第28話
いつ眠ったのかは覚えていない。うとうとしながら、藤原さんと平野さんの話に相づちを打っていた記憶はある。けれど、何の話をしていたのか覚えていない。鈴の寝顔を見た記憶がないことは確かで、気がついたら朝だった。布団の中で体を動かすと、骨や筋肉が軋む音が聞こえてきそうなほどの痛みがある。
スマートフォンを見れば、アラームが役目を果たす少し前。
隣には、静かに眠る鈴。
そして、石像みたいに微動だにしない藤原さんと、寝相が悪い平野さん。
六人部屋に四人。先生は、雪山に囲まれた宿から生徒が脱走するわけがないとたかをくくっているのか、見回りに来なかった。
早寝もしないし、早起きもしないはずの私は、今日は誰よりも早く起きたらしく、三人はまだ眠っている。枕が変わると眠れないと言っていた鈴もぐっすり眠っているようで、目を覚ましそうになかった。
ゆっくりと音を立てないように体を起こして、誰にも見つからないようにそっと鈴に触れる。ふわふわの髪を撫でると、意外に長いまつげがぴくりと揺れて慌てて手を離す。
息を短く吐いて、早くなりかけた鼓動を抑える。
鈴がまだ眠っていることを確認してから、そろそろと指先を伸ばす。柔らかな頬に触れると、マシュマロみたいにふにふにとしていて気持ちが良い。肌は、薄暗い中でも白く見えた。
そういえば昨日、お風呂で見た鈴もやっぱり白くて、柔らかそうだった。
指先を頬から首筋へと緩やかに下ろしていく。
もっと、触れたい。
なんてことを考えかけて、鈴に張り付いていた手を剥がした。
スマートフォンを見ると、そろそろ誰かが起き出してもおかしくない時間で、私は立ち上がってカーテンを開ける。曇ったガラスを手のひらで擦ると、明るくなりかけている窓の外に雪景色が広がっていた。けれど、銀世界を楽しむ前に、窓ガラスから冷気が伝わってきてくしゃみが一つ出る。
それと同時に、けたたましいアラーム音が鳴り響いて、平野さんが目を覚ました。
「鈴木さん、おはよ」
ぜんまい仕掛けの人形のようにぴょこんと体を起こした平野さんから、眠気を纏わり付かせた声が聞こえてくる。
「おはよう」
「なんか、起きるの早くない? あんまり早起きしないって言ってなかったっけ」
「早起きしないはずなんだけど、珍しく早く目が覚めた」
「そっか。外、晴れてる?」
問いかけられて、窓の外に目をやる。曇りがとれている一部分からは、雪が降っているようには見えない。水滴の付いた窓をもう少し手のひらで擦って視界を広げると、空に雲はないように見えて、窓ガラスで冷えた手を温めながら答える。
「晴れてるみたい。寒そうだけど」
「おおー、今日も良い感じに滑れそう」
そう言うと、平野さんが嬉しそうに窓際にやってくる。でも、すぐに肩を震わせて情けない声を出した。
「うわ、ここ寒い。風邪ひきそう」
「カーテン、閉めるね」
平野さんが無言で頷いて、私は雪山を消し去るようにカーテンを閉める。すると、外から入り込んでいた光も消えて部屋がまた薄暗くなり、平野さんが電気を付けた。
「鈴木さん、この二人起きる気配ないんだけど」
蛍光灯が室内を煌々と照らす中、鈴も藤原さんも寝息を立てていて、平野さんがため息交じりに宣言する。
「私、藤原起こすから、鈴木さんは柴田さん起こして」
「わかった」
私が答えると同時に、平野さんが藤原さんの布団を無言で剥ぎ取る。起きろとか、寒いとか言い合う声が聞こえて、私は笑いをかみ殺しながら静かに眠り続ける鈴の布団の隣に座った。
「起きて、時間だよ」
ぽん、と肩を叩いて起こす。けれど、何の反応もない。もう一度、「鈴、起きて」と声をかけると薄く目が開く。
「あ、きら?」
呼ばれた名前には、粉砂糖がまぶされていた。
マロングラッセほどではないけれど、寝ぼけているのか聞いたことがない甘ったるい声に胸の辺りが熱くなる。その熱が心臓から送り出される血液に乗って体中に運ばれていく。冷えかけていた指先まで熱くなりそうで、私は鈴の布団を半分ほど剥いだ。
「修学旅行中だって、覚えてる?」
「……思い出した。あと十分したら起きる」
鈴が目を擦りながら、剥いだ布団を引っ張る。
「だめだって。起きて」
「やだ、眠い」
「朝ご飯、間に合わなくなるよ」
「食べなくていいから、もうちょっと寝たい」
「鈴ってば」
布団に潜り込もうとする鈴の肩を叩いてみるけれど、目が閉じられてしまう。彼女の名前を呼んでも反応しない。想像以上に寝起きが悪い鈴を前に、どうしたものかと考え込んでいると、平野さんが隣にやってくる。
「柴田さん、起きろー!」
爽やかな声に続くのは、藤原さんに使った強引な手法だった。平野さんが情け容赦なく鈴から布団を剥ぎ取る。
「平野さん、布団返して。寒い」
「おはよ、柴田さん。時間だよ」
平野さんが満面の笑みとともに言い放つと、敷き布団の上に丸まっていた鈴が体を起こした。
「――おはよう」
糖分たっぷりの声とは違うスパイスの効いた低めの声が聞こえてくる。顔を見れば不機嫌そのもので、彼女の登校がいつも遅い理由がなんとなくわかった。
「もっと爽やかな声で挨拶しようよ」
鈴を叩き起こして満足したのか、平野さんが機嫌が良さそうに言って着替えを始める。鼻歌でも歌いそうな勢いの彼女には、眠そうな中にも恨みがたっぷり込められた鈴の目が向けられていた。
「起きられないほど良い枕だった?」
世界中の不幸を集めて煮込んだ料理を食べたみたいに、深い皺を眉間に刻んでいる鈴に問いかける。
「眠れないほど良い枕だった。おかげで、睡眠不足。今日、スキーするとか無理」
「私もスキーは無理そう。筋肉痛だし、スキーしたら死にそうな気がする」
「へえ」
不機嫌が反転して楽しげな声に変わったかと思うと、鈴の手が私に伸びてくる。何をされるのか考える間もなく、彼女の手が私の足を勢いよく突いた。
瞬間、筋肉がピキピキと音を立てたような気がして顔が歪む。その反応が面白かったのか、鈴がもう一度私を突いた。
「ちょっ、鈴。痛いって!」
伸ばされる手を振り払って、彼女から逃げる。けれど、逃走経路はすでに塞がれていた。
「え、なになに? 鈴木さん、筋肉痛なの?」
背後から平野さんの声が聞こえてきて、パシンと足を叩かれる。ぎゃーとは言わなかったものの、呻く程度には痛くて動きが止まる。
「こら、平野。やめなって」
鈴の隣には、いつの間にやってきたのか藤原さんが立っていた。もちろん、ただ立っているわけではなく、私に向かって手が伸びていてもう一度呻くことになった。
「藤原もそう言いながらやってるじゃん」
わいわいとみんなが楽しそうなことは良いことだけれど、この状態はよろしくない。一言で言えば、休みたい。スキーどころか体を動かすこと自体が苦痛だ。
今日のスキーは昨日よりも酷いことになりそうで、私は頭を抱えた。
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