第17話
鈴への返事も、藤原さんへの返事もしていない。
足を引っ張っているのは、なくしてしまいたい過去だと知っている。私は切り離したはずの出来事に、未だに囚われ続けていた。
中学を卒業して、菜都乃とは違う高校へ。
それは小さなきっかけだったけれど、新しい自分を作り上げるには十分すぎるものだった。親しい友達はほとんど別の高校へ行っていたから、今までとは違う自分を作ることは容易かったし、一年目は上手くいった。
必要以上に関わらない関係。
それだけを望んで、二年目も同じように過ごす。
そうするつもりだったのに、鈴がすべて壊した。
――違う。
正確には、私が私を壊している。鈴と親しくなればなるほど作り上げた私は崩れていき、今は元の形がわからないほど粉々になっていた。変質してしまった私という存在は、鈴と会う前の私ですらない。
鈴の意思を踏みつけて近づこうとしたことも、遠い昔のことのように思える。菜都乃に引き戻されて勢いを失った今、自分がどこにいるのかもはっきりとしない。
彼女に闇雲に近づいて、自分勝手に離れて、迷子になっている。それどころか、目的地すら見失っていた。
私は潜り込んだベッドの中から、枕元のスマートフォンを引き寄せる。黒で塗り潰された空間を刺すような光が照らし、目を細める。明るすぎる光源にぼんやりとする視界で、鈴のメールアドレスを選び出す。
スマートフォンの画面に映し出される宛先に、手が止まる。少し前なら、黒板に書かれた文字を書き写すよりも早く指が動いた。けれど、今はぴくりとも動かない。
鈴に送るメールは一行どころか、伝わるならば数文字だって良い。行き先と日時を決めてメールを送るだけなのに、そんな簡単なことが出来ずにいた。
冬休みに行ける場所なんて、そう多くはない。ケーキを食べに行くだとか、買い物に行くだとか。ありきたりの何かで良いはずだけれど、決めかねている。
藤原さんへの返事だってそうだ。
初詣へ行くか、行かないか。
その数文字を書くことが出来ない。鋼鉄のようにかたまったままの指と頭では、難しくないことがとても難しかった。
私は布団の中から這いだし、スマートフォンの電源を切って枕元へ置くと、電気を消してもう一度ベッドへ潜り込んだ。
闇に慣れる前に目を閉じる。結局、二人に返事をすることができないまま夢の中へと落ちていく。
浅い眠りは、今日という日を蘇らせる。
私は夢の中でも、鈴に出かけようと誘われて行き先を決めかねていた。
鈴が行きたい場所、欲しい言葉。
それを考えて、彼女の希望通りにすることもできるけれど、やり過ぎれば昔と同じことになる。
過去と今を行き来するうちに、夢が私を覆い隠していく。いくつもの記憶に絡め取られ、その中に美術室の先輩を見つける。鈴は見つからない。薄氷の上を歩くようにそっと彼女を探していると、目覚ましの音が遠くから聞こえてきた。
深く眠ることなく、悪夢とアラームに叩き起こされ、私は浮かない気持ちを抱えたまま学校へ向かう。
数ヶ月前まで鮮やかな緑と青が溢れていた街は、すっかり冬色に染まっていて今日は雪がちらついている。それでも、通学路ですれ違う生徒たちは、冬休みを前に軽やかな空気に包まれていた。
私は白い息を吐き出しながら、コートを翻して校門を通り過ぎる。凍えそうな下駄箱で靴を履き替え、何人かに「おはよう」と挨拶をして廊下を歩く。
教室の中へ入ると、通学路と同じように長期休み前特有の落ち着きのなさが漂っていた。
「おはよ」
席に着く前に、藤原さんから声をかけられる。
「おはよう。今日、寒いね」
がががっと音を鳴らしながら椅子を引いて腰掛けると、藤原さんが窓の外を指さした。
「天気予報通り、雪降ってるしね。バス来ないかもって言って、親に送ってもらっちゃった」
「これくらいの雪なら、運休にならないよね?」
「ならないね。こんなすぐにやみそうな雪で運休してたら、バス会社潰れるよ」
「お父さんか、お母さんかわかんないけど可哀想に」
「大丈夫、大丈夫。可愛い娘を送るのも親の仕事だから。これも親孝行ってやつ?」
にやりと笑う藤原さんに「そうかなあ」と返すと、後ろから「親孝行って?」と言う声が聞こえる。振り返れば、冷気に頬を赤くした平野さんが立っていた。
三人でたわいもない話をしつつ、鞄から教科書を何冊か引っ張り出して机の中にしまう。
重たくなった心を抱えたままでも、楽しそうに話をすることくらいは出来る。だから、私は二人に気がつかれないように、意識的に弾んだ声を作って出す。
目の端に映る空は、雪を降らし続けている。それは、外で見たときよりも勢いを増していた。平野さんから、「雪、積もりそう」という恨めしそうな声が聞こえてくる。
ホームルームが始まる五分前になると、いつもチャイムとともに現れる鈴が教室に入ってきた。
夏服と同じように緩められたネクタイ。
スカートから伸びる足は、雪よりも白く見えた。
席に着く鈴と目が合う。「おはよう」と少しだけ大きな声で言うと、すぐに朝の挨拶が返ってくる。
「今日、柴田さん遅いけど早い」
遅いけれどいつもよりは早く教室に入ってきた鈴を、平野さんが微妙な言い回しで評価する。
「柴田さん、いつもギリギリだもんね。今日、なんかあるの?」
そう言って、藤原さんが私を見た。
「私に聞かれても」
「いや、鈴木さんに聞く以外ないでしょ」
平野さんの言葉に藤原さんが頷き、私は不透明に笑った。
鈴がいつもより五分早く来た理由は、知らない。聞きたかったけれど聞く前に飲み込んでしまったから、知りようがない。彼女と話したいことはたくさんあるはずなのに、挨拶以外は形にならずに消えてしまう。
「……なんかあった?」
温かなミルクのような声で、藤原さんが言った。寄せられた眉根には、小さな気遣いが感じられる。けれど、私はそれに気がつかない振りをして何もないと笑った。
これまでは呼吸をするよりも簡単に嘘をついていたけれど、二人と距離が近づいた分だけ嘘をつくことにやましさを感じる。かといって、鈴とのことを話すことはできない。
私は、口に出来なかったたくさんの何かをごくんと飲み込んで、消化出来ないものだと知りながら胃の中に落とす。
お腹が痛くなりそうな塊を体の中にしまい込み、先生の到着を待つ。
私は、今日も鈴と「おはよう」という言葉以外を交わすことなく授業を受けた。
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