第27話
食堂に入ると、席はほとんど埋まっていた。決められた場所に座って、先生の話を聞く。料理が冷めてしまいそうなほど長い話は、頭に欠片も残らなかった。
ケーキを食べるときは正面にいる鈴が、今日は隣にいる。手に持っているものもフォークではなく、お箸だ。
放課後を一緒に過ごすように、夕ご飯を一緒に食べる。同じ時間を過ごすことも、何かを食べるという行為もいつもとそう変わらないのに、今日は落ち着かないし、料理の味もよくわからない。
ふわふわとした気持ちのまま、食事を終えて一度部屋に戻る。そして、着替えを持って四人でお風呂へ向かう。
脱衣所は、考えていたよりも広かった。
ざわざわとした空気の中、平野さんが服を脱ぎ始める。
普通のことだ。
意識するようなことじゃない。
考えすぎるから良くないんだと、静かに息を吐き出す。
中学のときの修学旅行は、お風呂なんてどうということもなかった。周りの目が少しばかり気にはなったけれど、それは他の人も同じだったと思う。
お風呂なんてそんなものだ。同性だし、鈴とお風呂に入るなんてことは当たり前で、藤原さんや平野さんと一緒に入ることとそう変わらない。クラスメイトの裸一つで騒ぐつもりもない。そう思うのに、目のやり場に困る。
隣には当然のように鈴がいて、視界に入れないようにするのは不自然なことに思えた。だからといって、鈴が視界に入ると心臓が騒ぎ出す。かといって、藤原さんや平野さんをじっと見るのもおかしい。
脱衣所でどこを見ればいいのかなんて、考える日がくるとは思わなかった。
私にとって彼女は同性でクラスメイトだけれど、恋人でもあるから一緒にお風呂に入ることが普通とは言い難い。もしかしたら、いつか普通になる日が来るのかもしれないけれど、それは今日ではない。だから、心臓を落ち着かせることができずにいる。
イベントの順番がおかしいのだから、仕方がないのかもしれない。
同性じゃなかったら、恋人と一緒にお風呂に入るというイベントはもう少し後になるものだと思う。段階を踏んで、それなりのことがあってからのもののはずだ。
「晶」
思考の底へと潜っていた私を引き上げるように名前が呼ばれて、声の主を思わず見る。視界に下着姿の彼女が飛び込んできて、心臓がどくんと大きな音を鳴らす。
「入らないの?」
「入るよ」
「服、着たまま?」
鈴が私の上着を引っ張って、部屋着用のパーカーの裾が伸びる。
「脱ぐけど……」
今は、鈴が私を見ているから脱ぎにくい。けれど、パーカーを引っ張る鈴は平然としているように見える。
冬服になってから、ほとんど見ることがなかった白い腕。
少しだけ緩められたネクタイとブラウスに隠されていた肌。
下着に覆われた胸。
制服や体操服の上から見るよりも、綺麗なラインで形作られている鈴。
学校でだって着替えることはあるから、こういう鈴を見たことがないわけじゃない。でも、今日は着替えるわけではなく、脱いでいくだけだから、鞄に大事なものを入れ忘れた時のようにそわそわとした気持ちになる。
「晶、こっち見過ぎ。脱ぎにくい」
そう言って、鈴が私の肩を押した。視線が彼女から外れて、ようやく自分が鈴をじっと見ていたことに気がつく。
「あ、ごめんっ」
反射的に謝って、こんなことは普通のことだと念じながら服を脱ぐ。
今だけ、鈴を特別じゃないと思いたい。
「先に行ってるから」
声をかけられて、「うん」と答える。藤原さんと平野さんも「待ってるよー」なんて軽い調子で言いながら、私の前から消えていく。三人がいなくなると置いて行かれたような気分になって、私は慌てて後を追った。
「鈴木さん、こっち」
藤原さんの声がする方へ行くと、鈴の隣が空けられていてそこが私のために用意された場所だとわかった。
決められたお風呂の時間は、そう長くはない。のんびりお湯に浸かりたいけれどゆっくりはしていられないから、さっさと鈴の隣に座って頭と体を洗うことにする。
修学旅行で恋人とお風呂に入ることになるなんて、去年は想像もしなかった。鈴はどういう気持ちでいるんだろうと気になって、視線が隣へ向く。そこには髪を濡らした鈴がいて、目が合う。でも、それは一瞬で、すぐにお湯と一緒に予想外の言葉が飛んでくる。
「晶のえっち」
「なんでっ」
やましい気持ちがまったくなかったとは言い切れないせいか、声が大きくなって浴場に響く。
「私のこと、見てるなーって」
鈴の声に頬が熱くなって誤魔化すように髪を結んでいたゴムを外すと、藤原さんの声が聞こえてくる。
「鈴木さん、どうしたの?」
「どうもしない」
「冗談なのに。反応しすぎ」
鈴がくすくすと笑う。楽しげな声に顔を向けると、彼女の目が遠慮なしに私を見ていた。
「鈴だって、こっち見てる」
「髪、ほどいてるのレアだから」
「ほどかないと洗えないし」
「結ばないのも似合ってる。かわいい」
「……鈴、面白がってるでしょ」
多分に笑いを含んだ言葉に不機嫌な声を作って返すと、からかうように鈴が言う。
「だって、面白いんだもん」
「あー、もうっ。鈴、黙ってて。あと、洗いにくいから前向いてて」
「そうしとく」
気が済んだのか、鈴が前を向いて髪を洗い始める。
浴室にあふれるクラスメイトの声。
隣から聞こえるシャワーからお湯が流れ出る音。
湯気と混じり合った音は湿り気を帯びていて、頭の中にぺたりと張り付く。
付き合って、キスをして。
その先は想像したことがなかったけれど、そういうことを考えてしまうようなシチュエーションを洗い流す勢いでシャワーからお湯を出す。シャンプーを手に取る。余計なことを考えたくなくて、目をぎゅっと閉じて髪を洗う。
蒸し暑い浴場の中にいると、熱を出して寝込んでいるときを思い出す。思考はふわふわと漂い、油断をすると一つの場所に向かっていく。それはあまり歓迎できることではなくて、私はお湯の温度を下げる。
生ぬるいお湯が流れる音に混じって、平野さんが騒いで、藤原さんがそれを制止する声が聞こえてくる。二人が側にいて良かったと思う。藤原さんと平野さんの声が、私を鈴から引き剥がしてくれる。
湯気で錆びかけた頭に活を入れて、手早く髪と体を洗う。先に湯船に入っていた三人に合流すると、藤原さんが不満げな声を出した。
「お風呂、時間短すぎじゃない?」
「短い。あと三十分くらい欲しい」
ぱしゃり、と平野さんが抗議をするようにお湯を叩き、鈴も「ゆっくりしたい」と呟く。決められた時間は、初めてするスキーで疲れた体を癒やすには短くて、私もそれに頷いた。
それでも、髪と体を洗ってすぐに出て行く生徒は少なくて、結構な人数が浴場にいる。私たちもお湯の中で、部屋に戻ったら何をするだとか、明日はどうするだとかいった話をしていた。
「中学の頃に、鈴木さんともっと話しておけば良かった。そうしたら、もっと早く仲良くなれたのに」
とめどなく続くくだらない話の中、藤原さんがしみじみと言うと、私が言葉を発する前に鈴が口を開いた。
「藤原さん、晶と同じ中学だったの?」
「そうだよ」
「知らなかった」
小さく言って、鈴が私を見た。
こちらに向けられた瞳には、何の色も浮かんでいない。でも、“知らなかった”という言葉は私に向けられていて、口にすべき言葉を探す。けれど、言うべき何かを見つける前に、藤原さんから問いかけられる。
「そうだ、鈴木さん。奥井さんに連絡したの?」
「してない」
唐突に、疎遠になっている友人の名前が投げ出されて、水蒸気に曇るガラスのように心の中が白く濁る。奥井菜都乃が今、どうしているか気にならないわけではないけれど、連絡をしたところで、彼女が私を快く受け入れてくれるとは思えなかった。
「連絡先わからないなら、友達に聞いておこうか? 奥井さんと同じ高校に行ってる子いるから」
「大丈夫。電話番号わかるから」
「そっか」
藤原さんの声に、「ありがとう」とお礼を付け足しておく。頭の中に居座ろうとする菜都乃を追い出すように指先でお湯を弾くと、黙って話を聞いていた鈴が立ちがあった。
「晶。私、先に出るね」
小さくお湯が跳ねて、鈴の背中が見える。少し機嫌が悪そうな声に、私も立ち上がる。
「時間ヤバそうだし、そろそろ行こうか」
平野さんがそう言って、私たちは浴場を後にした。
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