第35話
紅茶を飲んで、おしゃべりをして。
駅前まで彼女を送った帰り道、振り返ってみると鈴と何を話したのかよく覚えていなかった。それなのに、記憶の繋ぎ目がおかしくなってしまったのか、彼女のことばかりが頭に浮かぶ。
見上げる空は、昨日とさほど変わらない。
闇に、欠けた月が浮いている。世界が色鮮やかに見えるなんてこともなく、いつもと変わらず外は寒くて、星空が綺麗だった。唇が触れたくらいで、世の中は変わらない。
ただ、鈴が少し落ち着かないみたいだったとか、機嫌が良くも悪くも見えたとか、そんなことばかり考えてしまう。
早く鈴に会いたくて、会いたくない。
会ったら、どんな顔をしたらいいのかわからない。
自分がそれほど女の子らしいタイプだとは思っていないかったけれど、キスくらいで浮かれて、ヘリウムガスが詰まった風船みたいにふわふわしている。私は、体に残る熱を冷ますみたいに足を速める。
前進はしたけれど、問題が片付いたわけじゃない。
先輩のことは後回しになっているし、何かが劇的に変わったわけでもない。
落ち着けと念じて、風を切って前へと進む。駆け出すくらいの勢いで家へ戻ると、母親が帰ってきていた。キッチンに向かって「ただいま」と声をかけたあとは、いつも通りやるべきことをやる。夕飯を食べて、お風呂に入って、スマートフォンを手にベッドへ潜り込む。
カレンダーを表示して、菜都乃への返事を考える。
二人で会うなら、期末テストの前が良い。後にしてしまったら、菜都乃と会うときのシミュレーションを繰り返してばかりになって、勉強に身が入りそうになかった。
来週のどこか。
火曜日か、水曜日のどちらにしようか考えて、火曜日を選ぶ。メッセージは短めに、用件だけを書く。けれど、送信ボタンは押せなかった。往生際が悪い私は、メールを下書きにして保存する。
アラームをセットして、スマートフォンを枕元に置く。
電気を消して、目を閉じる。
決まった手順で眠りにつく準備をしたものの、睡魔はなかなかやって来ない。鈴のことや菜都乃のことが頭の中をぐるぐると回る。おかげで私はよく眠れないまま、いつもよりも早く学校へ行くことになった。
寒々とした廊下を歩いて教室に入ると、鈴の姿が目に入る。彼女は、本を読んでいた。近づいて確かめるまでもなく、鈴が手にしている本が昨日貸した小説だとわかる。
登校時間を早めた私よりも鈴が早く来ていることがあり得ないことだったし、本を読んでいることもありえないことだった。
私は彼女にそっと近づいて、背後から本を覗き込む。
ページはそれほど進んでいない。
謎解きどころか、事件も起こっていなかった。
鈴がページをめくろうとして、手を止める。気配に気がついたのか、本を閉じてくるりと私の方を向いた。
「晶。おはよう」
昨日のことが頭に残っていて、鈴の声に心臓が必要以上に反応する。でも、いつもとは違うありえない彼女が、いつもと何も変わらない様子で私を見ているという行動の“ずれ”みたいなものが早くなった鼓動を落ち着かせてくれた。
「おはよ。それ、面白い?」
私は、小説を指さして尋ねる。
「まだ最初の方だし、よくわかんない」
「だよね。全部読んだら、感想教えて」
「読めたらね」
自信のなさそうな返事に、私は「読んでよ」と返す。そして、疑問の一つを解決すべく彼女に問いかけた。
「今日、学校来るの早くない?」
「なんか、いつもよりも早く目が覚めちゃって」
「今日、雪降るかも」
「残念でした。今日の天気予報は晴れだよ。大体、今日は晶だって早いよね」
「あんまり眠れなかったから。おかげで今、眠い。授業中、寝そう」
窓の向こう側、空を見ながら欠伸を一つする。
鈴に会ったらどんな顔をしたらいいのかなんて不安は、彼女と何事もなく話せていることで吹き飛んで、私の元には遅すぎる睡魔がやってきていた。天気予報がしっかり当たりそうな雲のない青い空も、私の眠気を払うことができない。
「ノート、貸さないよ?」
余程、私が眠そうな顔をしていたのか鈴が笑う。
「いいよ。藤原さんか、平野さんに借りる」
素っ気なく言って、視線を藤原さんと平野さんがいる窓際に向けると、すぐに「借りれば」と冷たい声が聞こえてくる。窓の外ほどではないけれど、廊下の空気くらいの温度しかない声に鈴を見れば、彼女は少しばかり不機嫌そうな顔をしていた。
「嘘。貸してよ、鈴」
「やだ。絶対に貸さない」
わかりやすく拗ねたような声に、私は吹き出す。
面倒な性格。
ひねくれていると言ってもいい。
夕暮れの教室で彼女に告白される前なら、逃げ出したくなるようなシチュエーションも今は好ましく思える。煩わしいことを避けていた私がこれだけ変わるなんて、あのときは考えもしなかった。
「鞄、置いてくる」
教室に入ってすぐに鈴の元へとやってきた私は、重たい荷物を手放すべく彼女に告げる。
「教科書、置いていけばいいのに。晶、真面目すぎなんだよ」
「全部持って帰ってるわけじゃないんだけどね」
丸々と太った鞄を持ち歩く私は、鈴のスリムな鞄を見る。
約二年、彼女と共にあった鞄には、おそらく最初からついているであろうイルカのキーホルダーが一つ。そして、隣に新参の猫が一匹。
いつか、その場所が猫だけのものになれば良いと思う。
「どうしたの?」
立ち止まったままの私は、鈴から声をかけられる。
「どうもしない」
短く答えて、自分の席に戻る。
空は、やっぱり青くて雪は降りそうにない。
鞄を置いてから、小説を読み進めることを諦めた鈴とたわいもない話をする。ホームルームが始まっても、睡魔はまだ体の中に居座っていた。それでも私は居眠りをすることなく、授業を終えて、放課後は寄り道をする。
天気予報通り晴れた空の下、並んで歩道を歩く。何かあってもなくても足を運んでいる古びたお店に入り、アンティークの家具に囲まれたテーブルでモンブランを食べる。向かい側では、鈴がショートケーキを頬張っていた。
「太ったような気がする」
やけに真剣な顔をして鈴が言う。
「気だけじゃなくて、私は太った」
お風呂上がりの体重計、デジタルの数字は一キロ近く増えていた。私と同じようにケーキを食べて、時にはドーナツやポテトも食べている鈴が太らないわけがない。
「一駅くらい歩くようにした方がいいかも」
フォークをマロングラッセに突き立てながら、一つ提案をする。けれど、そのアイデアは即座に却下された。
「寒いからやだ」
「じゃあ、甘い物をしばらく控える」
「それもやだ。晶と寄り道できないもん」
「それなら、テスト勉強は? ちょっと早いけど」
鈴が「んー」と唸って、大きく息を吐き出す。そして、しばらくしてから三日坊主になりそうな意見がぽろりとこぼれでる。
「各自、夜のストレッチで対応」
まだテスト勉強はしたくないという宣言に、私は頷く。
放課後、鈴と過ごす時間はそう長くない。授業がすべて終わってから駅で別れるまでだから、一日のうちのとても短い時間だ。苦手だったモンブランが好きになればなるほど、その時間が大切なものになって、あっという間に過ぎていく。
今日もマロングラッセを食べて、ショートケーキの苺をもらったら、家に帰らなければならない時間が近かった。
私たちは蔦が絡まった外観のお店を出て、駅へ向かう。
どちらからともなく、歩く速度を落とす。
歩調を合わせてゆっくりと足を進めていく。
気がつけば、いつもの倍近くかけて歩いていた。
駅について別れ際、私は内緒話をするみたいに彼女の耳に口を寄せる。
「鈴、好きだよ」
「うん」
昨日、私の“好き”に“好き”だと返さなかった鈴は、今日も好きだと言わなかった。
先輩とのことがあるからなのか。
理由はよくわからない。けれど、気持ちが曖昧なまま言葉を返していたときよりも、誠実になったと言えるのかもしれない。
好きだと言ったら好きだと返す。
約束は、しばらく守られそうになかった。でも、彼女から同じ言葉が返ってこないことにそれほど不安を感じない。
「また明日」
鈴に手を振って、別れる。
電車に乗って、スマートフォンを取り出す。私は、下書きのままになっていたメールを菜都乃に送った。
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