宮廷魔術師と再発防止策

 私たちが魔獣に襲われてから、周囲の子たちからせんぱいへの評価が上がっていった。


『あの時のリザさんカッコよかったよね』

『成績もいいんでしょ。学院始まって以来の才女だって』

『憧れるよね』


 そう言われるたびに誇らしい気持ちになった。

 それと一緒に少しずつモヤモヤすることも増えていった。


『憧れるのは構わないけど、せんぱいは私のせんぱいだから』


 そんな思いも一緒に抱えるようになっていった。

 いつか同じ学年の子が、せんぱいの事を聞かれた。

 好きなものはなにか。

 休日は何をしているか。

 どんな本を読むのか。

 とても不快で、笑顔を作るのがしんどかった。

 その少し後、その子がせんぱいと楽しそうに話しているのを見かけた。

 しばらくしてせんぱいの口からその子の名前が出して、いい子だね、といった時は、どうしようもなく悔しかった。

 それでも何もできず、二人が話している所にさりげなく加わるくらいのささやかな抵抗しかできなかった。

 少しして、せんぱいに悩み相談があると言われる。


『告白されたんだけど、どうすればいいかな……』


 私のせんぱいに勝手なことしないで、とか、せんぱいのこと何にも知らないくせに、とかそんな思いが渦巻いていたけど。

 何より一番悲しかったことは、先輩が嬉しそうにしていたことだった。貰ったという手紙を大切そうに両手で持っているのが本当に嫌だった。

 その時にやっと気付いた。

 私は、せんぱいが好き。

 その少し後、せんぱいがその告白を断ったことを知った時は、本当に嬉しかった。



 * * *



 陽が傾きかけ、街が夕色に染まっている。

 普段よりもずっと早い時間に業務を切り上げると、リザは足早に商店街を抜けてきた。

 住宅街の中でも一際大きな敷地を持つメイリープ家の別宅。

 その屋敷の扉の前、わずかな時間呼吸を整えると、意を決して開く。

 明かりの灯っていない薄暗いエントランス、そこにはもっとも信頼している少女が立っていた。


「……ただいま」

「あーせんぱい、おかえりなさーい」


 金髪碧眼で、背はそれほど高くない。十年来の付き合いの少女、フィオ。

 玄関先でフィオは両手を広げて出迎えてくれた。手には買い物かごを持っており、昨日着ていたのとは別の白いワンピースを身に纏っている。これから買い物にでも行くつもりだったのだろうか。


「本当に早く帰ってきてくれたんですね」


 フィオが嬉しそうに笑うと、リザは困ったように微笑んだ。


「シロは?」

「お部屋で寝てますよー、だいぶ良くなったみたいです」


 フィオはにっこりと笑う。フィオの様子は、リザから見て普段と変わらない気がした。


「そっか……」


 気のせいだろう、考えすぎだろう、とリザは考えている。

 そんなことするはずがない、理由がない、意味がない、そんな人間じゃない、と否定する理由はいくらでも考えられた。しかし一方で、一番確率が高いのが彼女であることもまた厳然たる事実だった。

 一度疑惑が湧いてしまえば、それは確かめずにはいられない。

 しかし疑っているから確かめるのではなく、信じているから確かめるのである。

 たとえ彼女だったとしても、そこには彼女なりの理由があったはずだと、信じているから確かめる。


「これから買い物に行こうと思ってたんですけど、シロちゃんひとりにするのも心配だったんですよね。さすがせんぱい、良いタイミングです!」


 フィオは笑う。つられてリザも微笑んだが、かなりぎこちなかったようだ。


「……せんぱい?」


 フィオが心配そうにリザの顔を覗き込む。


「……その、ちょっと嫌な考えが頭に浮かんじゃって」

「……なんですか?」


 嫌な考え、という言葉にフィオは少しだけ笑顔を曇らせる。その様子を見て、リザは戸惑ってしまう。普段ならば、もっと明るい声で聞き返すはずだろう。


「あのね、フィオ」

「はい」


 リザは躊躇う。どんな答えが返ってくるか、不安で不安で仕方なかった。

 もし予想通りの答えが返って来たら、自分はどうすれば良いのだろうか。本当に受け入れることはできるのか。このまま何もわからない方がいいのではないだろうか。そんな考えが、リザの頭の中に渦巻いている。


「あ、やっぱり」


 いいや、と言いかけたところで、


「……せんぱい」


 フィオは口を開く。


「せんぱいの考えを、聞かせてください」


 微笑むフィオは、何かを諦めているように感じられた。その表情に、リザはもう伝えなければならないのだと悟った。


「……うん、聞いてくれる?」


 まだ少し躊躇いながらそれでも踏み込んでいく。


「シロを襲った魔獣は、フィオが作ったの?」


 リザの言葉に、フィオは自嘲気味に、そして悲しそうに微笑む。


「はい、そうです」


 その答えは、リザが想像していた通りの、最悪の答えだった。

 フィオの微笑みから目をそらすようにリザは項垂れる。頭の中では無数の疑問符が浮かび上がり、どこから処理していけばよいかもわからない。


「……なんで」


 それだけ、絞り出すように尋ねた。他にもいくつもの言葉が思い浮かんだが、それらは全て感情に押しつぶされて喉からは出てこなかった。

 フィオはリザの横を通り、大きな観音開きの玄関扉を片方だけ開ける。


「フィオ……!」

「帰ったら」


 追いかけようと振り返ったリザに、フィオは目を合わさない。


「帰ったら、全て話します。少しだけ、時間をください」


 リザはひとり残され、扉はゆっくりと閉まった。



 * * *



 私は本当に彼女のことがわかっていなかったのだな。

 彼女がそんなことをする筈がないと、初めから無意識に決めつけていた。

 十年来の付き合いで、知らないことなど無いと思い込んでいた。

 勝手に理解した気になり、勝手に彼女という人間を作り上げていた。

 だからこうして、これほどまでに打ちひしがれている。

 信じているから確かめるんだなんて、なんて思い上がりだろう。

 身勝手に作り上げた彼女を、身勝手に信じていただけのくせに。

 彼女は、もしかしてそれが負担だったんじゃないだろうか。

 私は、幾つのことを彼女に強要してしまったのだろう。

 彼女と一緒にいることが楽しすぎて、彼女の気持ちを置き去りにしてしまった。

 私はまだ、彼女と一緒にいたいのに。

 私には、彼女が必要なのに。



 * * *



「りざ?」


 エントランスで膝をつき、失意に項垂れるリザは声をかけられた方向を向く。そこに立つのはシロだった。


「……シロ」


 いつものどこか感情のなさそうな表情でリザを見つめていた。

 シロの顔を見て、膝をついている場合ではないと、慌てて立ちあがり目元を拭うと、駆け寄ってくるシロに笑顔を向けた。その笑顔は随分と歪んでいると自分でもわかっていたが、どうすることもできなかった。


「どうしたの?」


 見上げているシロの顔はいつもの無表情。


「どうもしないよ?シロは具合どう?」


 どうもしないはずは無かったが、シロにそう問われれば、強がる以外の選択肢を取れなかった。


「よくなった」

「そっか、よかった」


 もう一度笑う。笑顔は先ほどよりは幾分自然になったであろうか。見上げるシロの表情に変化はない。


「りざ、すわって」

「え、なんで?」


 急なシロのお願いに、リザは驚いてしまう。


「いいから」


 シロはずっといつもの感情を見せない表情をしている。

 疑問に思いながらリザは膝を抱えるようにしゃがむと、シロの小さな右手が頭の上に乗った。


「どう?」


 シロは首を傾げる。


「えっと、何が?」


 リザも首を傾げる。


「こうすると、うれしいから」


 リザの頭に乗せた右手を前後に動かす。小さな手のひらが髪の毛越しに動くのがわかり、リザはなぜか恥ずかしいような心持ちになった。

 そしてそれ以上に、シロの言う通り喜びが込み上げてきた。


「うれしくなった?」


 変わらない表情でそう問いかけるシロ。


「うん、ありがとうね」


 リザが答えると、シロは満足そうに頷いた。


「私が落ち込んでたから、撫でてくれたの?」


 そう尋ねると。無言でシロが頷いた。

 そっか、とリザは笑い、笑いながら、シロに感謝していた。


(もしシロがいなかったら、立ち上がれなかったかもしれない)


 一番の理解者だったフィオのことがわからなくなってしまい、混乱し落涙しそうになっていた自分を立て直してくれたのは、目の前の少女だった。


「ありがとね、シロ」


 シロは首を傾げた。


(さて、どうしようか)


 フィオは帰ったら全て話すと言っていたが、ただ待つには衝撃的すぎて落ち着かなかった。

 フィオが語った真実を受け止めきれるだろうか、受け止めきれなかったらフィオとの関係はどうなるのだろうか。

 もし受け止めたとしても、シロはフィオを怖がるようになるのではないだろうか。

 もしそうなった時に、私はフィオとシロのどちらの側に居ればいいのだろうか。

 そもそもなんでフィオがそんなことをしたのか……、考えても答えの出ない問いに懊悩するリザ。


(フィオが帰ってくるのを待っていようか……それともシロにはあらかじめ伝えておいたほうがいいかな)


 リザが悩みながらシロを見ていると、


「りざ」


 シロの方から話しかけた。


「ん、どうしたの?」

「まえ、もりでいぬとあった」


 まるで自分の悩みを見透かしていたかのような話題。


「あっと……そ、だね、それがどうしたの?」


 驚いてしまい、吃ってしまうリザ。


「あれは、ふぃおがやった」


 シロの淡々とした口調で語られた言葉に、リザは言葉を失いかける。


「あの……やったってどういう事?」

「ふぃおがいぬにめいれいした」


 先ほどリザがフィオに問い質し得た回答を、シロはすでに持っていた。


「……なんで、知ってるの?」


 深呼吸をひとつした後、極めて冷静にシロに問えば、


「ふぃおがおしえてくれた」


 リザにとっての意外な答えを、いつもの平然とした顔でシロは答えた。


「……フィオが?」

「うん」


 シロは頷くと、先日の森での出来事をリザに話した。

 森の中でフィオに声をかけられ、気づくとリザとはぐれ、フィオと二人きりになっていたこと。

 フィオにその場を離れないように言われ待っていると、魔獣に出くわしていたこと。


「あのとき、なんでこえをかけたのってきいた」


 そこからは、今日の話になった。

 シロが森での出来事について聞くと、フィオは泣きながらシロに全てを告白した。

 森の調査をするように誘導したこと、野生動物を魔獣化させたこと、そして『シロを狙う』ように魔獣に指示を出したこと。

 そして、それらを話して、泣きながらシロに謝るフィオを、抱きしめながら許したこと。

 辿々しくもはっきりと、シロの口から語られた。


「……シロは、どう思った?」


 全ての話を聞いて、リザはシロに尋ねた。


「びっくりした」


 いつもの物怖じしない口調に


「そうだよね」


 とリザは苦笑する。


「でも、許してあげたんだ」

「うん、ふぃおがすきだから」


 当前の事実を語るような口調で、シロはあっさりと答えを返した。

 そのけろりとした物言いが可笑しくて、リザは頬が緩む。


「だから、その、りざも、ふぃおをゆるしてあげて?」


 その時、初めてシロは、少しだけ不安そうな表情を見せる。もしかしたらフィオを許してほしいと言いたくて、シロはこの話をしたのかもしれない。


「シロが許したなら、私も怒らないよ」

「ほんとう?」

「うん」


 リザが笑うと、シロも安心したように吐息を漏らした。


「ありがと」

「こちらこそ、フィオを許してくれてありがとう、シロ」


 そう言って、リザはシロの頭を撫でる。リザはフィオにどう応対すべきかと悩んでいたが、それらの答えを全てシロにもらった。

 もしかしたら、もう少しシロが大きくなって、いろいろと理解できるようになった時に、このことを思い出して怖がるかもしれないとも思ったが、


(そうならないようにするのが、私の役目かな)


 とリザは心に誓う。


「でも理由は聞かないと、理由次第では許さないよ」

「りゆう?」

「そう、シロを狙った理由」

「かわいいから?」


 多分違うと思うけど、と言ってリザは笑った。







 天井に設えられた魔術灯が、リビング全体を暖かそうな光で包んでいる中で、リザとシロは並んでソファーにかけていた。部屋にある暖炉はきれいに掃除されており、この秋にはまだ一度も使われてはいない。


「……おそいね」


 リザの傍に寄りかかるシロが、ぼんやりと眼前のテーブルを見るともなしに見ながら呟いた。

 フィオが戻らないまま、刻々と時は刻まれていく。


「……うん」


 リザが立ち上がり窓辺まで移動し辺りの様子を確認する。陽は完全に沈み、家の周囲は闇に包まれている。広い庭から先には、街灯の頼りない灯だけが煌々と灯っている。

 フィオの姿は、少なくとも窓からは見えなかった。

 平時ならとっくに夕食を摂り終わっているくらいの時刻だ。空腹感を覚えると共に、リザは不安に苛まれる。


(きっと戻れないだけだろうけど、もしかしたら自暴自棄になってたり……)


 座っていたソファーに戻ろうとしたが、いたたまれなくなり再度窓辺に移動して周囲を確認する。

 窓から見た景色は先ほどと何も変わらない。庭より向こうが見通せない事をもどかしく思い、リザはリビングのドアまで歩む。


「ちょっと見てくるね」


 ポールハンガーにかけた深緑のローブを手に取ると、大きなソファーに座るシロに声をかけ、リザはリビングを離れた。

 小走りで薄暗いエントランスを抜け、玄関扉を開ける。

 リザは視線を感じて振り向くと、リビングからシロが顔を出していた。


「ちょっと見てくるだけだから、シロはそこにいてね」


 声をかけると、シロは頷いてリビングのドアを閉めた。

 それを見て安心し、リザも外に出て玄関扉を閉める。

 昼に少し降ったであろう雨の影響か、外はひんやりと冷たかった。空気が澄んでいるのか月や星は綺麗に見えたが、のんびりと眺めている余裕はリザにはなかった。

 小走りで暗い庭を抜け、門を一人分が通れるだけ開けて抜ける。住宅街の通りは人の気配がなく、足音も人影も感じられなかった。

 月明かりと魔術灯の街灯だけが頼りで暗く視認性は悪いが、通りにはフィオの姿も確認できない。

 リザは少し悩み、フィオの行方を推し量る。


(ただ買い物に行ったとすれば、商店街の方だよね。でもそれにしては遅すぎる。たぶん、帰る決心がつかないんだろうけど……)


 そこまでは考えたが、しかしどちらに行けば良いかはわからない。

 よく一緒にお昼を食べた中央広場だろうか。休みの日に三人で行った王都東側の高台広場だろうか。やはり商店街だろうか。それとも王城だろうか。

 候補は出たが、どれも有りそうであり、無さそうであった。

 待っていた方が良いだろうかとも考えたが、もしどこかで悩み、帰れないようだったら、無理矢理にでも引っ張って来た方が良いだろうとリザは判断する。

 ふと気になり背後を振り返り、シロが付いてきていないことを玄関先を見て確認する。リビングの窓に視線を遣ると、銀色の頭が見えた。

 シロが言いつけを守っているらしいことを確認すると、もう一度悩み、もう一度左右を確認し、結局パン屋や雑貨を取り扱う店などがある商店街の方へ歩き始めた。

 再び背後を確認するがシロはいない。リザは歩く速度を速めた。

 ぽつぽつと灯る魔術灯の灯を頼りに歩を進める。速度をまたあげると、ローブの裾がはたはたと風になびいている。

 静かな暗い街を一人で歩けば、いつもの景色がどこか異世界めいて見えてくるが、そんな情緒に浸れるほどの余裕が今のリザにはない。

 商店街につき、フィオが贔屓にしているパン屋の近くまで来たが、すでに灯は消えており営業は終了している。商店街を見回しても、灯がついている店は皆無だった。

 静まり返った商店街に人影はなく、ともすれば気味が悪く映る。無論フィオの姿も無い。

 リザは辺りを見回してから商店街を抜け、王都の中央広場まで出る。見渡せばいくつかのベンチにかけている人は見つかるが、どれもフィオの特徴とは一致しない。


(参ったな……)


 ここまでくれば見つかだろうと踏んでいたが、生憎とそうはいかない。

 中央広場からは十字に道が伸びている。全方向に首を回し、来た道から左手にあたる西方向に進んだ。こちらからなら、ぐるりと迂回してメイリープ邸に戻れる。

 戻ってきているかもしれないという思いと、独りで残してきたシロのことが気になり、一度戻ることにした。

 往路と同じような、月明かりだけの暗がりの中にぽつぽつと魔術灯が設えてある路を、周囲を見渡しながら小走りで進んでいく。

 魔術灯はゆらゆらと揺れ、煉瓦造りの街路を照らしていた。

 しばらくして、メイリープ邸に戻ったリザを玄関先で迎えたのは、先ほどの白いワンピースを着たままのフィオだった。


「……せんぱい?」

「ああ、フィオ、良かった、戻ったんだ」


 リザは安堵の表情で胸をなでおろすが、フィオは顔面蒼白で硬い表情をしている。


「ええ、あの、シロちゃんは……?」

「……シロ?」


 嫌な予感が、先ほど安堵感に包まれたばかりのリザの胸中を覆った。


「……いないの?」

「ええ、せんぱいと一緒だと思っていたんですけど……」


 僅かに、二人で見合う。


「探してくる」

「私も行きます!」


 二人で玄関を飛び出し、二手に別れるのだった。



 * * *



 最初、私はその人が好きではなかったように思う。

 田舎で甘やかされて育った私はとても人見知りで、遠慮なく私に構ってくるその人が苦手だった。

 他の人が私の名前に遠慮したり気を使ったりしてくれるのに、その人は全然遠慮しない。

 姉だからという理由で私に構ってくるその人を、私は嫌味を込めて『せんぱい』と呼ぶようになる。

 いつか、せんぱいは学院に対して、とても怒った事がある。

 試験の数日前、私は成績が悪くて合格点を取れるかわからなかった。学院は私の名前に気を遣って成績を底上げしようとしてくれたのだけど、その事に対してせんぱいは怒った。


『そんな事されなくても、私の妹は誰にでも誇れる成績を取りますから!』


 それからせんぱいは厳しく丁寧に勉強を見てくれた。お陰で、誇れる成績ではなかったけど、合格点はとれた。

 その時私は、せんぱいと一緒にいれば、自分の力で何かが出来るような気がして、私は少しだけ自信がついた。

 ある日、森の中での授業。私たちは魔獣に襲われた。せんぱいは、必死で私を守ってくれて、私を逃がしてくれた。

 泣きながら逃げて、近くの先生に助けを求めた。

 もしかしたら、せんぱいを失ってしまうんじゃないかと思うと、怖くて怖くて仕方なかったけど、せんぱいは平気な顔で笑った。


『妹を守るのは、姉として当然でしょう?』


 私を撫でてくれた手は、とても優しかった。

 ある日、同じ学年の子が、せんぱいがかっこいいという話をしていた。妹の私にせんぱいのことをたくさん聞かれた。

 頑張って笑っていたけど、とても不快だった。

 その子は結局せんぱいに告白した。

 とにかく悔しくて、モヤモヤとした気持ちを抱えた。

 その時に、やっと自覚した。

 私はせんぱいが好き。

 私に自信をくれた。愛情をくれた。知識をくれた。

 少し変わってる、大好きな人。

 せんぱいが卒業する時、告白をすべきかと悩んだけれど、結局想いは伝えられなかった。

 代わりに、目一杯勉強した。もう一度、せんぱいの隣に居られるように。

 必死で勉強して、いくつかの狡い手も使って、何としてでも手に入れたかったせんぱいの近くを手に入れた。

 手に入れたけど、それでも私は満たされなかった。

 隣に居るだけでは我慢できない。踏み出してしまいたい。

 そんな時に降って湧いた、せんぱいと暮らせる機会。

 幸せが降ってきて、幸せはすぐに終わってしまう。花に嵐の喩えのように。

 二人きりを邪魔する、小さな銀色の髪。


『守ってあげたい』


 せんぱいの口からでた言葉。

 あの時私が貰った言葉は、私に向けた言葉ではなくて。せんぱいは銀色の髪を撫でていた。

 悲しくて悔しくて、泣き喚いて、私だけを見て欲しいと迫りたかったけど、それもできなくて。

 私は排除する『動機』を手に入れてしまった。

 そして私には、誰にもわからないように排除出来てしまう『機会』も持っていたし、魔族かもしれないから排除した方が良いという『正当性』も掲げることが出来た。

 今思うと、泣き喚いて、私だけを見て欲しいと迫った方が良かったなと思う。

 どんなに謝っても許されるとは思えなかったけど、許してくれた。

 その、私が排除したかった存在は、目の前にいた。

 私が排除するために作った存在に、排除されようとしている。


「シロちゃん!!」


 その存在の名前を呼んで、その存在に覆い被さった。



 * * *



「シロちゃん!!」


 フィオの叫ぶ声が、リザの耳に届いた。

 リザは周囲を見回す。

 市街地から離れ、シロに出会った廃屋の辺りまで来ていた。

 声が聞こえたのはここよりもさらに西。

 管理狩場の森に寄った辺りだろうか。

 フィオの切迫した声と、いい記憶の無い場所に、リザはいつかのように走り出す。

 ローブの裾が足に当たり、フードは風に煽られている。

 街はずれ、魔術灯は少なく、暗闇に慣れたといえど見通しは効かない。


「フィオ!」


 リザの視線の少し先、森の入り口からだいぶ手前に、蹲るようなフィオと思しき影を見つけた。

 リザが声をかけたが、しゃがんだまま影の反応はない。シロの姿も、リザの視線からは見えなかった。

 徐々に近づくと、異常に気づいた。

 風に乗って流れてくる空気に混ざる、異様な腐臭。

 フィオに覆いかぶさるような四つ脚の影。

 朱に染まった地面と、フィオの白いワンピース。

 フィオの腕の中に光る、銀色の髪。

 リザは走る。

 月明かりと少数の魔術灯の微弱な光量のもと、やっと完全に視認できる。

 憤りと悲しみ、絶望と恐れ、驚愕、焦燥、後悔、痛苦、怨嗟。

 あらゆる感情を差し置いて、とにかく走った。

 フィオに覆いかぶさっていたのは、森で見た一度は追い払った犬型の魔獣。

 フィオの首元に牙を立て、激しく首を振り肉を引き千切ろうとしている。

 フィオの鎖骨の間のから右側の頸動脈にかけて下顎が、左側の頸動脈から左耳の下部あたりまでを上顎が、鋭い数十本の牙を楔にして離さない。

 魔獣は引き千切らんと首を振るが、フィオは蹲ったまま、少女を守るように腕の中に抱えている。

 魔獣の口の間からは、涎とともに大量の血液が溢れている。

 その血液はフィオの下で庇われていた、シロの銀色の髪も朱く染めている。

 リザは走り寄って、魔獣の首を掴む。

 リザの手などお構いなく、なお肉を引き千切ろうとする犬型の魔獣に、リザは小声で呪文を唱えた。

 瞬間、魔獣の首は、胴体から離れた。





「フィオ!」


 リザが大声で名前を呼ぶのは、彼女の意識を少しでも長くこの世に留めようとする想いからだろうか。

 流血する左右の頸動脈を、脱いだローブで必死に抑える。

 なんとか止血しようとしているが、ローブにはじわじわと血液が広がっていく。


「……」


 フィオは目を閉じたまま、口を開け何か言おうとするが、首を切られた影響だろうか、音にはならない。


「すぐ、助けを……!」


 嗚咽の間で絞り出した声は、どれほどフィオに届いているのだろうか。

 汗なのか涙なのかわからない液体が頬を伝い、フィオの首元に落ちていく。

 失ってしまうと考えると、首を抑えている両手が震える。

 無力な自分を呪う。

 助けてほしいと願う。

 幸せな日常の脆さに、打ちひしがれる。


「行かないで……」


 涙ながらに絞り出した声は、まるで幼子のようであった。

 助からないかもしれない。

 そんな考えが、一瞬頭を掠めると、それは毒が全身を回るように、リザの胸中を回った。

 こんなに血が出てしまっている。

 血は止まらない。

 助けてくれる人はいない。

 奇跡は起こらない。

 助からないかもしれない。


(フィオが、死ぬ?)


 いくつかの記憶が、リザの中に蘇る。

 初めてフィオにあった時のこと。自分が姉に選ばれた事に対する不安と、金髪碧眼の貴族のお嬢様を妹に出来た誇らしい気持ち。

 フィオの追試回避のために勉強を教えたこと。フィオが自分の期待に応えてくれたことが、面映ゆいような嬉しさだったこと。

 フィオを魔獣から守った時のこと。妹を傷一つ付けずを守れたことに、安堵したこと。

 古い方から順番に、頭の中をめぐる。


「やだ……」


 枯れた声で、


「行かないで……」


 駄々を捏ね、現実から目を逸らすように閉じる。

 リザの震える手に、重なった物があった。


「……シロ?」


 シロの手が、フィオの首を抑えるリザの手に重なる。

 その手はリザがシロと出会った時のように、淡い光に包まれている。

 ただ表情は、出会った時のような無表情ではない。

 眉間にしわを寄せ、口元を歪ませ、ぼろぼろと涙を零している。

 いつもの静かな表情からは、想像できない表情だった。

 シロの表情に驚いていたリザだが、手の感触に違和感を覚えた。

 少しずつローブに広がっていた血液のシミが、広がりをやめている。

 リザの手に重なっていたシロの手から光が離れ、リザも強く抑えていた手を離す。

 血塗れのローブを除けると、リザは息を飲んだ。

 先ほどまで肉が抉れていたはずの首には、傷一つ付いていなかった。


「……回復、魔術?」


 尋ねるようにシロの顔を見るが、シロは泣きながらフィオを見下ろしているだけだった。

 魔族とは、エーテルなどに囚われず、好きな時に好きなだけ、気分のまま欲望のまま魔術を行使する存在。

 それは、未だに人類が手に入れていない、奇跡のような力、回復魔術についても同様に行えるのだと、リザは気づいた。

 シロが望むままに行使された回復魔術は、シロの望んだ結果を引き起こした。


「……あれ、せんぱい?」


 どこか夢現な、柔らかな表情でフィオが微笑む。


「ふぃお!」

「フィオ!」


 二人の少女は叫び、横たわる一人の少女に抱きついた。







「いやー死にぞこなっちゃいましたね」


 からからと、明るくフィオは笑い、笑顔をリザに向ける。

 月の明かりだけが差し込む、メイリープ家の来客用の寝室。ベッドではシロが安心したような表情で寝息をたてている。

 その様子を上から覗くように、リザとフィオはベッドの脇に立っていた。


「あの、そろそろ離しません?」


 フィオは照れ笑いながら、左手を揺らした。その左手はリザの右手によって指と指を絡めながらしっかりと握られている。

 結局フィオは何事もなかったように起き上がり、平気な顔で笑っていた。逆にシロは疲れたのか眠そうにしていた。

 市街地から離れていたが、声を聞きつけたのか近くの住民が数人遠巻きに様子を見ており、警邏部の人間がすぐに駆けつけた。

 顔見知りの警邏の人間に事情を聞かせてくれとせっつかれたが、シロが眠そうだからという理由で後処理を全て丸投げしてメイリープ家の別荘に戻ってきた。

 帰宅の途上、フィオがどこにもいかないように、シロがフィオの右手を、リザがフィオの左手をしっかりと繋いで歩いた。

 三人で血のついた服を着替え体を拭くと、シロは早々にベッドに潜り込んだが、リザは未だに手を離せずにいる。


「どこにも行かない?」


 少し拗ねたように訊ねるリザにフィオは笑う。

「せんぱい、ちっちゃい子どもみたいで可愛いです」

 フィオの言葉が少し恥ずかしかったが、握った手は離せないでいた。


「……行きませんと言いたいところですけど」


 何かを諦めたような表情でフィオが話し始める。


「実家に帰ろうと思います」


 三人で手を繋いで歩いた帰宅の途上で、フィオは全てを、自分の想いも込みで話した。

 リザへの秘めていた想い、シロへの嫉妬心、やってしまった事、強い後悔、露呈せずに済むならそうしたかったという弱い心。

 諸々話したフィオは、憑き物が落ちたというやつだろうか、どこかすっきりとした顔をしていた。


「このままここに居たら、またシロちゃんに嫉妬してしまいそうですし、せんぱいにも沢山迷惑かけちゃったし」


 だから、遠く離れた実家に帰るとフィオは語る。


「せっかくシロちゃんに助けて貰った命ですし、実家に戻って何か社会の役に立てられるように考えます」


 フィオの美しい碧眼は、窓の外に向いている。

 普段と変わらない語調だが、月明かりの暗がりの中で、リザにはフィオが泣いているように見えた。


「ああ、この家はせんぱい達が使えるように手配しておきますね、その辺はご心配なく」


 フィオは笑顔をリザに向ける。


「本気なの?」

「ええ」


 フィオは納得したように頷く。


「私は悪いことをしました。責任を取らないといけません」


 声には覚悟と悲壮が滲んでいる。


「……シロは許したんでしょ」

「シロちゃんは、まだ小さいですから」


 フィオがベッドで静かに寝息をたてるシロを見つめると、つられてリザもシロの寝顔を見遣る。


「自分がされたことがどんなに酷いことか、気付いてないだけです」


 フィオはリザに向き直ると、繋いでいた左手に右手を重ねる。


「だから、せんぱい」


 まっすぐにリザを見つめ、震える声で言う。


「いままで、本当に、ありがとうございました」


 その両目には涙が浮かび、今にもこぼれ落ちそうなほどに溜まっていた。悔悟の表情が出ないようにか、あるいは涙がこぼれないようなのか、フィオは顔を歪ませている。

 その顔をリザはしっかりと見つめ返す。


「フィオ」

「……すみません、せんぱい」


 ついに溢れ始めた涙を、右手を離し拭うフィオ。

 ふっと、リザは小さく息を吐いた。


「貴女は勘違いしてる」

「……え?」


 リザの意外な言葉と呆れたような表情に、思わず溢れていた涙が引っ込む。


「責任を取るっていうのは、そういうことじゃないでしょ?」

「……えーっと、せんぱい?」

「謝罪して田舎に引っ込むことが責任を取るってこと?違うでしょ」


 リザの突然の説教に、フィオは困惑している。


「あの、せんぱい?」

「誠意ある謝罪をするのは当たり前。そのあとは被害者が望んだように対応するの。シロはフィオと一緒に居たいんだから、一緒に居てあげるのが誠意ある対応でしょ?」


 早口で捲し立てるように語るリザに、フィオの困惑は深まるばかり。


「……いやあの、そうかもしれませんけど、でもでも、私また、シロちゃんに嫉妬しちゃうかもしれなくて」

「それは再発防止策が無いから。今回の問題の根本原因から、とるべき対策をとって再発防止に努めるの」


 当然でしょと言わんばかりの表情のリザと、その表情に戸惑うフィオ。


「えーっと、具体的には?」

「フィオは私が好きで、だからシロに嫉妬したんでしょ」

「あ、はい」


 リザに改めて訊ねられ、フィオは恥ずかしさからか若干躊躇いがちに頷く。


「だったら、フィオがもう嫉妬しないようにすればいい」

「全然話が見えないです……」


 益々困惑するフィオに、自信満々で提案するリザ。興奮しているのか、ほんのりと頬が上気している。


「フィオが嫉妬しないようにするには」

「はい」

「……えっと」

「?」


 先ほどまでの雰囲気から一転し急に言い淀むリザに、頭に疑問符を浮かべるフィオ。

 リザは生唾を飲み込み、小さく口から息を吸った。


「……私と、結婚すればいい」

「ん!?」


 想定外の言葉に、喉の何処かから謎の音を発するフィオ。


「……結婚すれば、嫉妬もしないでしょ。私がフィオを生涯をかけて愛することを、神にでも大公にでも部長にでもシロにでも誓うから」

「……」

「そうすればもう、嫉妬しなくて済むでしょ」


 ぽかんと呆けた表情で固まるフィオ。自分の求婚の恥ずかしさからか、まともに目を合わせられないリザ。


「……どう、かな?」


 耳まで赤くしたリザは、ちらりとフィオを伺うと、


「……ちょう、さいこう、です」


 フィオは先程まで溜まっていた涙を、今度は我慢する事なく溢れさせた。

 握っていた手を離し、歓喜の表情とともにフィオはリザを強く抱きしめる。

 リザも怖ず怖ずとフィオの背中に両腕を回す。

 月明かりだけの部屋の中で、ぎこちなく抱きしめ合う二人。

 体温を感じ安心したのか、何度かゆっくりと吐息を漏らすフィオ。その吐息が耳にかかり、こそばゆい心地になるリザ。


「せんぱい、大好きです」

「私も、好き、なんだと思う」

「……なんですか、それ」


 フィオは笑う。その笑った時の息もリザの耳にかかると、リザは気恥ずかしくも心地よく感じた。


「よくわからないけど、多分私も昔からフィオのこと好きだった、んだと思う」

「もー、後でやっぱやめようなんて言っても、絶対やめませんからね?」


 絶対に離さないという意思を込めてか、フィオは抱きしめる力をさらに強くする。


「それは、絶対ない」


 そう言って、リザも背中に回しただけだた腕に、強く力を込めた。


「……メイリープ家、後継ぎいなくなっちゃうけど、本当に大丈夫?」

「大丈夫です!シロちゃんに継いでもらいます!」


 冗談めかしてフィオは言うが、半ば本気なのではとリザは心配になった。




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