第16話
心に浮かぶ情景は、ほんの数年前の出来事を写し取ったものだ。しっかりと重りをくくりつけて記憶の海に投げ込んだはずなのに、昨日のことのように彼女のことを思い出す。
新しい記録で覆い隠していた記憶が鈴によって呼び覚まされ、私は過去へと連れ去られる。
「菜都乃。冬休み、何してたの?」
久しぶりの学校にざわめく教室の隅、寒風が入り込んできそうな窓際の席に座る
「ちょっと忙しくて」
そう答える彼女の声は、いつもよりも小さくて聞き取りにくかった。原因はわかっている。菜都乃は、私との約束を破った。だから、言葉を濁し、目すら合わせようとしない。
「みんなで初詣行こうって約束してたじゃん」
中学最後の冬休みに思い出を作ろうと言い出したのは私で、菜都乃を巻き込んだ。彼女がそのとき、どう思ったのかは知らないし、聞いてもいない。けれど、初詣に行くと言った。
菜都乃と親しくなってから二年。
彼女は、約束を破ったことがなかった。けれど、クラスメイト五人で行く約束をした初詣に菜都乃の姿はなかった。
「ごめん。急に親戚の家に行くことになって」
「電話したのに」
「気がつかなかった」
口の中で言葉を転がしているのか、もごもごとした声が聞こえてくる。視線は、申し訳なさそうに床に落とされていた。
「まあ、うまく言っといたから」
ぺたんと机に手をついて、菜都乃を見る。
「二十分待っても来なかったからさ、菜都乃と連絡ついて、熱が出たから行けなくなったって言ってるって伝えておいた。だから、今日みんなに謝っておいて」
「……そっか」
「それよりも、移動中に連絡するのも無理だった?」
聞こえてくる気のない返事を打ち消すように問いかけると、菜都乃が頷いた。
「うん」
聞こえてくる声は、さっきよりも小さかった。菜都乃は、うつむいてはいるけれど反省しているようには見えない。私が抗議の意味を込めて机をこつんと叩くと、菜都乃が顔を上げた。
冬休み中、まったく連絡が取れなかったこと。
約束の日、一人で街を歩いていたこと。
会ったら言おうと思っていたことがいくつもあったけれど、今は心の中にしまっておくことにする。私を見ようともしない菜都乃を追い詰めるようなことは、したくなかった。
「来年はさ、初詣に一緒に行こうよ」
「……来年は高校の友達と行くかも」
「そうなったときは、そうなったときで。とりあえず、約束だけしておこうよ」
「そうだね」
曖昧な返事で約束を交わす菜都乃は、気乗りのしない顔をしていた。浮かない表情の彼女に、胃の中に落とし込んだ言葉が喉を這い、口から出てこようとする。
私はごくりとそれをもう一度飲み下し、口角を上げて笑顔を作った。
「菜都乃と一緒の高校にすれば良かった」
「どうして?」
「だって、菜都乃って人見知りだし、高校でちゃんと友達できるか心配だもん」
菜都乃は、初めて会ったときから言いたいことを半分も言わない。残りは飲み込まれ、出てくることはなかった。そんな彼女と一緒にいることが多かった私は、飲み込まれた言葉の半分くらいを代弁する役目を担うことになり、それが今日まで続いてる。
「去年の今頃、ちょっと怖そうなお爺ちゃんに道を聞かれたときにさ、逃げだそうとしてたよね。本当に知らない人、駄目だもん」
とん、と菜都乃の肩を叩く。
彼女はいつだって、からかわれると恥ずかしそうに笑う。だから、今日もそうだと思った。
「駄目じゃない」
珍しく菜都乃がはっきりと私の言葉を否定する。
「駄目でしょ。今も人見知りだし、あのときも私が説明しなかったら、お爺ちゃん道わかんないままだったじゃん」
「一人でもなんとかなったと思う」
「そう? 高校の体験入学のときも、知らない人に囲まれて困ってたって聞いたよ」
「困ってない」
繰り返される否定に、教室のざわめきが遠のく。菜都乃の顔もやけに小さく見えて、距離を感じる。教室にぽつんと一人だけ取り残されたような気がして、私は制服の裾を強く掴んだ。
「晶が」
そう言って、大人しく座っていた菜都乃が立ち上がる。
がたん、と鳴った椅子の音に世界が元へと戻り、冬休みの思い出を語るクラスメイトたちの声が耳に入ってくる。
「……晶がいるから、何も出来ないんだよ」
「え?」
「あたしがやる前に、晶が全部やっちゃうから。……そういうの、少し迷惑。道くらい自分で説明できるし、体験入学だって晶がいなくたって大丈夫だった」
床を見つめていた頼りない目は、そこになかった。意志のこもった視線が私を捉える。彼女の言葉に嘘がないことは表情から見て取れて、私は目をそらす。
菜都乃が飲み込み、押し潰していたもの。
私が見つけることができなかった気持ちは、聞きたくなかったものようだった。それでも、かすかな希望に縋りたくて彼女に尋ねる。
「……ずっと迷惑だって思ってたの?」
質問に答えはない。
菜都乃を見ると、目が潤んでいた。
泣きたいのはこっちの方だという前に、言葉が投げつけられる。
「ごめん。言い過ぎた」
乱暴なくらいの勢いで彼女の口から飛び出たものは、私が欲しかったものではなかった。
菜都乃が宙に浮いた言葉を消し去るように駆け出す。私は、がたがたと机にぶつかりながら教室を出て行く彼女の後ろ姿を見送ることしかできない。
「晶。菜都乃、どうしたの? 泣きそうな顔して走っていったけど」
初詣に行ったメンバーの一人が教室に入ってくるなり、私を見る。
「一緒に探しに行かない?」
「行かない」
「なんで? 行こうよ」
菜都乃の机から一列向こう側の席に鞄をかけた彼女に、腕を引っ張られる。けれど、私は首を横にぶんっと振った。
「迎えに行くの、私じゃない方が良いから」
取って付けたように笑って、諦めきれないように「一緒に行こう」と言う友人の背中を押す。
菜都乃を追いかけて捕まえたところで、迷惑だと言われて終わりだ。きっと、私には彼女を追いかける資格がない。
菜都乃が出て行った扉を見れば、楽しそうにいつものメンバーが教室へ入ってくる。
私はのろのろと自分の席を探し、椅子に座る。
冬休みが終わり、卒業式まで残り僅かとなった今、親友だと思っていた菜都乃に拒絶されるなんて考えてもいなかった。
ごつん、と頭をぶつけながら机に突っ伏して、菜都乃と一緒に過ごした時間を振り返る。けれど、思い出は色あせ、正すべき自分も霞んでいた。
それから、菜都乃とまったく喋らないなんてことはなかった。以前と同じようにとはいかなかったけれど、私と菜都乃は卒業式までにときどき話をする程度の仲には戻れた。
でもそれっきりだ。
高校に入学して、進級して。
その間、私から菜都乃に連絡することはなかったし、菜都乃から連絡がくることもなかった。もちろん、初詣にも行っていない。
私は、あれから立ち止まったままだ。
少しは前へと進んだ気もしたけれど、相変わらず走る去る背中を追いかける足も、走る去る背中にかける声も持っていない。菜都乃の背中を見送ったときから、一歩も動いていない気がする。
今日も、背中を見ていただけだ。
鈴との関係を変えようとしたのはほんの一瞬で、結局、怖じ気づいて彼女を遠ざけている。近づきすぎれば、あのときと同じようなことを繰り返してしまいそうで怖かった。
私は、冷え切った体を温めるように両手に息を吹きかける。それでもかじかんだままの手でお弁当箱を掴むと、流れる冷たい空気から逃げるように階段を駆け下りた。
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