりじゃ」
「甘いね、長岡君。夜まで祭りが続く日が年に二回だけあるんだよ。その一つが明日。つまり、ライトアップさ」
東寺のライトアップは年に二回。丁度今の紅葉と、春の桜の時分である。ライトアップは午後六時半から始まり九時半まで続く。弘法市の日の夜は、昼の騒がしさを見事に引き継いで、普段より多大な賑わいをみせるそうだ。
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