第34話
「中学の時の友達だった」
スマートフォンを置いて、鈴が欲しがっているであろう答えを口にする。カップの中からティーバッグを取り出して、お皿の上に置くと、鈴が「そう」と気のない返事を私に押しつけてきた。
興味がなさそうに紡がれた短い言葉の後には、沈黙がやってくる。静まり返った部屋の中、鈴の指先がティーカップの持ち手をなぞる。
心がぞわぞわとするような空気に包まれながら煎れたばかりの紅茶を飲むと、温度の高い液体が体の中に流れ込み、喉が焼けるように熱かった。
「ゲームとかないの?」
前触れもなく、鈴から一度も聞いたことのない単語が飛び出る。私は、彼女からゲームが好きだという話を聞いたことがなかった。
「やらないから、ないよ。鈴はゲームするの?」
「しない」
鈴は、自分から振ってきた会話をあっさりと打ち切る。それでも、視線は電源の入っていないテレビに向いていた。指先は、間に合わせに取って付けた会話の続きを探すように髪を弄んでいる。
ふわふわの髪は鈴の指をくるくると覆い、解かれてはまた巻かれていく。何度かそんなことを繰り返してから、彼女が口を開いた。
「……メール、返事しないの?」
声は、いつもと変わらなかった。
同じトーン、同じボリューム。
何も変わらないのに、どこか違って聞こえる。私は、少し考えてから静かに答えを返す。
「あとからにする」
返事はしなければならない。
けれど、返事をしたくない。
返事を待っていたことは間違いないけれど、いざ、いつ会えるかと聞かれたら、答えられないほど覚悟が決まっていなかった。
会ってしまえば、久しぶりだなんて言い合って、何となく会話をして、友達みたいに振る舞えるはずだと思う。返事をくれるくらいだから、菜都乃だってそれくらいのことはしてくれるはずだ。
それでも、菜都乃と会う日をいつにするかなんてすぐには考えられないし、「見るんだ」と非難するような目で私を見ていた鈴を思うとスマートフォンに触るつもりにはなれない。
「そうだ、推理小説。おすすめの本、出すから待ってて」
私は取り繕うように、本棚の前に座り込む。
ずらりと並んだ背表紙の前、読みやすい本はないかと探す。
修学旅行の前に推理小説を貸すと言ったものの、どれを貸しても面白くないと言われそうで、彼女に貸すべき本は決まっていなかった。
厚い本よりも薄いものがいいだろうと、背表紙をにらみ付けていると鈴の声が聞こえてくる。
「先に返事したら?」
「急いで返事をしないといけないものでもないから、後からで大丈夫」
そう答えて、私は本棚からそれほど厚くない小説を一冊取り出す。面白いかどうかわからないと注釈を付けて鈴に本を渡すと、「ありがとう」という言葉とともに、ぺらぺらと紙をめくる軽い音がする。
その音は、おおよそ文字を読んでいるとは思えない速度で、本はすぐにぱたんと閉じられた。
「字ばっかり」
見たままの感想が返ってくる。
「そりゃそうだよ。小説だもん」
「挿絵くらいあればいいのに」
鈴が難しい顔をして、もう一度ばらばらと中身を確認する。ありもしない挿絵を探し終えると、机の上に本を置き、目当てのスイーツが売り切れだったときよりも盛大にため息をついた。そして、唐突に「思い出した」と話し始める。
「晶、一学期の初日から本読んでたでしょ。初めて同じクラスになったけど、クラスに馴染むつもりがまったくない人だなーって思った」
「馴染むつもりがなかったのは鈴も同じでしょ」
私は、一年近く前のことを思い出す。
友達になろうとしたのか何なのか。
クラスの女の子が鈴に話しかけた結果、「つまらない」と言い放たれたところを見た。その後も、鈴は寄ってくる女子も男子も蹴散らして、見事に孤立することになった。
「無理に仲良くしても、面白くもなんともないから」
鈴は、パンケーキにナイフを入れるときのように躊躇なく言い切る。そして、貸したばかりの本を指さした。
「これ、面白いの?」
「私は面白かった」
「そっか」
素っ気ない声とともに、鈴が本を鞄の中にしまう。
「その本、読むの?」
「読まないのに持って帰っても仕方がないでしょ」
遠回しに読むつもりがあるという回答を得て、私は少しだけ嬉しくなる。けれど、鈴はそれほど楽しそうには見えない。指先が柔らかそうな髪を引っ張ったり、離したりしている。それは彼女の癖で、機嫌がそれほど良くないということを私に伝えてきていた。
「鈴さ、もしかして妬いてたりする?」
軽い冗談。
本当にそうだと思って言ったわけじゃない。
鈴が機嫌を損ねた原因はきっとメールを確認したからで、そんなこともあるかもしれないと口にしただけだった。でも、彼女は私の言葉を肯定するように黙り込んだ。
「鈴?」
小さく名前を呼ぶと、彼女は考えるように目を伏せた。
十秒ほど待っても、口を開かない。
私はさっきの言葉を消し去るために、冗談だよ、と告げようとしたけれど、鈴が先に沈黙を破った。
「……そうかもしれない。晶が他の人のこと考えてるのやだ」
珍しく拗ねるように言って、私を見る。
「自分は考えるのに?」
「そうだよ。私も考えるのに、晶が考えるのは嫌なの」
理不尽な物言いに、私の口元が緩む。
馬鹿みたいなことだけれど、“鈴木晶”という存在に執着してくれる鈴をいつもより可愛いだなんて思ってしまう。
近くにいても、どこか遠くにいるような彼女が今日は側にいる。そんな気がした。
「そういう鈴も好きだよ」
不機嫌を隠すことをやめ、むくれている鈴に告げる。
「そんなこと思ってないくせに。本当は面倒だなって思ってるでしょ」
「面倒だな、っていうのはあるかも」
「やっぱり」
「でも、面倒なところも好きだから」
付き合い始めた頃から、わけがわからなくて、自分勝手で、我が儘で。私は鈴に散々振り回されてきて、今も振り回されている。だから、今はもう面倒なことの一つや二つくらいへっちゃらで、そういう彼女も好きなんだなと思う。
「晶って、晶だよね」
ぽつりと言って、鈴がテーブルに突っ伏す。私は、鈴のかわりに彼女のふわりとした髪を軽く引っ張る。
「どういうこと?」
「私と違って、綺麗だなって。私は良い人じゃないし、最低だし。晶みたいなこと、言えない」
「綺麗事を言ってるって意味?」
「そうじゃないよ。良い人ってこと。晶は、一緒にいても私と混じらない。だから、晶が良いんだと思う」
そう言って、鈴が顔を上げる。
「――晶、私だけを見ててよ」
テーブルの向こう、手が伸ばされ、頬に指先が触れる。
鈴が近づいてきて、吐く息が混じり合う。
唇が間近に見えて、私は反射的に鈴の肩を押した。
「どうしたの?」
何をされるかわからないほど、鈍感じゃない。
でも、どうしてそういうことになったのかはわからなかった。
「しちゃ駄目?」
問いかけられてほんの少し、短い間、考える。鈴を押しのけようとした手の力を抜く。
「……駄目じゃない」
私の言葉が鈴を動かす。
ゆっくりと遅すぎるくらいに鈴が近づいてきて、心臓が高鳴った。
驚くくらいうるさい心音を黙らせるように、目を閉じる。
その瞬間、唇に柔らかいものが触れ、それが鈴の唇なんだとわかった。
手を繋ぐみたいに体の一部分が触れ合っただけなのに、お互いの意識が繋がったように重なった唇に意識が向かって、頭の中がふわふわとする。
でも、それは一瞬のことで、唇に感じた熱はすぐに離れた。
「なんで?」
私とキスをしようとはしなかった鈴が何故。
小さな疑問を体の中に押し留めておくことができない。
「晶が他の人のこと、考えられないように」
「心配しなくても、ずっと前から考えられないよ」
手を伸ばし、今度は私から鈴に触れる。
そして、彼女がしたようにキスをする。
短い間触れ合って、鈴から離れる。
唇が重なる心地の良さに、頬は熱を持っていた。
何かの味がするなんて真に受けていたわけではないけれど、キスは何の味もしなかったし、するのだとしても感じる時間はなかった。それでも、柔らかな唇から伝わってきた鈴の熱が私の心臓を強く動かしている。
鈴が同じように感じているのかはわからない。
けれど、同じであって欲しいと思う。
「晶。もう少し待っててくれる?」
「わかった」
小さく告げられた言葉に、私は短く返す。
鈴は、何のことかは言わなかった。でも、それが先輩とのことを指していることは間違いなかった。
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