イルカと猫

第36話

「ごめん。今日、一緒に帰れない」


 放課後の教室に、私がぱんっと両手を合わせる音が響く。席に座ったままの鈴に頭を下げると、彼女は言いにくくて先延ばしにしていた言葉をすんなりと受け入れた。


「良いけど。藤原さんと平野さん?」

「そうじゃなくて。……中学の時の友達に会うから」


 送るまでに時間がかかった菜都乃へのメールには、その半分くらいの時間で返事がきた。中学の時にできた距離はメールの送信時間に表れていたけれど、その時間は少しずつ縮まり、待ち合わせ場所や時間がとんとん拍子に決まって今に至る。


 後は、鈴に予定を話すだけ。

 たったそれだけのことだったのに、私は今日になってやっと鈴に菜都乃との約束を話した。

 やましいことは何もないから、隠す必要はない。

 そう思っていながらも何となく言えずにいたのは、鈴が拗ねてしまいそうだったからだ。けれど、予想に反して彼女の表情が変わることはなかった。


「ん、わかった。今のうちに本、返しておくね。ありがと」


 鈴が机の中から、私が貸した小説を引っ張り出す。はい、と渡された本を受け取ると、挟んでおいたしおりは最後のページに移動していた。


「全部読んだの?」

「一応ね」

「面白かった?」

「あんまり。でも、晶が好きなものがわかった」


 クラスメイトたちの浮ついた声でざわつく教室の中、鈴が作ったみたいに完璧な笑顔を見せる。にこりと笑う口元に、不機嫌さは欠片もない。


「鈴」

「なに?」

「今日は拗ねないんだ?」


 ほんの少し鈴の反応を残念だと思う気持ちが、心の中にあった言葉を引き出し、唇にのせてしまう。すぐに余計な言葉を口にしたと後悔したけれど、私の声は鈴の耳にしっかりと届いていたようで、彼女の顔からぺたりと張り付いていた笑顔がべりべりと剥がれ落ちる。


「……さすがに、友達に会うのを止めたりしない。私を優先して欲しいとは思うけど」


 鈴は獲物を逃した猫のように不満そうな顔をすると、背もたれに体重を預けた。

 私は、感情を隠さない彼女にほっとする。


「そういうところ、鈴って感じ」


 笑いをかみ殺しながら告げると、鈴が拳を握る。ボディめがけて繰り出されたパンチは、ぽすんと情けない音を立てて私のお腹に命中した。


「もう、早く行きなよ」


 鈴の柔らかさを含んだ言葉に背中を押されて、私は返してもらった小説を鞄の中にしまう。


「じゃあ、また明日」


 バイバイと手を振って、鈴が同じように振り返した手を見てから教室を後にする。廊下に出ると、最近は別々に帰るなんてことがほとんどなかったから隣が寂しい。

 やけにひんやりとする窓際を歩いて、昇降口へ向かう。

 目的地は、駅とは反対方向。この学校と、菜都乃が通う高校の中間地点くらいで待ち合わせをしている。


 私は下駄箱でコートを着て、靴に履き替え、いつもとは違う町並みを歩く。歩幅を合わせる相手がいないせいか、早足になる。鈴がいることに慣れてしまっていて、黙ってただ手と足を動かしていると機械にでもなったような気がしてくる。


 冷たい風が頬を刺す。

 菜都乃が待っているドーナツ屋に近づくにつれ、体が重くなる。心臓が強く掴まれたみたいに痛い。

 街路樹の下、私は足を止める。

 息を吸って、細く長く吐いていく。

 大丈夫。

 呪文のように唱えてから、足を進める。

 

 五分もしないうちに待ち合わせ場所になっているお店が見えてきて、私は鞄を強く握る。ドーナツ屋の店先までゆっくりと歩いていくと、紺色のコートを着た女の子が一人立っていた。


 見覚えのない茶色い髪。

 けれど、見覚えのある顔。

 久しぶりに見た菜都乃は、長かった髪をばっさりと切っていた。黒かった髪は染めているのか、色が変わっている。寒風にさらされている首が寒そうに見えた。


「菜都乃だよね? 久しぶり」


 おそるおそる声をかけると、聞いたことのないような明るい声で「久しぶり」と返される。


「中で待ってれば良かったのに」

「晶、あたしのことわかんないかと思って。ほら、ショートにしたし、見た目変わってるから」

「わかるって。外見、確かに変わってるけど、二年くらいでわからなくなるほどじゃないよ」


 どくん、と跳ねる心臓をなだめながら、菜都乃に笑いかける。中学時代に戻ったというほどではないにしても、彼女との会話は問題なく進めることができていた。


「そう? なら、中で待ってれば良かった。寒いんだもん、ここ」

「外で話してると風邪ひきそうだし、中に入ろうよ」


 そう言って、菜都乃の返事を待たずに店内に入ると、後からついてきた彼女が私を追い越す。そして、真剣な顔でドーナツを選び始めた。

 一つにするか、二つにするか。

 ぶつぶつと呟きながらドーナツを物色する彼女は、私の知っている菜都乃ではなかった。見た目も変わっているけれど、それ以上に中身が変わっている。


 夏の太陽みたいにぴかぴかの声に表情。

 めちゃくちゃ元気で、人見知りという感じではなくなっていたという藤原さんから聞いた菜都乃が今の彼女だ。


「晶、決めた?」

「うん。オールドファッションにする」

「あたしは、オールドファッションとフレンチクルーラー」


 食べる数は増えていても、好みは昔と変わっていなかった。私は、中学時代の欠片を見つけたような気がして少しだけほっとする。


「窓際、空いてる」


 ドーナツに加えてドリンクを注文すると、菜都乃が窓際を指さす。私たちはトレイを受け取り、外の景色がよく見える席に座る。


「晶、見た目変わってないね」


 菜都乃が遠慮なしに私を見て、しみじみと言った。


「菜都乃は変わった」

「ショート、似合ってるでしょ」

「外見もだけど、中身」

「中学時代の友達に会うと、みんなそう言う。お正月、藤原さんに会ったんだけど、そのときも言われた」

「聞いた。初詣、行ったの?」

「友達と一緒にね」


 満面の笑みでそう言うと、菜都乃が大口を開けてドーナツを囓る。

 鮮やかに咲く大輪の花のような彼女の姿に、人は変わろうと思えばどこまでも変われるのだと知る。けれど、新しい菜都乃は、記憶の中にいる控え目だった彼女とは重なりようがない。私は、どういう顔をして菜都乃と話せば良いのかわからなくなっていく。


「晶、イメージ変わったよね」

「そう?」

「うん。かなり暗い。いや、元気がない」

「え?」

「昔はもっと明るかったし、元気良かったじゃん」

「落ち着いたんだよ」

「よく言えばそうかもしれないけどさ」


 彼女の言葉は、間違ってはいない。今の私は中学時代とは異なる私で、昔と同じように振る舞うことはできなかった。それでも、考えていたよりも会話は続いたけれど、所々に微妙な間ができて、お互いに口にすべき言葉を探していることがわかる。

 今も会話が途切れ、中途半端な空白が私たちの間に横たわっていた。

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