第33話
鈴からは、返事がすぐに来た。
菜都乃からの返事は、その日のうちに来なかった。
朝起きてスマートフォンを確認しても、メールは来ていなかったし、学校へ行く途中も、学校に着いてからもメールは来ない。お昼休みになっても、メールが届いたことを知らせる着信音が鳴ることはなかった。私はお弁当を食べながら、メールの返事が来ることはないのかもしれないと覚悟する。
「晶。昨日、先輩なにか言ってた?」
修学旅行が終わって、教室で一緒にお弁当を食べるようになった鈴が私を見る。彼女の前の席を一時的に借りている私は、卵焼きを飲み込んでから首を振った。
「特に何も」
「ほんと?」
沈んではいないけれど、浮かない顔をしているであろう私に、鈴が念を押すように確かめてくる。昨日、自分が帰ってからのことが気になっているのか、鈴もすっきりとしない顔をしていた。
「あれから、なに話したの?」
「ここで話してもいいの?」
先輩とのことは、話すことができる部分を選んで、抜き出して鈴に伝えることくらいはできる。けれど、昨日先に帰った彼女に対して、ちょっとした悪戯がしたいという気持ちが思わせぶりな言葉になった。そして、それが予想もしなかった言葉を連れてくる。
「――今日、帰りに晶の家に寄ってもいい?」
鈴とは、休日に何度も会っている。お正月には、私が鈴の家へ行った。けれど、鈴が私の家に来たことはなかった。もちろん、彼女が部屋に来ればいいのにと思ったことはある。だから、私の答えは一つで、鈴の提案を断るつもりはない。でも、突然のことに、お弁当を食べることも、返事をすることも忘れて黙り込んでいると鈴が言った。
「嫌なら行かないから、駄目なら言って」
「良いけど。本当に来るの?」
「行くよ」
言い切って、鈴が唐揚げを囓る。私はそれを見ながら、部屋が散らかっていないかなと、今朝の記憶を辿って、片付けをしなければならないほどではないと結論付けた。
それからは、時間の進み方がいつもよりも早かった。放課後はあっという間にやってきて、私たちは駅へと向かう。昨日とは違って、寄り道はしない。いつもは反対方向の電車に乗る鈴が、私と同じ電車に乗る。
一定のリズムを刻む箱の中、窓から見える景色は変わらないはずなのにやけに綺麗に見えた。
「混んでるね」
そう言って、鈴が顔を顰める。
車内は動けないほどではないけれど、人と人との距離が近かった。おそらく、彼女がいつも乗る電車よりも混んでいる。
「いつもこんな感じだから」
「私の家に来てもらえばよかった」
「今度はそうする」
「期末テストの勉強、しにきたら」
「そっか。月末、試験だっけ」
「この前、修学旅行から帰ってきたばっかりなのに。三学期って、忙しいから苦手」
鈴が、はあ、と息を吐き出す。
小学校も、中学校も三学期は短くて、あっという間だった。高校に入っても、三学期の長さは変わらない。期末テストが終わればすぐに終業式がやってきて、私たちは三年生になる。
当然、新学期にはクラス替えがある。
シャッフルされた新しいクラスに、鈴がいるかどうかはわからない。その事実は、私の心を波立たせる。去年はなんでもなかったことが、今年は重要なことになっていた。
私は、鈴のコートを掴む。
「どうしたの?」
「どうもしない」
鈴は不思議そうな顔をしていたけれど、それ以上何も言わなかった。
ちょっとの沈黙の後、私たちは電車を下りて、改札を抜ける。駅前から学校へ行くくらい歩くと、目的地に到着する。
「ここ?」
「うん」
答えながら、鍵を開ける。
「ただいま」
一応、中に声をかける。けれど、家族が帰ってくるような時間ではないから返事はなかった。
「誰もいないの?」
「この時間はね」
そっか、と言いながら、鈴が靴を脱いで揃える。ローファーは、几帳面なくらいに踵と踵がきちんと揃えられていた。私も綺麗に靴を並べて二階へ上がる。部屋の扉を開けると、鈴が「お邪魔します」と小さく言って中に入った。
「先輩となに話したのかも気になるけど、晶の部屋が見てみたかった」
コートを脱いで鞄を置くと、鈴は座りもせずに部屋の中をくるりと回って観察する。
「面白いものないよ」
「本がいっぱいある」
「鈴にとっては面白くないものでしょ」
「どうだろ」
鈴が考えるように言って、本棚の前で背表紙に書いてある文字をいくつか読み上げる。その声を聞きながら、私は机の正面に置いてあるコルクボードに目をやった。
彼女に見られたくないようなものはないはずなのに、おかしなものを貼り付けているのではないかと気になる。
本棚から離れて机に向かう。貼ってある白い紙には、期末テストの予定や本の発売日といった大事なことだけれど、たいしたことのないものが書かれていた。
家の中で一番くつろげるはずの部屋なのに、鈴がいるせいで落ち着かない。檻の中に閉じ込められた動物みたいに、部屋の中をくるくると回りだしそうになる。
「何か見られたくないものでも貼ってある?」
いつの間に側に来たのか、鈴の声がすぐ後ろから聞こえる。やましいことなんか何もないのに肩がびくりと震えて、私は慌てて振り返った。
「そんなものないよ。何か持ってくるから、適当に座ってて」
難しい問題を当てられたときのように、余裕の欠片もなく答えると、私は鈴を残してキッチンへと向かった。
食器棚からティーカップとダージリンのティーバッグを取り出して、少し考える。キッチンでお湯を入れるべきか迷ってから、私はポットを手に二階へ戻った。
部屋の真ん中、小さなテーブルの上にティーバッグを入れたカップを二つ置く。鈴の向かい側に座って中にお湯を注ぐと、彼女が言った。
「あのとき買った猫のマグカップは?」
私が持っている猫のマグカップは一つしかない。だから、それが鈴と一緒に行った雑貨屋で買ったマグカップのことを指していることはすぐにわかった。
「猫は食器棚で大人しくしてる」
「使えば良いのに」
「普段、使ってるよ」
そう答えて、ティーバッグをお皿の上に出すと、鈴が煎れたばかりの紅茶にふうふうと息を吹きかけてゆっくりと飲んだ。それから、静かに口を開く。
「昨日、二人でなに話してたの?」
「鈴が酷いって話」
ぽそりと言って、鈴を見る。
彼女の表情は変わらない。
先輩の顔が頭に浮かぶ。
私とは違うはずなのに、同じように感じている。先輩と運命をともにしているわけではないけれど、よく似た道を歩いているように思えた。
「あのさ、鈴。……先輩のこと、嫌いじゃないよね?」
鈴と先輩の仲を取り持つつもりはない。でも、仲違いさせたいわけでもない。決して交わらない気持ちが胸の中に漂い、マーブル模様を作っている。
「なんでそんなこと聞くの?」
「先輩が気にしてたから」
「晶。……お人好しすぎるでしょ」
鈴が呆れたように言う。
私が本当にお人好しなら、もっと親身になって先輩を助けている。どちらかと言えば、私は煮え切らない偽善者で、良い人にはなりきれない。
良い人か、悪い人。そのどちらかに振り切れてしまった方が楽だと思う。けれど、中途半端な位置から動くことはできなくて、私は偽善者らしく鈴に告げる。
「お人好しじゃないよ。先輩のことがちょっと気になっただけ」
「好きになったとか?」
「先輩を?」
「そう、先輩を」
「そんなことあるわけないでしょ」
冗談だとはわかっているけれど、馬鹿馬鹿しいと鈴の言葉を切り捨てる。先輩のことは嫌いではないけれど、好きになる要素がない。
紅茶を一口飲んで鈴を見ると、彼女が「安心した」とさして心のこもっていない声で言った。そして、同じようにカップに口をつけた。
「晶はさ、先輩のことより、ちゃんと私のこと捕まえてなよ」
「それって、どこにも行かない自信がないから?」
鈴に向けた言葉は、嫌な響きを持っていた。
部屋の空気が変わったような気がして、口にした言葉を取り消したくなる。けれど、問いかけの答えが欲しいとも思う。
一つところに落ち着くことのない彼女の無責任な言葉は、私を不安にさせていた。
「……先輩のことはちゃんとする」
鈴から、ぼそりと小さな声が聞こえてくる。
「話、するつもりだから。でも、もうしばらく待って。――まだきちんと話をする自信がないから」
鈴は、なんの話をするつもりなのかは言わなかった。でも、予想はできる。
それは、たぶん、私にとって良いことで、先輩にとって悪いこと。
いつかは答えがでることで、私はその答えを待っていた。どちらかを選ぶ、あるいは誰も選ばないということもあるけれど、何らかの答えが出ることを待っていた。
だから、鈴の言葉は嬉しいもののはずだ。でも、何度も言葉を交わすうちにただの他人から知り合いになって、どんどん私に近づいてきた先輩を思うと、素直に喜べない。鈴への気持ちと、先輩への罪悪感に近い感情が折り重なっている。
私は居心地の悪さを感じて、カップの中の紅茶を飲み干す。
新しいティーバッグを取り出して、空になったカップに入れる。ポットからお湯を注ぐとメールの着信音が聞こえて、私はスマートフォンを手に取った。
『返事が遅くなってごめん。私も会いたい。いつが良い?』
短いメールは、菜都乃からだった。
中身を確認して顔を上げると、不機嫌そうな鈴が目に入る。彼女は「誰から?」とは聞かなかったけれど、「見るんだ」と非難するような目で私を見ていた。
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