第5話

 柴田さんは、私の想像以上に勉強が出来た。と言っても、想像が低すぎただけで、成績で言えば私と同じく普通ということになるんだと思う。ただ、私の苦手な科目が得意で、私が得意な科目が彼女の苦手科目だったから、図書館での勉強は捗った。


 授業中、窓の外を見てばかりいる柴田さんが真剣な顔をして教科書を睨んでいるのは新鮮だった。教科書を挟んで隣同士に座って、内緒話をするみたいに問題の解き方を教える。そんなたわいもないことも楽しかった。


 ベッドに寝転がり、天井のかわりに教科書を眺める。

 中間テストが始まり、私たちの寄り道は途絶えていた。

 

『テストが終わるまでは会わないなんていうのも、恋人同士っぽいよね』


 という、柴田さんのわかるようなわからないような言葉により、私は彼女と付き合う前と同じ生活を送っている。


 会えないことが寂しいとは思わない。

 ただ、寄り道が楽しかった。


 美味しいスイーツ。

 くだらないおしゃべり。

 柴田さんの甘い声。

 少しだけ懐かしく感じる。


 私は、ぺらぺらと教科書をめくる。テスト範囲の何ページ目かに、いつ書いたのか柴田さんの落書きがあった。犬にも猫にも見えるその落書きが、私を見て笑っている。それを見た私の口元も緩む。


 お腹がぐうっと鳴る。

 時計を見ると、七時三十分すぎ。


 カーテンの向こう側では、日の落ちた世界を街灯が照らしているはずで、いつもなら夕飯を食べ始めている。でも、今日はお父さんの帰りが遅いと言っていたから、夕飯はもう少し先になりそうだった。


 私は、もう一度ぐうっと鳴ったお腹を叩いてから、教科書を閉じる。

 中間テストは、上手くいっている。山は当たったし、いつもよりわからない問題が少なかった。柴田さんも、同じようにテスト用紙を埋めたはずだ。

 それでも、気持ちが弾むことはなかった。


 えいっ、と小さくかけ声をかけて、ベッドから体を起こす。机の上に置いてあるスマートフォンを手に取る。

 画面に、柴田さんからのメッセージは見当たらない。


 当たり前の事実に、私はため息を一つついた。

 私は、彼女と連絡を取る方法を知らない。

 恋人同士というには、私と柴田さんの距離は遠いように思えた。



*** *** *** ***



 あれから、二日。

 テストは無事に終わり、期末テストに向けた日々が始まっている。それでも勉強漬けの日々を送るには早く、これからしばらくは自由な放課後を満喫できる。その証拠に、昼休みの教室は浮き足立っていたし、テスト期間中よりもざわついていた。


 いつものメンバー、藤原さんと平野さんの三人でお昼を食べていた私も勉強から解放されたせいか、口数が多くなっていた。もしかすると、柴田さんとお喋りを続けていた効果かもしれない。人と話すということが、当たり前のことになってきているとも考えられた。


 少し空いた窓から、冷たくはないけれど暖かくもない風が入ってくる。真夏の湿り気を帯びた風に比べ、心地の良い風が前髪をゆらす。


 視線を教室の真ん中よりも後ろ、柴田さんの席に向ける。けれど、そこには彼女の机と椅子があるだけで本人はいなかった。


「次、化学だよね?」


 藤原さんに問いかけられ、私は頷く。

 

「山田、うるさいし早めに化学室いっとかない?」


 平野さんが化学の先生の名を出し、立ち上がる。私たちもその言葉に同意し、机の中から化学の教科書とノートを引っ張り出すと、教室を後にした。


 欠伸を一つ、二つ、かみ殺しながら化学室へ向かう。渡り廊下を歩きながら、ぼんやりと今日の放課後はどこへ行くんだろうと考えていると、担任の先生の声がした。


「おい、鈴木」


 続く言葉は、委員会の集まりを告げるものだった。


 私は、クラス委員を務めている、というか、押しつけられている。

 進級してすぐ、新しいクラスメイトがどんな人たちかもわからないうちに決められる委員。大抵はクラス委員の役が余り、投票だとかいう民主的なようで、酷く独善的なもので決められる。その結果、目立つ生徒か、当たり障りのない生徒が選ばれることが多い。


 私は当然、後者だ。断って新しいクラスに波風を立てることを好まず、目の前に差し出されたクラス委員という役割を受け入れた。幸い、クラス内にはもめ事を起こすような生徒も、何にでも反対意見をぶつけてくるような生徒もいないため、それなりに平和に委員を務めている。


 それでも、テストが終わって晴れて自由の身になった翌日に喜んで委員会に出たいとは思わないが、先生には「わかりました」と答える。わかりません、出たくありません、と答えたところで、どうにもならないのだからそう答えるのが一番だった。


 風に流される煙のように、現実を受け入れる。私は、海に漂うくらげになった気持ちで、面倒な役割をこなしていくことが一番だと知っている。そう思っていながらも、定例ではない委員会は私の心の重しとなり、午後の授業は浮かない気分で受けることになった。


 そして、放課後。

 私は、柴田さんの姿を探していた。


 ほとんどの生徒が帰った放課後の教室は、がらんとしていて広く感じるが、一目見れば誰がいて誰がいないのかがわかる。

 私は未だに、彼女の連絡先を知らない。だから、彼女に今から委員会に行かなければいけないと直接伝える必要があったが、教室に柴田さんはいなかった。


 彼女が教室にいないことは、珍しいことではない。それでも、放課後はいつも教室に残っていた。


 黒板の上、丸い時計を見る。

 委員会が始まる時間が近かった。


 柴田さんを探している時間はなさそうで、私は教室を飛び出して、廊下を走る。グレーの床を蹴るたび、上履きがきゅっきゅっと高い音を鳴らす。先生の「廊下を走るな」という声が聞こえたけれど、すいませんと一言謝って速度を上げる。


 ダンっと床を踏みしめて、委員会が行われる教室に飛び込めば、メンバーはほぼ揃っていた。


 私が席に座ってから、五分。

 メンバーがすべて揃い、先生が来て、そう面白くもない話をした。記憶は曖昧で、何の話をしたのかよく覚えていない。


 私はスマートフォンを片手にときどき窓の外を見て、委員会を終えた。

 全速力で走った廊下を歩いて戻る。


 三十分ほどを委員会に費やして戻った教室では、柴田さんが私の机に腰を掛けて暗くなりつつある空を見ていた。


「柴田さん」


 電気のついていない薄暗い教室。柴田さんを呼ぶと、彼女が振り返る。


 ブラウスは上から二つ、ボタンが外されていた。

 それに合わせて、緩められたネクタイ。

 けれど、それほどスカートの丈は短くない。


 夕暮れ時ではないけれど、告白されたあの日のように柴田さんと二人きりの教室。窓の外からは、部活動に励む生徒たちの声が聞こえてくる。


 私は、手をぎゅっと握ってから開く。何度かグーとパーを繰り返して息を大きく吸ってから、柴田さんの元へと向かう。


「待っててくれたんだ」


 そう言って私は、柴田さんが座っている机の前、藤原さんの席に座る。


「一緒に帰りたかったから」


 ふわりと柴田さんが笑う。私は微笑み返すべきか少し迷ってから、そっか、と答えた。そして、言い訳と謝罪を一つずつ付け加える。


「急に委員会があるって言われて。遅くなってごめん」

「いいよ。待ってたかったから、待ってただけだし。でも、遅くなった罰は受けてもらおうかな」

「罰?」

「私のこと、鈴って呼んでよ」

「名前で呼べってこと?」

「そう。私も晶って呼ぶ」


 所在なげに足をぶらぶらさせながら、柴田さんが私を見る。視線をそらすと、彼女の手が私の机の縁をなぞった。


「名字で呼び合うより、恋人同士っぽいでしょ」


 名前で呼ぶことなど、たいしたことではない。親しくなれば、友人同士でも名前で呼び合う。私自身、名字ではなく名前で呼ぶ友人が過去にいた。それなのに、素直に鈴と呼べない。どういうわけか、私は顔を上げられなかった。


「晶?」


 黙り込んだままの私を柴田さんがつつく。

 大丈夫。名前で呼ぶことになんて意味はない。

 私は、自分にそう言い聞かせて顔を上げる。


「じゃあ、鈴って呼ぶから、連絡先教えて。今日も、委員会があること連絡できなかったし。それに、恋人同士なのに電話番号すら知らないのって変でしょ」


 吐き出す息と共に、一気に告げる。そして、私は、彼女の連絡先を聞きたかったのだといまさら気がついた。


「メールアドレス」

「え?」


 私は、薄闇色の空に投げかけるように呟かれた言葉を捉えるために聞き返した。彼女は私の問いかけに、ぱたぱたと揺らしていた足を止める。


「メールで良いよね? メッセージの交換みたいなこと、面倒だからやってない」

「私もやってないし、メールでいい」

「気が合うね」


 口元を綻ばせた鈴が机からぴょんと降り、鞄の中を探ってスマートフォンを取り出す。


「こういうの、コミュ障って言うんじゃないの?」


 私が笑いながらそう言うと、鈴が即座にそれを否定した。


「晶とはコミュニケーションが取れてるからいいの」


 なるほど、と返して私もスマートフォンをスカートのポケットから出す。

 そして、メールアドレスを交換し合う。


 私が手に入れた彼女のほんの一部。鈴のことは今も知らないことの方が多いし、特に知りたいとも思わない。

 それでも、私は知りたかったらしい。


 藤原さんに平野さん、クラスメイトたち。他の誰の連絡先も知りたいとは思わなかったのに、彼女の連絡先は知りたいと思った。連絡することがあるのか、ないのかなんてわからない。それでも、スマートフォンにしまわれた彼女のメールアドレスは私を落ち着かせた。


 鈴は、私に多くを尋ねない。かわりに、教えたくないものは教えてくれない。今だって、電話番号は教えてくれなかった。でも、鈴のこういうところが居心地の良さに繋がっている。


 二人でいるときは近すぎる距離に戸惑うこともあるけれど、それ以外は適度な距離を保ってくれる。


 彼女に好きだと返す。


 そのたった一つの約束を守れば、鈴との適度な距離は維持され、上辺だけでも春の日差しの中にいるような心地の良い場所を手に入れることができる。私にとって、それは必要なものになりつつあった。

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