白と黒

第26話

 白というのは、思いのほか眩しい。

 私は、スキー場を覆い尽くす雪にゴーグルというものがどれだけ役に立つのかを身をもって知った。

 ゴーグルを額の上へずらせば、白、白、白。

 ひたすら白に塗り潰された視界は、全ての境界が曖昧に見えて平衡感覚がおかしくなりそうだった。


 私は圧倒的な量の雪の中、ゴーグルを付け直す。紫外線から目を守るという役割が果たされているのかは実感できないけれど、不確かな世界がはっきりとして視界が良くなる。


 始まったばかりの修学旅行は、とにかく慌ただしかった。

 半日以上かけて銀世界に到着したと思ったら、先生のありがたい話を聞いたり、荷物を置いたりするくらいの時間があっただけで、スキーの講習会がばたばたと始まっている。


「平野、異常にはしゃいでたよね」


 藤原さんが白い息を吐き出しながら、リフトを見た。ここからは、誰が乗っているのか見えないけれど、ついさっき平野さんたち中級グループは、リフトの方へ滑っていった。


「この状態、恐怖しかないんだけど」


 私は、スキーブーツとスキー板の不自由さにげんなりする。ごてごてとくっついたバックルと呼ばれるパーツで足を締め付けるスキーブーツは重いし、足を囓るみたいに固定している。そして、戦隊物の巨大ロボットみたいになった足は、ビンディングでスキー板に繋がれていて思うように動かせない。

 そもそもスキーというものは滑るもののはずなのに、私たち初級クラスはゲレンデを歩いている。


「つまんない」


 そう言って、鈴が雪にストックをぷすりと突き刺す。それを見て、藤原さんが恨めしそうな声で言った。


「柴田さん、余裕すぎる」

「ほんとに。こっちは、つまらないなんて思う余裕ないから」


 インストラクターの先生が「斜面を滑るより先に、歩く練習をします」と宣言したときにも思ったけれど、滑る道具を使って歩くものだから、なかなか進んでいかない。とにかくストックを頼りに足を、いやスキー板を前へ出す。


 お揃いのスキーウェア。

 お揃いの帽子とゴーグル。

 お揃いのスキー。


 装備をレンタルで揃えた私たちは、慣れない雪山で文句を言いながらスキー板と格闘を続ける。カニのように横歩きで斜面を登るだとか、転び方だとか、起き上がり方だとか。そんな基本的な練習をひたすらこなしていると、寒くて冷たかったはずの体があたたかくなってくる。


「寒いけど、暑い」


 大量の雪を前に“暑い”なんて言葉を発することになるとは思わなかったけれど、背中は汗で湿っていた。


「寒いとか、暑いとかどうでもいいから、早く終わって欲しい」


 鈴がなだらかな斜面を登りながら、ホテルを見る。けれど、終わりはやってきそうもなく、私たちはスキー板をハの字形にして滑るボーゲンとやらで、登った斜面を滑り降りていく。

 登るのは時間がかかるのに、下りるのはその半分以下の時間だから登ることに意味があるのかなんて考える。リフトで登ったら楽そうだなと思うけれど、登った先の傾斜を考えると滑り降りてくることは不可能に近い。


 リフトに乗ったまま折り返して、下まで戻って、またそのまま上へと向かう。そういうことを繰り返していたら、なにもせずに時間を過ごせそうな気がするなんて馬鹿げたことを考えていると、藤原さんの声が聞こえてきた。


「柴田さん、なんか上手い。中級でも良かったんじゃない?」

「中級で滑るほど上手くないから」

「そんなことないよね?」


 初級クラスの仲間が滑り降りてくる姿を眺めていた藤原さんが私を見る。


「思ってたより上手いから、驚いた」

「うん。柴田さんって、運動ダメそうな感じだもん」

「感じじゃなくて、本当に運動ダメだから」


 鈴がストックでぷすぷすとゲレンデを刺しながら、藤原さんの言葉を訂正する。

 体育の授業を見ている限り、鈴は運動がまったく出来ないというわけではないけれど得意な方ではない。だから、今日習ったことをそつなくこなしていることが不思議に思えた。


「運動ダメでも、スキーは滑れるって変な感じ」

「晶、馬鹿にしてるでしょ?」

「してない。褒めてるの」


 意外な一面。

 鈴のそういうものを見ることができたような気がして、なんだか嬉しい。


「そこ、そろそろお喋りは終了。もう一回登るよ」


 明らかに私たちを指す言葉が飛んできて、斜面を見上げる。

 黙るのは良いけれど、斜面はもう登りたくない。

 スキー板がくっついた足というのは、自分の足ではないように思える。この足を操るのはなかなか厄介な作業で、下手をすると怪我をしそうだった。鈴が足を折ったというのも、今ならわかる。


 それでも、登れと言われたら登らないわけにはいかず、石膏で固められたみたいな足を動かす。私の後から斜面を登ってくる藤原さんを見ると、生まれたてのカニも驚きそうな怪しげな動きで上を目指していた。

 私は汗をかきながらインストラクターの先生がいる位置まで登って、鈴に声をかける。


「鈴、本当にスキー上手いよ」

「やったことがあるから上手そうに見えるだけで、上手くはないでしょ。今だって、また骨折りそうで怖いもん。早く部屋に戻りたい」

「鈴が骨折したっていうのわかる。足、自分の足じゃないみたいで動きにくいし。転んだら、ぽきっといきそう。鈴は、転んで骨折ったんだっけ」


 答えを聞く前に、鈴に順番が回ってきてボーゲンで斜面を滑り降りていく。しばらくしてから、私も彼女の後を追う。

 大きなハの字でゆっくり、ゆっくりと。途中、転びそうになりながらもなんとか体制を整えて鈴の隣へ辿り着くと、彼女がぼそりと言った。


「……雪花ちゃんが上手くて。真似したら、転んで骨折った」


 あまりに聞きたくない言葉が聞こえて、鈴を見る。ゴーグルの向こう側、彼女は斜面を滑り降りる藤原さんを見ているようだった。表情は、顔の半分くらいを覆っているゴーグルのせいでよくわからない。


「スキー、一緒に行ったんだ」

「家が近所だし、親同士が仲良いから。何度か一緒にスキーに行ったの。でも、骨を折ってからは一緒に行ってないし、これから先、一緒に行くこともないよ」


 鈴は淀むことなくそう言うと、はあ、と息を吐いた。

 雪花ちゃんの話は聞きたくないけれど、雪花ちゃんとのことを教えてくれるのは嬉しい。

 今まで鈴が心の奥底に隠していた秘密が、秘密ではなくなっていく。それは、私と彼女の距離が近づいていることの証だと思う。でも、私を見ない鈴に、白い景色には似合わない黒い感情が胸に広がりそうになってストックを握る手に力を込めた。


「心配された?」

「そりゃあね。すごく心配してくれた」

「……どうして話してくれたの?」


 転びながらボーゲンで下へと向かってくる藤原さんを見ながら問いかけると、少し間があってから小さな声が返ってくる。


「なんとなく」


 ぽんっと投げ返された言葉に鈴を見ると、彼女も私を見ていた。広がりかけていた黒いものが、炭酸の泡みたいにしゅわしゅわと消えていく。斜面を下りたり登ったりする私のように、気持ちも下がったり、上がったりするから忙しい。

 遠くから、藤原さんの悲鳴が聞こえてくる。

 結局、三時間もなかった一日目のスキーは、平野さんが乗っていたリフトに乗ることなく終わった。


 けれど、ホテルに戻ったら自由を満喫できるというわけではない。クラス委員の私は、慣れないスキーでバキバキと音を立てそうな体で点呼だとか、ミーティングだとかいったものをこなす。


 面倒な仕事を片付けて部屋に戻れば、六人いるはずの部屋には三人しかいなかった。点呼のときにいたはずの二人が消えていて、鈴が藤原さんと平野さんと一緒にトランプをしている。

 同じ部屋なのだから三人が一緒にいることは不思議でもなんでもないけれど、鈴が一緒に遊んでいるのは意外だった。珍しいこともあるものだと三人を見ていると、平野さんと目が合う。


「鈴木さん、おかえり。消えた二人は飯田さんの部屋で、二人ともそっちで寝るってさ。先生には内緒にしといてね、って遺言を残して二人は旅立ったから」


 疑問だった二人の行方を解決する言葉に、藤原さんの突っ込みが付け加えられる。


「いや、死んでないから。伝言だから伝言」

「伝わればどっちでも同じ。ねえ、鈴木さん」

「同じじゃないと思うけど、とりあえず内緒にしとく。先生にわざわざいなくなったって言ったところで、怒られるの私だもん」

「確かに」


 藤原さんが笑う。そして、「鈴木さん、次から入って」と隣を開けたから、私は藤原さんと鈴の間に座った。


「何やってるの?」

「大富豪。柴田さんが意外に強くて苦戦してる」


 そう言って平野さんが鈴を指す。


「やらないって言ったのに、トランプ配られた」

「だって、二人で大富豪してもつまらないじゃん。それに、修学旅行と言えばトランプでしょ、トランプ」


 平野さんは鼻歌でも歌う勢いで、手札からカードを場に出す。私は彼女のテンションの高さを見て、愛想の欠片もなかったであろう鈴でも断ることが出来なかったことを理解した。

 何勝目かは知らないけれど、しばらくすると鈴が大富豪になって、新たにカードが配られた。そうして、私は何年ぶりかにトランプをして大富豪になったり、大貧民になったりする。


 意外にと称された鈴は確かに強かったから、平野さんの言葉は間違っていなかった。秘密ではないことで、彼女について知らないことがたくさんある。そういう知らないことを少しずつ知っていくことは、楽しいことだと思う。


「お風呂、ご飯の後だよね?」


 平野さんが誰に言うともなくあやふやになっているであろう記憶を口にして、場にクイーンを出す。すると、藤原さんが手札からカードを出すのではなく、身を乗り出した。


「そう、温泉だって。でも、みんなでお風呂って恥ずかしくない?」

「藤原。恥ずかしいと思ったら、恥ずかしさが倍増するからそういうことは言わないの」

「もう、言っちゃったし。鈴木さんも柴田さんも一緒に行くよね?」


 唐突に名前を呼ばれて「え?」と聞き返せば、キングと共に返事が場に出される。


「お風呂」


 修学旅行の説明会で、お風呂は大浴場を使うようにと言われたときから、意図的に頭の中から追い出していた言葉が聞こえて、手札へ視線を落とした。あまり考えないようにしていたけれど、お風呂に入るなら鈴と一緒にということになる。

 それは、当たり前だけれど、当たり前じゃないことだ。

 心臓が落ち着かない。


「そろそろ、食堂行かないと間に合わないんじゃない?」


 鈴の声に手札から顔を上げて彼女を見ると、目が合った。


「ほんとだ」


 平野さんがスマートフォンで時間を確認して、トランプを片付け始める。手早くカードがケースにしまわれて、私たちは夕食のために食堂へ向かう。


「一緒に行くんだよね」


 どこへ、とは言わずに隣を歩く鈴に尋ねると、なににとは言わずに彼女が答えた。


「はいらないつもり?」

「……はいる」


 小さく言って、前を歩く平野さんの背中を見る。こういうとき、どういう気持ちで鈴の隣にいれば良いのかわからなかった。

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