宮廷魔術師と無能な上司

 入学してから一年が経ち、せんぱいと一緒にいることが当たり前になった。同じ学年にも友達と呼べる様な人ができたが、一番気が許せて信頼できるのはせんぱいだった。

 一年経ってもまだ他の姉妹の様に『お姉様』なんて呼べなかったけど『せんぱい』という呼び方も、せんぱいは結構気に入ってくれてるみたいだったから、まあこのままでも良いかと思えていた。

 この時、まだ私は、自分の気持ちに気付いていない。

 麗らかな春の陽気に溢れていたその日、私とせんぱいは校外実習だった。通常よりもエーテルの潤沢にある森で、エーテルの潤沢な環境がどんなものかを体験するというイベントだった。特に楽しいイベントでもなかったし、少し暑いくらいの陽気に若干イライラしたが、せんぱいの学年と合同で行われるという一点だけで、私は気分が良かった。

 学院からそれなりの距離、日が昇ったばかりの空がすっかり日が高くなるまでの時間、せんぱいの横を歩いた。

 せんぱいは『師匠』と呼ぶ人と一緒に、長く森の中で暮らしていたと言っていて、その事を懐かしそうに語るせんぱいを見ていると、私はモヤモヤとした気持ちになった。その人だけが知っているせんぱいの顔があるんだと思うと、ずいぶんと苦しくなってしまう。

 それは嫉妬の感情だったと、今ならわかる。

 森に着き、私たちは二人で行動した。いつもと違う場所で、せんぱいと二人きりで過ごす時間。時折せんぱいが魔術の講義をしてくれて、私だけのためにしてくれる授業に私は多幸感で満たされた。

 でも、満たされた時間は長くは続かなかった。

 魔獣という存在を、その時私は初めて知った。

 私たちの体躯よりも随分大きな四足歩行、鋭い爪、紫色の眼球、耳をつんざく様な咆哮、熊の形をしたそれは、明確な敵意を私たちに向けていた。

 死の恐怖が、リアリティを持って私の上に覆いかぶさった。

 それを振り払ってくれたのはせんぱいだった。


『私の後ろに回って、ゆっくり下がって、助けを呼んできて。先生はすぐ近くにいるはずだから大丈夫』


 そう言ってせんぱいは、魔獣に対峙したまま私だけを逃してくれた。

 私は必死で走って、泣きながら助けを求めた。

 せんぱいが死ぬかもしれないと思うと、どうしようもなく苦痛と焦燥にかられた。

 もしかしたら、せんぱいを失ってしまうんじゃないかと思うと、怖くて怖くて仕方なかったことを覚えている。

 とはいえ、その後すぐ近くで教員を見つけた事で、私たちは事なきを得た。せんぱいも傷一つなくて安心した。

 安堵の気持ちで泣きじゃくる私を胸に抱いて、せんぱいは言った。


『妹を守るのは、姉として当然でしょう?』


 私の頭を撫でてくれた手は、とても優しかった。



 * * *



 メイリープ家、別宅の客間。大きな四つの窓からはカーテン越しに朝の光が漏れていた。

 大きなダブルベッドで寝ていたリザはいつもより早く目を覚ました。

 こほんこほん、そんな異音が聞こえたからである。音の発生源は近くだが少なくともリザ本人では無い。どこだろうか、などと探す必要もなかった。それは、すぐ耳元で聞こえるのだから。リザは首をひねった。

 つまり、隣で寝ていたシロが咳をしていた。顔は上気しており、僅かに苦しそうに呼吸している。


「シロ!」


 寝起きの自分がこんなに大きな声が出ることに若干驚きつつ体を跳ね起こす。跳ね起こすが、ただリザは右往左往するのみでなにもできない。


「シロ、シロ」

「……なに?」


 赤い顔で僅かに苦しそうに、そしてだいぶ鬱陶しそうに返事をするシロ。


「大丈夫かシロ?苦しいか?寒くないか?」


 早口でまくしたてるように聞くが、


「……熱い」


 とシロは呟くのみ。

 熱いと聞いて、慌ててベッドから抜け出し、最も近い窓に向かう。リザはカーテンを引くと、窓を開けようと試みる。が、がたがたと鳴るばかりで一向に開こうとしない。


「せんぱい?」


 かちゃりと出入り口のドアノブが回り、声をかけながら入ってきたのは、いつものネグリジェ姿のフィオだった。

 入ってきたフィオの目は、どこか不審者を見る様な目つきをしている。


「……あの」


 必死で窓を開けようとするが、開け方がわからずがたがたと鳴らすことしかできない。鳴らせば鳴らすほどに、フィオの目線が痛々しいものを見る様なものに変わっていく。


「フィオ!窓開かない!シロが熱いって!」

「その窓開きませんけど……」


 フィオの視線が移り、ベッドを見遣る。そこには赤い顔をしたシロが苦悶の表情を浮かべている。


「あれ、シロちゃん風邪ひいちゃった?」

「そう!それ!」


 がたがたと窓を鳴らすリザが同意する。


「せんぱい、寝ぼけてないで落ち着いてください」

「え、あ、え、うん……」


 後輩に窘められ、リザはがたがたをやめると、シロの苦悶の表情が幾分か平常なものに戻る。苦しんでいたのではなく五月蝿かっただけらしい。

 フィオは小走りでベッドまで移動すると、冷静にシロの額と自分の額をくっつける。


「あー、熱ちょっとあるね。とりあえず今日は一日寝てよっか。汗すごいから、水とあったかい飲み物作ってくるね。ご飯は食べられそう?」


 シロは僅かに目を開け、小さく首を縦に振る


「そっか、じゃあミルク煮でも作ろっか。ちょっと待っててね。せんぱいも朝ごはんそれでいいですよね?」

「あ、うん」

「じゃあ作ってくるんで、少しシロちゃん見ててくださいね。窓は開けちゃダメですよ」

「……はい」


 そう言って部屋を出て行くフィオ。

 テキパキと行動に移すフィオに、リザは何もできず、結局おとなしくベッドの横のロッキングチェアに腰かけた。





 シロに食事を摂らせたあと、リザとフィオもダイニングにて朝食を摂った。先程シロに食べさせた、野菜やパンを潰してミルクで煮込んだ料理である。


「シロ大丈夫かなぁ」


 ふとリザが漏らした。


「まあ、今日は一日様子見ですかね、それほど辛くも無さそうですし」


 昨日濡れたのがよくなかったですかね、と呟きながら、スプーンに乗せたミルク煮を音を立てず、どこか上品に啜るフィオ。


「……フィオ、落ち着いててすごいね」


 自分の不甲斐なさに比肩して、後輩の冷静さを純粋に褒め称えるリザ。


「せんぱいが卒業した後に、入ったばかりの後輩の面倒をよく見てたんですよね。中には体調崩しちゃう子も結構いたんですよ」

「はー、そうだったんだ」


 それはリザが知らない話だった。リザの卒業後に、フィオがそんなに熱心に後輩の面倒を見ているというのは初めて聞いた。


「まあ、フィオ、結構後輩から人気あったもんね。顔も可愛かったし」

「今でも可愛いですよ?」


 にっこりと笑うフィオとのやりとりにリザは苦笑する。


「なんか、こういうの久々な気がする」

「そうですか?」


 フィオは小首を傾げる。


「シロが来てから、シロの事にばっかり構ってた気がするし」

「うーん、そう言われると……」


 と、フィオも同意した。


「まあ、シロの面倒をみるのも楽しいけどね」

「そうですねぇ……」


 そんなやりとりをしながら、朝食を摂る二人。


「それで、今日ですけど」


 と、食事が終わった頃にフィオは切り出す。


「せんぱいは仕事行っていいですよ、私がシロちゃん見てますから」

「……私も休む」

「仕事はどうするんですか?」


 ただでさえ手が足りていない広域機動対策部で、すでに前営業日に二人で休んでいる。おそらく仕事は溜まっているだろう。

 とはいえ、シロをひとりにして置いてもいけない。


「……私一人で行くより、せんぱいが仕事に行った方が進捗があると思いますよ」


 リザの方が職務経歴も長く、能力も高いので当然のこと。


「看病の方も、窓をこじ開けようとするせんぱいよりは私の方が良いと思いますし」


 ぐうの音も出ないほどの正論だったが、リザは不満そうに喚く。


「わかってるけど、心配なの!」

「わかってますけど、私が診てますから」


 フィオの落ち着いた態度に、リザはうう、と唸って悔しそうな顔をする。


「……わかった」


 渋々といった様子で承諾するリザ。フィオは腰に手を当てて嘆息する。


「待ってますから、早目に帰ってきてくださいね、せんぱい?」


 フィオが悪戯っぽく笑うと、リザも力なく笑った。





 追い出されるように家を出て、厚い雲と寒風の中で渋々と登庁したリザ。慣れたはずの一人の往路は、いつもよりも寒い気がした。

 いつもの時間より若干遅れながら広域機動対策部の執務室に顔を出すと、リザを迎えたのは部長のクレアだった。


「おはよー、今日はひとり?」


 相変わらずの朗らかな笑顔でリザを迎えるクレア。美しい金髪を揺らしながら、疲れたような顔のリザに尋ねる。


「……おはようございます。シロが体調崩しちゃって、フィオが面倒見てます」


 あらあら、と言いながらクレアは右手を口もとにあてる。


「大変ねぇ。大丈夫?」


 クレアに聞かれて、リザは深いため息をついた。


「いやぁ、フィオは大丈夫そうって言うんですけど、私は心配で心配で仕方ないです……」


 へぇー、と口もとに手を当てたままどこか感慨深そうに感嘆するクレア。


「そーなのねぇ……、まるで親子みたいね」


 執務椅子にかけようとしたリザは、親子という言葉にピクリと反応した。


「親子……なんですかね?」


 椅子に掛け、考え込むように顎に手を当てるリザ。

 リザは親の顔を知らない。親子関係というものを自分で体験してはいないため、今ひとつクレアの言葉に実感が湧かなかった。


「そうねぇ、私も子供はいないけれど……。でもシロちゃんのことが大切でしょう?」

「……そうですね、まだ出会って大して経ってないのに、なんだか無条件に信頼されて、頼られている気がして……。そう思うと、うーん、なんて言うかなぁ……。守ってあげたいなーって、漠然と思いますけど……」


 自分でも考えながら、ひとつひとつ確認するように言葉を紡ぐ。


「なるほどねぇ、それが親子なのかしら?」

「いや、わかんないですけど……っていうか言い出したの部長ですよね」

「私にもわからないわぁ……いろんな親子の形があると思うしねぇ?」


 クレアは相変わらずにこにこと微笑んでいる。断言したり決めつけたり、そういうことをクレアが好まないことは、短くない付き合いの中でリザも知っている。


「お師匠さんとは、親子みたいな関係じゃなかったの?」

「師匠ですか?」


 クレアの口から出た意外な問いに、うーん、と唸りながらまたしてもリザは考え込む。


「私が体調悪いからといって、私の心配をしてくれるような人ではなかったですね。うつされると嫌だし、咳がうるさいから嫌々看病してるって自分で言ってました」

「あはは、面白い人ねぇ」


 普段からにこにこ顔に、さらにもう少し目尻を下げて楽しそうに笑うクレア。


「そういう関係も素敵ね。そんなこと言いながら、しっかりと看病してくれるんだもの。きっとその人なりにあなたのことを大切に思ってくれていたんじゃないかしら?」


 いやいや、と否定しながら、リザは自身の師匠のことを思い出す。


「どうですかね。看病は愛情というよりも、死なれては困るから仕方なくやっていただけのような気がしますけど……。親子関係とは全然違うような」


 リザは物心ついた時から十二歳までは師匠の元で過ごし、それ以降は国立の魔術学院に入学しその寮で暮らすようになった。卒業後は王城に近い集合住宅を借りていたが、まあそれは、数日前に追い出されている。

 入学以降は師匠と顔をあわせる機会も随分と減ってしまっていた。最後に顔を合わせたのは、学院の卒業式の日だったようにリザは記憶している。

 師匠と過ごした日々は、リザが思う母娘の関係とは随分と異なっていたもののように感じられた。


「うーん、師匠には感謝してますけど、あれはなんていうか、研究者と実験動物の関係に近かったような……」


 よく師匠が言っていた言葉を思い出す。


『私は今、長期的な人体実験をしている。私の知識や経験や技術を一人の年若い人間に叩き込むと、その人間がどのように成熟していくかという試験である。その途中段階がお前だよ、リザ』


 その話をクレアにすると、クレアは手を叩き、声を上げて笑った。


「ああ、やっぱり面白い人ね」


 一通り笑ってから、クレアは細い灰色の眼を片側だけ開ける。


「関係の名前なんて、きっとどうでもいいのね。リザちゃんとお師匠さんは師弟という名前の関係だったけど、きっとたまには親子だったり、研究者と実験動物だったり、名前の付けられない関係だったりしたのね」


 クレアの言葉に、というよりも、名前の付けられない関係、という言葉にリザは自分と師匠の関係に得心がいった心地がする。


「なるほど、そうかもしれません」


 最初は恐ろしくて、それでも他に頼れる人が居なくて、仕方なく彼女のいうことを聞いていた。そして十二歳になった年に魔術学院への入学を師匠から勧められた。


『私が教えられることはまだまだ無数にありすぎて困るので、お前を魔術学院に入れることにした。知は与えられるものではない。求めるものだ』


 と語っていたことを思い出す。

 学院の寮に入ることが決まった時は、この人の側を離れられると喜んだ。

 しかし、離れる日が近づくにつれて不思議なことにどんどんと寂しさが募り、遂に師匠と離れたくないと言ってしまった事をリザは思い出す。


(黒歴史だ……師匠は『実験動物が泣いてる』とか言って笑ってたっけ)


 しかし実際に離れてみると、新しい環境に忙殺され翻弄され、気付くと寂しさは無くなっている。


(もし師匠が今の私を見たら何て言うだろう……)


 今でも、会うのは少し恐ろしいが、それ以上に今の自分を彼女がどう評価しているのか聴きたくなった。

 師匠と自分はそんな関係であろうか、とリザは感慨深くなる。自分と師匠の関係は唯一無二のものであり、それは全ての人間同士の関係性がそうなのだろうと納得した。

 リザはたまには上司との雑談も良いものだな、とも思ったが、それは伝えないでおいた。


「きっとシロちゃんとの関係も、たまには親子で、たまには全然違う関係になっていくのでしょうね」

「なるほど、そうかもしれませんね」


 ふむふむと頷くリザ。


「リザちゃんが望んで、そしてシロちゃんも望めば、その通りの関係になっていくのでしょうけど、なかなかねぇ……」

「……なんの話ですか?」


 クレアの言葉が気になり、リザは問う様にクレアに言葉を返す。すると、うーん、と今度はクレアが考え込む。言いづらい事なのだろうかとリザは感じるが、クレアの答えを待つ。


「フィオちゃんはどうなのかしら?」

「フィオ?」


 待った末に意外な名前があがり、ついおうむ返しに尋ねてしまう。


「ええ」

「フィオもシロのこと好きですよ?」


 東地区の広場での会話を思い出す。フィオもシロが好きだと言ってくれており、リザにその言葉を疑念の余地はない。


「いえ、そうではなくて」


 リザの言葉をクレアは否定する。


「フィオちゃんとリザちゃんの関係」

「私とフィオ?」


 ますますリザはわからなくなる。フィオとは十年来の付き合いで、ずっと先輩後輩の関係。今更何か関係を考え直す必要があるのだろうかと、リザは考えている。


「うん、どうかしら?」

「どうもこうも、昔から先輩後輩ですけど」


 リザは考えていることを素直に返すと、クレアはますます考え込む様にうーんと唸る。


「それは知ってるけど……、それは一緒に住んでも変わらない?なにか変化があったりとか」

「えーと、そうですね……?とくに変化は無いです。まあ、まだ大して経ってないですけど」


 そっかぁ、とクレアは溜息をついた。その様子に違和感を覚え、改めてリザはクレアに尋ねた。


「あの、言ってる意味がよくわからないんですけど……」


 尋ねられ、うーんうーんと更に深く唸るクレア。


「もし、もしもだけど、シロちゃんがいなかったらそんな事はなかった?」

「ええ?」


 さらに意外な問いに、リザはまたしても困惑の声を上げる。

 もしシロと出会わず、二人で住んでいたら、二人の関係に変化があったのだろうか。問われたままにリザは自問するが、しかしどう考えても、リザにはフィオとは先輩後輩の関係がしっくり来ている。

 うーんとリザが悩んでいると、クレアは溜息をついた。


「ごめん、リザちゃん。やっぱりなんでも無い」

「……そーですか?」

「ええ、もう大丈夫だから。それよりそろそろ仕事しましょうか」

「……わかりました」


 そう言って一方的に話を打ち切るクレア。

 リザは消化不良のまま、執務室に積まれている書類を軽く整え、その中の一番上の書類を取る。

 先日クレアに渡された「法令遵守学習要旨」と書かれた書類を、斜めに読んでいく。


『じゅんしゅくん)不正のトライアングルは「動機」「機会」「正当性」の三つからなるよ。順番に見ていこう。

 コンプライアちゃん)とっても大事な三つだから、みんなもしっかり覚えようね!』


 リザは書類に書かれている文字は追いかけているが、殆ど中身は頭に入っていなかった。


(フィオとの関係に変化、かぁ)


 先程のクレアの言葉が、頭の中で反芻された。





「法令遵守学習要旨」を一通り読み終わり、リザはペンをとって書類の最下部の署名欄にサインをする。


「読みました」


 と言って立ち上がり、クレアの机前に移動して書類を手渡す。


「ご苦労様ー」


 クレアは書類を受け取ると、机の脇に置いてある「国民直訴案件報告」の束を掴む。


「さーて、じゃあ今日はこの辺からやってもらおうかなぁ」


 リザは差し出された書類を受け取ると、いつもよりも枚数の多い書類の束にため息をついた。


「ごめんねぇ、この間二人ともお休みだったでしょう?案件が溜まっちゃって……」


 申し訳なさそうな雰囲気のクレアに、いつものように承諾しかけたところで、今朝のことが脳裏に浮かんだ。顔を赤くしたシロと、早く帰ってきてと笑ったフィオ。手元の書類の束を見れば、どう考えても業務時間内に終わる量ではない。


「……あの」

「うん?」

「シロが調子悪そうだったんで、今日は早く帰りたいんですけど」


 リザが承服しかねるように雰囲気を出すと、クレアは珍しく焦ったように困った表情をした。


「え、あ、あの、本当に……?」

「……はい」

「どーしてもダメ?」


 クレアは困ったような表情で、両手を胸の前で合わせる。クレアの上目遣いに思わず考えを改めそうになるが、心の中のシロを思い起こす。


「どうしても……」


 ふー、とため息をつくクレア。


「困ってる人もいっぱい居るんだけど……」


 それはリザも知っている。ネズミ駆除の効果が上がり、商店街のパン屋の店長にお礼を言われたことを思い出した。

 脳裏に浮かんだ感謝の言葉に、リザの中で戸惑いが生まれてつい承諾しそうになるが、脳内の上気した顔のシロには敵わなかった。

 リザが申し訳なさそうな顔で、何も言わず黙っている。


「あの……ほんとのことを言うとね、お仕事の消化率が悪いって監査室に叱られちゃったの……」


 クレアは下を向いてぽつりとこぼした。いつもよりも焦った様な表情をしていたのはそのせいなのだろうか。

 クレアの思いつめた様な表情に、喉元まで『わかりました』の言葉が出そうになるが、飲み込む。


「今日は、早く帰りたいので……」


 しばらく、沈黙が続く。


「……ごめんね」


 クレアはぽつりと呟いた。


「確かに今までリザちゃんがやってくれるからって甘えてたよね……」


 クレアは両手を出すと、リザの手に握られていた書類を受け取る。


「いえ、その……すみません」


 クレアの様子に、つい謝罪の言葉を口にしてしまう。


「ううん、私の管理能力が無いから、リザちゃんにもフィオちゃんにも迷惑かけたよね」


 反省します、とクレアは呟く。そんなことないですよ、と否定しようかと思ったが、


「そうですね」


 と、自分の気持ちのままに肯定の言葉を口にした。若干クレアがピクリと揺れたが、気にしないことにする。


「ごめんね、今日は事務仕事だけしてくれる?もし終わらなかったら途中で帰っていいから、お願いね」

「わかりました」


 求められた仕事ができないことにリザは少しだけ申し訳ない気持ちになるが、クレアの言う通り上司の管理能力の無さの問題だと割り切ることにした。


「ごめんね、ちゃんと監査室には増員を求めてみるからね」


 クレアの言葉に、リザは困った様に笑うことしかできなかった。







 かちゃりとドアノブを回す音が、静かな室内に響く。

 室内に入って来たのは金髪碧眼の女性。片手には銀のポットと陶器のカップを載せたトレイを持ち、何も持っていない方の手でドアをゆっくりと閉めた。

 ドアを閉めた女性は足音を立てない様、ゆっくりと部屋の奥に見えるベッドに向かって歩みを進める。

 ベッドに横たわる、長い銀色の髪の少女。眠っているのか目を閉じており、頬は僅かに上気し朱に染まっている。時折寝息に混じり、喉が鳴るような音も混じっている。

 横たわる銀髪の少女を確認すると、トレイを持った女性はベッドの脇に移動する。

 女性はトレイをサイドチェストに載せようとして、既に別の紙束が載っている事に気付く。

 紙束を空いている方の手で持ち上げ、トレイを音がしないようにサイドチェストに置く。かちゃと小さな金属音が響き、女性が横たわる少女を確認するが、少女は未だに目を閉じている。

 ふっと息を吐いて、女性は改めてサイドチェストに載っていた紙束を確認する。


『魔獣の人工生成に関する報告と考察』


 そう題された紙束を見て、女性は苦しそうに顔を歪ませた。






 広域機動対策部、執務室。リザは昼食を執務机で簡単に済ませ、午後の最初の業務に取り掛かっていた。

 机上にある一枚の書類は、西の森の件の報告書。

 うーむ、とリザは唸ってみる。


(さて、どう書いたもんか)


 普段は事実をありのまま書いてしまうのだが、今回はそうはいかなかった。出来事をそのまま報告するとシロの身に危険が及ぶ可能性があるのではないかと考えていた。

 つまり、シロが魔族なのではないかと、その疑念を誰かに持たれることをリザは危惧していた。「国民直訴案件報告」の最終報告書は、クレアが認可すると後は行政に回される。その後は誰が確認するのかはリザは把握していない。その中にシロを敵視する人物がいないとも限らない。

 廃屋の件の報告書も先ほど作成したが、もともと誰かが住み着いた可能性があるという通報を元にしているため、子供が一人いたため保護したという一次報告をクレアにはしている。


『通報のあった廃屋には少女がおり担当者が保護した。少女に保護者はおらず本人もいないと認めている。後日少女の保護者、関係者を捜索したが手がかりは無し。現在は少女の意向により担当者の家で保護している』


 といった内容の報告書をリザは書き綴っている。嘘は書いていないが、シロが中空に浮かび上がったことや、多数の火球については触れていない。

 一方、目の前の報告書。

 西の森の件でリザが問題視している事は、魔獣がシロを狙っていたという事実である。


(うーん、気のせいじゃないよなぁ)


 数日前の出来事を脳裏に浮かべる。シロの動きに合わせ、魔獣は動きを変えていたようにリザには見えた。あの魔獣にとって、リザはシロとの間にある障害程度の認識だった、とリザ感じている。

 シロが狙われた理由は不明であるが、それをそのまま書くことが危険なことのようにリザには思えた。


(……シロが普通の人間じゃないと、バレてしまうかもしれない)


 シロにはなんらかの秘密があると、そうリザは認識している。

 それは廃屋の件から間違いなさそうだとリザは踏んでいた。しかし実際に何が普通の人間との『差』なのかを未だに掴みかねている。

 森でシロが狙われた理由が、普通の人間との『差』と関係が無かったとしても、シロに何らかの疑念の目が向くことはリザとしては避けたかった。


(そもそもなんで狙われたんだ……?)


 リザは魔獣に関する知識は乏しかった。もちろん魔術知識のない一般人に比べれば遥かに詳しい。しかし専門の研究者に比べると圧倒的に勉強不足である。

 リザは右手でこめかみの辺りを掻く。


(フィオにでも聞いてみる?)


 学生時代のフィオは魔獣に関する研究を専門としていた。魔獣に関しては今のリザよりも深い知識を有しているはずだとリザは考えている。

 うーむ、ともう一度唸る。


「リザちゃん、悩んでるの?」


 唸ったリザに声をかけたのはクレアだった。午前中の出来事が原因かわからないが、リザには何だか、クレアがいつもよりも元気がなさそうに見えた。


「……いや、ちょっと自分の知らないことがあって」


 嘘はついていない。真実の全てでもないが、クレアに全てを話すのは気が引けた。


「私よりも優秀なリザちゃんでも知らないことがあるのねぇ」

「いや、そんな……」

「聞いてあげたいけど、私なんかがリザちゃんの知らないことを知っているわけないもんね……」

「部長、何か卑屈っぽくなってないですか……?」


 はぁー、とため息をつくクレア。やっぱり午前中のことがまだ尾を引きずっているらしい。


「あの、部長……」


 リザは声をかけようとするが、


「本当はリザちゃんの方が部長に相応しいのかも……」


 クレアは何やら一人で呟いている。


「部長はほら、面倒見がいいじゃないですか」

 凹んでいるクレアを放っておけないリザは、とりあえず何でもいいからクレアを持ち上げることにした。

「……本当?」

「そうですよ、私が行き場がなかった時に拾ってくれたのは部長じゃないですか。今でも感謝してますよ」


 技研をやめた時に迎えてくれたのはクレア。感謝しているということも含め、それらは事実だったのだが。


「ううん、あの時はここに私一人しかいなかったから、来てくれるなら誰でも良かったの……」


 聞きたくなかった……とリザは内心では思ったが、言葉にも態度にも出さないように努めた。


「いや、でも拾ってくれたのは事実だし、私が困ってたら助けてくれるし、頼りになりますよ?」

「本当に?今のリザちゃんの悩みに答えられない私でも、頼りになる?」

「ええ、もちろんですよ」


 全力の作り笑顔を見せるリザ。この顔は久々だなー、とどうでも良いことを考えていたが、クレアはそれなりに満足したらしい。


「そっかー、よかったぁ……」


 いつもの朗らかな笑顔に、安堵した様な表情をみせた。


「あ、でも、増員の件はよろしくお願いします」


 リザは軽く釘をさすと、クレアは、


「はーい」


 と可愛らしく返事をした。


「あーそれでリザちゃんの悩みだっけ?」


 完全に脱線していた話をクレアは元に戻す。元からあまり相談する気のなかったリザは、もう割とどうでもよかった。


「そーねぇ、知らないことかぁ」


 クレアは一人で呟く。


「うーん、よくわかん無いけど、図書館行ってみたら?」


 そうクレアは微笑んだ。







 図書館というのは、王城敷地内にある蔵書収容施設である。国内では最多の蔵書数を誇り、魔術に関する文献も豊富にある。貴重な論文の類も無数にあり、リザもよく利用していた。

 が、リザは図書館を利用するのはあまり気が進まなかった。特に就業時間中は、あまり使わないようにしている。

 理由は簡単で、気まずいのである。

 王城敷地内の図書館を就業時間中に利用している人間の大半は、リザが以前やめた魔法技術研究所に所属している人間たちである。中には知り合いもおり、喧嘩別れした身としてはやや肩身が狭い。なのでリザが利用する時は大抵は業務時間外になるのだが、今回はクレアの勧めもあって業務時間中に図書館にやってきた。

 一度は、


『いやー、図書館は行かなくてもいいですかねぇ』


 と断ったのだが、


『……やっぱり私なんかのアイディアじゃリザちゃんの役には立てないよね』


 とクレアに言われ、面倒なことになりそうだったので図書館を利用することを決めた。

 館内は全五階建て。各階には西向きに窓が設えてあり、読書をするスペースとして窓際に木製の机と椅子が用意されている。光の届かない反対側には、人が一人通れるかという隙間を挟んで書棚が所狭しと並べられている。全体的に静かで清潔感があり、リザは技研時代は好んでこの場所にいた。

 王城敷地内の建物としてはまだ新しい建物ではあるが、既にだいぶ手狭になってきたそうで別棟を建てる計画が持ち上がっているとリザは聞いたことがある。


(にしても、それっぽい記述はないなぁ……)


 図書館の四階に魔術関連資料が集積されている。リザは階段から最も遠い隅の机に集めた資料を広げていた。

 シロが魔族なのではないかという疑問に対し、リザはまず似たような話がないかと探していた。

 つまりシロが廃屋でみせた、手品の様な事が可能な方法はないかと探っている。


(あの場にエーテル量は大して無かった。シロの持つ体内のエーテルも普通。特別な仕掛けもない。そんな環境で、同じ事が再現可能か)


 例えば、エーテルを利用せずに魔術を行使できれば、それも可能かもしれない。

 そう考え資料を集め、過去にそんな記述はないかと当たっていたが、それらしい記述は見つからなかった。

 魔術が歴史に登場するようになるのはここ五十年くらいの話となる。魔術の始祖と言われるエフェメリアスという人間が魔術を行使する方法を発見し、技術として体系化した。

 資料が見つからない理由として、歴史が浅いため資料の数が少ないせいもあるのかもしれないが、そもそもエーテルを利用せずに魔術を行使するということ自体が、現在体系化されている方法とは大きく異なる。


(やっぱり魔族関連かなぁ?)


 エーテルを使わず魔術を行使する、そんなことが可能なのは、おとぎ話に登場する魔族という存在が真っ先に思い当たるが、無論そんな存在は確認されていない。

 とはいえ、もともとは『魔術』もこの世界には存在しておらず、おとぎ話の中だけのものだった。だが、約五十年前、エフェメリアスという人間によってこの世界に顕現され、急速な発展を遂げた。


(『魔術』がおとぎ話から現実世界に飛び出してしまったのだから、『魔族』がおとぎ話から飛び出してきてもおかしくはない、はず)


 その為リザは魔族の出てくるおとぎ話を研究した資料も収集していた。

 各地のおとぎ話の中で魔族が出現するものをまとめたり考察したりしている研究はいくつか存在する。

 その中に、例えば現実にあった出来事をもとに作られたおとぎ話がないかと探してみたが、やはり有力そうな手がかりは見つからない。


(それにしても、あんまり気分がいいもんじゃないなぁ)


 上がらない成果に、そしてそれ以上に精神的な疲労により、リザはため息をつく。

 おとぎ話に出てくる魔族は、大概が魔術のような力を自分の欲望を満たすために使い、最後は勇者に退治されるというものだった。そのことがリザの精神に負担をかけている。


(もしシロが魔族だったら、こんな風に退治されちゃうのかな……)


 そんな考えが心の中を覆ってしまい、ぐでんと机に突っ伏すリザ。

 胸のあたりを机にのせ、机にのせた頬がひんやりして心地がいい。

 片手で資料をぺらぺらと捲りながら、リザにはもうひとつ気にかかっていることがあった。


(やっぱり魔獣って、魔族の下僕だよね?)


 リザが集めたおとぎ話の中には、魔族と並んで魔獣が一緒に語られているものがいくつかあった。

 それらの全て、魔獣というのは魔族に使役される存在として描かれている。


(でも、あの時はシロが襲われてたし……)


 森での出来事を思い返し、リザは顎に手をあてて考え込む。


(それはシロが魔族でないことの証左?いや、シロが魔術をエーテル無しで行使したのは事実だし……。おとぎ話の中では描かれないだけで、魔獣は魔族を襲う?いやそもそもおとぎ話を発想の元にしてるのがおかしいか?)


 リザの思考はぐるぐると回るが、一向に答えに辿り着く気配が無い。


「……なんもわからん」


 誰にも聞こえない様に、リザは小声で呟いた。







 きぃ、とロッキングチェアの揺れる音とともに、ベッドで横になっていた銀色の髪の少女はゆっくりと目を開ける。


「あ、起こしちゃった?」


 上気した顔の銀色の髪の少女、シロは寝転んだまま周囲を見渡す。いつもの寝泊まりしている部屋だと認識できた。


「ふぃお……」


 声をかけた人物を認めると、その人の名前を呼んだ。

 シロにとって、フィオは心から信頼を寄せる人物であり、自分を守ってくれる存在であると認識している。先ほども、自身のために暖かい食事と甘い飲み物を用意してくれた。


「りざいない?」

「せんぱいはお仕事だよ」


 フィオは微笑むと、ゆっくりとロッキングチェアから腰を浮かせる。


「体どう?少しは楽になった?」


 柔和な口調で声をかけながらベッドに近づくフィオに、シロはこくりと首を縦に振って頷く。

 フィオはベッドに乗り出し、横になったままのシロの額に自分の額をあてがう。細い金色の髪が、シロの首のあたりに垂れ、シロはこそばゆい心地がした。


「うん、熱も多少下がったね。これなら大丈夫かな?」


 シロの顔のすぐ近く、鼻があたりそうな距離で優しく微笑むフィオ。


「ありがとう、ふぃお」


 シロがお礼を口にすると、フィオはにっこりと微笑む。


「起き上がれる?すこしお水飲もっか」


 フィオはサイドチェストに載っていた銀のポットを傾けて、陶器のカップにこぽこぽと音を立てながらぬるめの白湯を注いでいく。

 シロはベッドの上で上半身を起こし小さな両手でカップを受け取ると、唇を付けて飲み始めた。

 少し飲んでは唇を離し、また少し飲んでは離すことを繰り返すシロに、フィオは声を掛ける。


「偉い偉い、ゆっくり飲もうね」


 フィオは微笑む。その眼差しは、シロを愛おしそうに見つめていた。


「……ふぃお」

「ん?」


 カップの白湯を飲み干し、フィオに促されてシロはカップを返す。


「どうしたの?」


 何か言いたそうでありながら、なかなか話し出さないシロにフィオは続きを促すが、それでもシロは躊躇うように、中空を見上げる。

 何も話し出さないシロに対して、フィオは無理強いする気は無い。諦めてロッキングチェアに座り直す。

 きぃという椅子が軋んだ音がしてフィオが深く座ると、シロの視線がフィオに向いていた。

 フィオは何も言わず、視線に対して微笑み返す。


「……あのとき」


 シロが話し始める。

 フィオの顔から、一瞬笑顔が消える。それに気付いたシロは、視線を逸らし言葉を切った。


「どうしたの?」

「やっぱりいい」


 シロは首を横に降って、身体を布団に潜り込ませようとする。

 しかし、フィオがそれを止めた。椅子から乗り出すとシロの手をとり、先程までのように微笑む。


「……お願い、話してくれる?」


 その時のフィオの顔は、シロには少しだけ、悲しそうに見えた。







「あら、リザさんじゃありませんこと」


 周囲に見知った顔が増えてきて、そろそろ席を立とうかと考えていたリザの横に、大柄でフリルが何重にも付いた赤いワンピースを纏っている女性が立っていた。その女性の顔を見たリザは、露骨に嫌そうな表情を作る。


「……セリス」

「お久しぶりですわね、ここにいるといことは貴女も調べごとですの?」


 セリス、ことセリスティーヌ・クレメール。クレメールというのは王都よりやや東側の領地を任されている名門の家名で、セリスティーヌはその一人娘にあたる。フィオと同じく金髪碧眼で、ウェーブのかかった髪をかきあげる仕草は非常に優雅な雰囲気を纏っており、リザよりも随分と高い身長もその雰囲気に拍車を掛けていた。

 リザとセリスは魔術学院の同級生にあたり、セリスは今は技研に所属している。前々からことあるごとに絡まれるので、リザは彼女があまり得意ではなかった。


「まーね。そっちも相変わらず、ローブは着てないみたいだね」


 セリスは入った時から職務中も宮廷魔術師の正装である深緑色のローブは身につけない。


「あんな地味な衣装、クレメール家の跡継ぎにふさわしくありませんもの」


 もう何度か聞いたことのある言葉だったが、セリスの口から直接聞いたのは久々だった。


「あら?何を読んでいるのかと思ったらおとぎ話ですの?私の知らない間に随分と研究の分野が変わったようですわね。確か最近は回復魔術に関して研究なされている聞いていたのだけど」

「いや、これはまあ趣味みたいなもんで……」


 まさか本当のことを話すわけにはいかず、ごにょごにょと小さくなる語尾で適当に誤魔化す。


「ああ、わたくしでしたら今は世界中の子どもたちにプレゼントを届ける方法を考えていましたのよ。どう素晴らしい研究テーマでしょう?」

「いや、聞いてないけど」

「あら、そうですの?まああなたのような孤児にも幸福を分けて差し上げるのも貴族たるわたくしの義務かと思いまして」

 久々の再会だったが、相変わらずのセリスの調子に思わずリザは苦笑してしまう。

「そうなんだ。優しいね。ありがとう」


 感情のこもらない言葉の羅列だが、セリスは特に気にした様子はない。


「なぜお礼を言っているのかしら。貴女のためではありませんわ。だいたい貴女はもういい大人でしょう?まあ貴女がどうしても仰るのでしたら、わたくしが特別に貴女に施しを与えてあげてもよろしくってよ?」

「いや、私はいいや」


 リザは苦笑しながら返答した。フィオが貴族の娘として自覚が足りないと言われているところを何度か耳にしたことがあるが、このセリスは真逆で、貴族としての自覚が有りすぎるなと思っている。


「そうかしら、相変わらず見窄らしい髪をしていますから、ちゃんとお風呂にも入れていないんじゃないかと心配になってしまいますわ。貴女は昔から貧乏していましたから」

「大丈夫だよ、まあ相変わらずお金がないのは事実だけどね」


 居候の身、という事は言わないでおいた。


「そうですの?まあ困ったらわたくしを頼ってくださってもいいんですのよ。貴女のような見窄らしい方を支援するのも富める者の義務ですから、何かあったらわたくしのお屋敷を訪ねていらして」

「セリスは相変わらず口悪いよね」


 歯に衣着せぬ物言いは、学生時代から何一つ変わっていないなとリザはまたしても苦笑する。


「あら不快にさせたようでしたらすみません。わたくしは心根が真っ直ぐなものですから、平民の出の貴女に対しておべっかを使ったりすることが苦手ですの」


 すみません、という謝罪の言葉があったが、多分微塵も悪いと思っていないのだろうとリザは思う。それが逆にリザには心地よかった。


「平民の出、とか平気で口にするから嫌われるんじゃない?」

「あら、でも事実でしょう?生まれながらにしての出自は誰にも変えられませんもの。だったら受け入れて暮らしていくほうがずいぶん健康的だと思いますわ。あとわたくしは誰からも嫌われていませんわ」


 セリスの奔放で憚りない言葉に、リザはふふっと笑ってしまう。


「まあ、そうかもね」

「でしょう。わたくしが嫌われるなんてあり得ない事ですわ」

「いや、そっちじゃなくて」


 セリスが歯に衣着せぬ物言いを平気でするのに対して、リザも同じように思ったことを口にできる。リザは彼女が得意ではないが嫌いではない。悪友のような関係だろうかとリザは考えていた。


「ああ、そういえば」

「ん?どーしたん?」


 何かを思い出したようなセリスにリザは尋ねる。


「貴女、いつ技研に戻ってきますの?」


 セリスの言葉に、リザは吹き出してしまう。周囲の技研の何人かがこちらの様子を伺っているのがわかった。


「いや、戻る気ないけど、どうして?」

「本気ですの?ネズミ駆除のような仕事を一生続けるおつもりですか?」

「いや、ネズミ駆除も、意外と周りに感謝される仕事だから……」


 リザは職業に貴賎はないという言葉を思い出す。


「ネズミ駆除が悪いと言っているのでは有りませんわ。貴女の人生を魔術研究以外のところで浪費するのが勿体無いと言っているのです。もし貴女がその仕事を心から望んで喜んでいるなら私もこんな事は言いませんわ」

「あー……」


 リザは何も言い返せなかった。


「ですが、今の貴女はとても望んでやっているようには思いませんの。だからこうして戻ってきた方が良いのではないかと提案しているのです」

「いや、でも……」


 セリスの正論を前に、リザは口籠る事しか出来なかった。

 確かにイライザは技研にも席は残っていると言っていたが、リザには気がかりな点もある。


「ヅルギスでしょう?」


 読心術の様に考えを当てるセリスだが、当時技研にいた人間ならば誰でも当てられたであろう人物名。

 ヅルギスは技研の部長をしており、当時成果をあげるリザをこころよく思っていなかった、とリザは認識している。

 技研に入ったばかりのリザに目を付けて、上司の立場から理不尽な要求や無意味な雑用を押し付けられた。リザが大嫌いな人間だ。

 リザは学生時代から出自のせいで敵が多かった。そのため最初はこんなものだろうかと我慢していた。

 しかしある日、リザはヅルギスの実験を手伝わされた。リザからみても意味の無い実験で『絶対に成果は出ませんよ』と忠告していたが、案の上なんの成果も無く終わってしまった。普通は失敗した事で上手くいかなかった事が証明出来るのだが、誰の目から見ても結果があからさますぎて、本当に無意味なものになってしまった。

 それがそこそこの研究費を投じていたせいで、後に多くの人間が集まる研究評価会の槍玉にあがってしまい、ヅルギスは横に座っていたリザに責任を転嫁した。

 リザにとっては今でも忘れられない出来事で、本当にくだらないトラウマとなってしまったことが何より不快だった。


「懐かしいですわねぇ、今でもあの時の光景ははっきりと脳裏に浮かびますわね。『いい加減にしろよこの腐れハゲ』でしたかしら」

「……『いい加減にしろよこの腐れ脂肪肝』だよ」

「ああ、そうでしたわね。その後の出来事で禿げのインパクトが強すぎてしまいますわ」


 責任を転嫁されたリザは、『いい加減にしろよこの腐れ脂肪肝』と叫びながらヅルギスの頭に載っていた髪の毛を模した装身具を引っぺがしてその場を出て行った。


「まあ、流石にあれはやりすぎたよね……若いって怖い」

「あら、他人事のように語るのは、自身の行いだと認めたく無いからかしら?」

「……そーだよ」


 セリスの刺すような言葉をリザが素直に肯定すると、セリスはふふんと愉快そうに笑う。

 その事件の後、リザは技研から追い出され、その出来事を知る他の部からは獲得の手は何処からも上がらず、唯一手をあげたクレアの広域機動対策部に異動となった。


「そのヅルギスですけど、私が追い出しましたわ」

「え」

「あんな無能をいつまでもあの地位に置いておくのは国家の損失ですわ。貴族の権力を存分にふるって少し前に追い出しましたの」

「ほ、ホントに?」


 リザはとても信じられずセリスに聞き返すが、セリスは優雅に髪をかきあげている。


「どうってことありませんわ。もともと人望も無く他人を欺いて出し抜く事にしか長けていないような人物ですもの。より相応しい就職先を紹介して差し上げましたわ。今の技研の部長はわたくしですわ」

「はー、すごいな」


 リザは素直に感心した。学生時代からリザはセリスの行動力には度々感心させられていたが、今回はとくに膝を打った。


「まあ、もちろん、貴女のためではありませんわ。わたくしは国家のことを思って追い出したのですわ」

「別になにも聞いてないけど……」

「あら、そうですの?でもそんな事はどうでもよろしくてよ」


 ふふん、と得意満面に鼻を鳴らし、セリスはもう一度髪をかきあげる。

「これで貴女の復帰を妨げるものはありませんわ。早く戻っていらして?」


 そう言ってセリスは妖艶に笑った。







 図書館から広域機動対策部執務室への復路。リザは少しずつ色が変わり始めた銀杏の木が鎮座する中庭を歩いていた。

 まだ陽は高いが、図書館に居る間に雨が降ったのか地面が濡れていて気温も低かった。

 歩きながら、リザはセリスから貰った言葉を反芻した。


(早く戻っていらして、か……)


 リザにとって、セリスの勧誘は願ってもいない言葉だった。よく知っている職場環境であり、知り合いもいる。やりたいことも出来る。嫌いな上司ももういない。給与も、おそらく上がる。

 どこを見ても優良な異動先だ。


『ネズミ駆除のような仕事を一生続けるおつもりですか?』

『貴女の人生を魔術研究以外のところで浪費するのが勿体無いと言っているのです』


 おべっかが使えないと言っていたセリスの口から出た台詞を思い出すと、リザはつい笑みがこぼれてしまう。


(……嬉しいけどさ)


 大公から貰った梟を象った金のメダルよりも、悪友の言葉が不思議と心に沁みた。


(にしても、セリスが部長かぁ)


 もし本当に技研に戻るのだとしたら、上司はセリスと言うことになる。それは、リザにとっては悪くない話だった。


『貴女の能力を世界で一番把握し、評価しているの間違いなくわたくしですわ。そういう人間のもとで働く事が、貴女にとっても、わたくしにとっても、そして世界にとっても幸福な事ですわ』


 世界、なんて規模をさらっと語るのは実にセリスらしいなと思う。

 当時の自分が、ヅルギスに対してしょうもない意趣返ししか出来なかったのに比べると、冷静に追放を実行したセリスがとても大人に見える。セリスは昔から成績は良くなかったが、人の上に立つスキルや行動力は並外れたものを持っている。セリスが上にいれば、随分と研究もやり易くなるだろう。

 迷うことはない、とリザは頭では思っていたが、結局セリスには少し考えさせてほしいと伝えた。


『悩む事がありますかしら?まあ構いませんわ。貴女でしたら、必ず最後に正しい決断が出来ると信じていますから』


 別れ際のセリスの言葉は、リザが必ず戻ってくると確信しているかのような口ぶりだった。

 確かに迷う事など一つもない、はずなのだが、


(うーん……)


 リザは迷っていた。

 残されたフィオが気掛かりとか、クレアと二人だけで仕事が回るだろうかとか、そんな事を考えてしまう。

 そんな事は考える必要は無い、という事はわかっている。一番に考えるべきは自分の幸福で、どうしても誰かがやらなきゃいけない仕事なら、もっと待遇を良くして人を集めるべき。

 当たり前の理屈だとわかっているが、現実に離れるとなるとやはり心配してしまう。

 少し前まで辞めたい辞めたいと思っていたが、いざ現実味を帯びてくると、今の仕事もそう悪くないかも……などと尻込みしてしまう。


「えー、そっかぁー」


 誰もいない中庭中央にて、立ち止まってひとり嘆く。

 もしクレアに言ったらどんな顔をするだろうか。

 想像すると気が重くなった。

 とりあえず、この事は心の中にしまっておこうと決め、再びリザは重い足を動かした。







 ふー、とリザはため息を吐いた。


「……そうねぇ、悩む事もあるよねぇ」


 執務室に戻ってきたリザは、残っていた事務処理を再開したのだが、集中出来る筈もなく度々手が止まってしまう。

 ついため息をついてしまったところを、クレアが敏感に反応した。


「えーっと、なんの話でしょう?」


 無論リザのため息の原因は異動の話なのだが、クレアが知る由も無い。適当に反応しただけだろうとリザはあたりをつけ、誤魔化すためにとぼけることする。


「誤魔化さなくていいの、わかってる」


 真っ直ぐに見つめられて、アルカイックなスマイルを浮かべるクレア。先程、クレアは頼りになる、などと言ってしまったから、機嫌が良いのかやたらと変な絡み方をしてくる。


「いや、何も誤魔化してませんけど」


 誤魔化しているので、顔には出ないように気をつけるリザ。


「ううん、本当にわかってるから、大丈夫」


 自信満々のクレア。

 もしかして本当にわかっているのではないだろうか、と半ば疑心暗鬼に陥ってしまう。


「……ホントですか?」

「ええ、もちろん」


 もしかしたらセリスが先にクレアに話をつけたのかもしれない、とリザの中にそんな考えが浮かぶ。


(だとしたら、もしかして本当にわかっているんじゃ……)

「フィオちゃんのことでしょう?」

「さすが部長」

(全然違う)


 どうしてこうも的外れな考えを自信満々に語れるのだろうかと思ったが、誤魔化すのには渡りに船と考えリザは同調した。


「午前中の私の言葉が忘れられないんでしょう」


 フィオとの関係がどうとか、そんな事を言っていたようなとリザは思い当たる。


「そうなんですよね、どうすればいいのかなって……」

「そうだよね。その気持ち、すごくわかる」

「わかってもらえて嬉しいです」


 私にはなにもわかってないけど、とリザは心の中で舌を出す。


「でもね、心配しなくていいと思う。フィオちゃんは良い子だからね」

「ええ、そうですね」


 その言葉にはリザは心から頷いた。


「多分リザちゃんは、自分の気持ちがわからないんだよね、自分が本当はどうしたいのか」

「そうなんです」


 本当に何の話だろうかと喋りながら推測するが、全く理解できないままに会話は進んでいく。


「でも、そうね、多分だけど」

「はい」

「迷ってるってことは、多分そういう事なんだと思うな……」

「……やっぱり、そうなんですかね」


 と納得した顔をするが、リザにはなにもわかってはいない。そういう事って何?と考えていた。


「どう?思い当たることはある?」

「そうですね、確かにあるような気がします」


 うんうんと訳知り顔クレアは頷く。リザも同じ顔をして頷くが、ただの知ったかぶりだった。


「やっと自覚してくれて嬉しいな」

「ええ……、ところで」


 何の話ですか、と流石に申し訳ない気持ちも湧いてきて、そろそろネタばらししようかとした時に、


「やっぱり二人は愛し合っていたのね」

「……は?」


 余りにも予想外のクレアの言葉にリザは言葉を失った。





 陽も落ちかけた広域機動対策部の執務室、窓からは西日が斜めに差している。間も無く、本日の業務終了時刻を迎えようとしている。

 半分が橙色に染まった執務机にて、リザは事務処理の仕事を片付けていた。……はたからは、片付けているように見えた。


(愛って……なに?)


 先程のクレアの発言を受けて、思考が何周かしていた。


(だって長いこと一緒にいるんだから嫌いじゃないよ。むしろ好き。一緒に暮らすのが全然ストレスにならないくらいには、好き。でも好きと愛してるって同じじゃないでしょ?)


 リザは三枚ほど重なった報告書を目の前にして、ペンを持った手を遊ばせている。


(いや、違うのか。一緒に暮らしてもストレスじゃないってことはそれは愛なのかな。家族愛とか言うしね?じゃあフィオのことは好きだし愛してるって事なのか?)


 金髪碧眼のよく笑う少女の笑顔が脳裏に浮かぶ。『せんぱい?』という、フィオがリザを呼ぶ時の声も一緒に蘇る。

 何となくその声には、親愛が籠っているような気がして、リザは脳内で頭を抱える。


(……フィオもおんなじ気持ちかなぁ)


 今はこの場には居ない、フィオの使っている執務机に目をやる。机上に置かれた小さな動物の置き物の中には熊も居る。学生時代に森で襲われた記憶から、リザは今でも熊が好きでは無いが、フィオはそれほど気にしていないらしい。


(……フィオに嫌われてはいないと思う。一緒にいても楽しそうにしてるし、付き合いも長いし)


 十年という月日の中でも、二人の関係に変化はないとリザは感じていた。それが居心地がよくて楽だった。


(でも、知らない面もまだまだあるんだよね)


 朝陽の中、ネグリジェにエプロンを纏ったフィオがやたらと扇情的に見えた事。

 休日に、嫌だとは言いながらも、周囲のために貴族らしく振る舞っていた事。

 長い付き合いと思っていたが、知らないこともまだまだある事に気付かされる。


(もしかしたら、まだまだ知らない面があるんじゃないかなぁ)


 知らない面。例えばそれは、


(もしかしたら、私の事が、その、『好き』だとか、そういう面も、持ってるの……?)


 とそこまで考えて、なんだかフィオに申し訳ない気がして思考を止める。


(いやいや、それよりも私の気持ちはどうなの?)


 自分の気持ちをひとつひとつ確認するリザ。


(一緒に居るのは嫌じゃ無い、むしろ楽しいし、好き)


 何度目かわからない思考のループに嵌ってしまっている事に気付いているものの、どうすれば良いかわからなかった。


(好き……!?やっぱり好きなの……?でも好きと愛してるって同じじゃないでしょ?)





 リザは学生時代から勉強と研究に時間を費やしてきた。社会人になってからも業務の合間に勉強と研究を続けた。『当世最高の天才』は、周囲の誰よりも忙しなく生きてきた。それ故に、誰かと深い絆を構築するにはあまりにも性急すぎる生き方だったと、リザは感じている。

 そんな人生で、フィオはリザにとって貴重な理解者だった。

 学院生時代から十年以上の付き合いで、仕事のことにしても、その他のことにしても、相談相手といえばフィオだった。

 学生時代、リザとフィオは『姉妹』だった。姉妹というのは特別に仲の良い生徒というだけでなく、『妹』は勉学だけでなく学院生活の指針や生徒としての態度を教わり、『姉』は上に立つ人間としての知見や立ち居振る舞いを学ぶ。そんな関係を学生の間では姉妹と呼んでいた。学生同士の間で永く受け継がれてきた伝統の一つで、学院側も推進している。

 リザは入学した時から興味はあったが、どんなに優秀でも出自の怪しいリザを妹にしようという『姉』は現れなかった。

 しかし学院生活の二年目の春に、学校側からフィオの姉になって欲しいと言われた。

 普段は学校側から推薦されることはないのだが、名門メイリープ家の息女に相応しい姉として、一年目から飛び抜けて優秀だったリザをが学校から選ばれた。

 正確にはメイリープ家が『出自など気にしない。最も優秀な人物をつけて欲しい』という要望を出したため選ばれた、とリザは聞いている。

 二人は姉妹としては『姉としての尊敬されるべき振る舞い』とか『妹としての姉への尊敬』といった点で他の姉妹より劣っていると評価されたりもしていたが、リザにとってフィオは大切な妹だったし、フィオにとっても自分は敬愛する姉だったと信じている。

 その証拠に、フィオはリザの卒業後に誰の姉にもならなかった。

 フィオは学年問わず非常に人気があった。美しい金髪碧眼のに加え、親しみやすいキャラクターで人気があり、姉妹になりたがる学院生は多かった。

 自分が卒業した後にフィオが誰かと姉妹になってしまうと考えると、モヤモヤとした気持ちにもなった。

 あの時の感情は、嫉妬だったとリザは自覚している。

 しかし結局、リザ以外にフィオと姉妹となった者はいない。リザが卒業したあと、何人かに声をかけられたそうだが、全て断ったらしい。

 それはリザにとっては非常に嬉しかった。

 二人の間には、誰にも見えなかったかもしれないが、確かに姉妹としての絆のようなものがあったのだとリザは確信している。

 大切な妹で、一緒にいて楽しい後輩。

 仕事においてもその他においても、もっとも信頼しているパートナー。

 確かにそうなのだが、それが愛なのかと問われれば、リザにはわからなかった。





 窓の外から差す西日に業務終了の時刻が近付いている事をリザは感じている。

 窓の外を眺めながら、疲れた、と独り言ちるリザ。

 朝はシロの体調不良から、追い出されるように家を出た。

 仕事に入ればクレアに仕事を変えて欲しいと要請。

 午後はセリスからの勧誘を受け、その後クレアからの衝撃の言葉に業務は手に付かず。

 色々あった長い一日が、ようやく暮れようとしている事に安堵のため息をついた。

 目の前の報告書は真っ白だが、まあ、もうどうでもいいかという気持ちが強かった。


「お仕事どう?」


 ぼんやりと部長席の後ろの窓を眺めていたリザに、西日を背負って着席しているクレアは尋ねた。


「あー、全然ダメですね」


 と、苦笑しながら報告するリザに、


「ふふ、そっか」


 と、何故か楽しそうに微笑んでいるクレア。

 その笑顔を不審に思いリザが頭にはてなを浮かべると、クレアは楽しそうに話した。


「今朝リザちゃんに言われて気付いたけどね、やっぱり私はリザちゃんに頼りっきりだったなぁと思って」


 そんなこと無いですよ、と言いかけたが止め、次の言葉を待つ。

「リザちゃんは本当に良くやってくれてるから、たまには全然ダメなのも可愛いなぁーって思って」

「……ダメな子ほど可愛いとか、そういうやつですかね?」


 んー、とクレアは顎に手を当てる。


「どうかなぁ……ちょっと違う気もするね。リザちゃんって本当になんでも出来ちゃうでしょう……ううん、違うかな」


 慎重に、言葉を選ぶように少し考えてから話し出すクレア。


「リザちゃんはなんでも頑張っちゃうでしょう。だからかな、頑張らないリザちゃんが、新鮮で、少し信頼された気がして、嬉しいのかな」


 まあ私がやらせてたんだけどね、と言って苦笑するクレアに、やはり頭にはてなを乗せたままのリザ。


「よくわからないです」


 素直に表明すると、


「私にもわかんない」


 とクレアが微笑みながら同調した。


「もっと信頼されるようになるから、またダメなところがあったり、リザちゃんがやりたい事があったら、遠慮なく言ってね」


 クレアの頬が赤いのは西日のせいだろうか、はたまた別の理由だろうか。そんな事をリザは考えていた。





「で、その全然ダメなのは何かな?」


 クレアが椅子から立ち上がり、リザの執務机の傍まで歩み寄る。少しだけ偉ぶっているような口調がリザは可笑しかった。


「報告書ですね、この間の、西の森の」


 西の森での出来事は、クレアには詳しく話してはいない。


「あーなんか魔獣に会ったって言ってたっけ」


 そうですね、と頷く。

『管理狩猟場の定期調査』と題された報告書には、報告者としてリザの名前、そして日時が書き記されている。経緯や目的などの概要部分は、前回実施時の報告書と全く同じ内容を書き記しているが、肝心の本文は真っ白になっている。


「いつも何を書いてるんだっけ」

「調査結果と、簡単な所感ですね」


 そう言って、リザは手元に置いておいた前回の報告書をクレアに見せる。

 三箇所分の調査結果と『夏場はエーテル量が多くなる傾向にあるので想定した数値通り。これから秋に向けエーテル量は下がっていくと予想される。』といったような文言が書かれていた。

 ただ、今回の調査で計測できたのは一箇所のみだった。詳しく経緯を書くとシロが何者であるかと怪しまれてしまう。

 しかしあまり白紙に近い状態では再提出となる可能性が高い。リザはその板挟みになって悩んでいた。

 クレア顎に手を当てて、うーんと唸る。


「シロちゃんもいたんだよね……確かに報告しづらいなぁ」


 この時、行きがてらでシロの保護者探しを並行して行っていたが、結局手がかりのないまま森の入口までついてしまい、安全だと判断して連れて森に入ることになった。

 その後にシロが魔獣に襲われたところまではクレアに話したが、シロがあからさまに狙われていた事は話していない。


「やっぱりお仕事を並行で進めようとしたのは間違いだったかなぁ」


 とクレアは項垂れるが、


「いえ、私が提案したことですし……」


 リザはクレアを庇うように責任を自身に向ける。提案したのはフィオだったかと思い直したが、とくに訂正はしなかった。


「とりあえず、一般国民を危険に晒してしまったのは事実だから、ありのまま書いておくのが良いかも。もしかしたら再提出になるかも知れないけど」

「うーん、そうですか……」


 クレアに説明したように、シロが狙われたことだけを伏せて書くことにしようと、そう決めてペンを取るリザ。クレアに横に立たれながら、少しずつペンを進めていく。


『報告者ともう一名の業務担当者、および同行者の三名にて調査を開始する。入口脇の地点での計測は、想定通り前回よりも少なくなっている。その後』


 と、そこでリザのペンが止まる。


(……この後、少し進んだところで、気づいたらフィオとシロがいなかったんだよね)


 リザは思い返すと、なんとも奇妙な出来事だったように思える。

 何度も入ったことがあり、土地勘も十分にある、いつもと変わらない森の中で、あっさりと二人とはぐれてしまった。なんと報告すれば良いのだろうか。


『その後、理由は不明だがもう一人の業務担当者、および同行者とはぐれてしまう。』


 理由は不明、と書いたがリザ自身で納得できていなかった。再提出かもなぁ、とため息をついた。


『捜索したところ、もう一人の業務担当者を発見し応援を要請すように指示。報告者は同行者の捜索を継続』


(……先にフィオにあったんだよね。それでフィオに応援を呼ぶようにお願いして、私はもう一度シロを探し始めて)


『その後、同行者、および同行者と対峙している犬型の魔獣を発見。』


(そこでシロを見つけて、一緒にあの魔獣と遭遇して、えーっとそれから)


『戦闘となり、撃退はしたものの無力化には至らず。その後再度もう一人の業務担当者と再会。』


(……そういえば)


 リザは違和感を覚える。


(その後にフィオが来たけど、応援を頼んだはずなのに一人だったな……。まああの時のフィオは、かなり混乱してたしなぁ)

「あら、まだその魔獣、森にいるのかしら?」


 横でリザが報告書に記入しているの見ていたクレアが尋ねた。

「そうですね。まあ御用狩場なんで立ち入る人はいないとは思いますが」

「でも退治までうちに回ってきたら厄介よねぇ」

「御用狩場ですから、どこかがやるんでしょうけど……」


 クレアは魔獣退治の任務を広域機動対策部で請け負う事にならないかと憂いているらしい。


「そしたら部長の出番ですね」


 クレアは昔、結構強かったという噂をリザは聞いたことがある。真実のほどは定かでは無かったが、茶化すようにリザはクレアに話をふってみた。


「うーん、私ももう若くないからなぁ。もうすこし若ければねぇ」


 と言いながら、ちらりとリザを横目で見るクレア。


「いやー、私も戦闘は専門外ですから、ここは頼りになる部長にやってもらいたいなぁ」

「えー、本当?嬉しいけどぉ……」


 リザの雑な持ち上げ方でも、頬を染めてまんざらでもなさそうな調子で微笑むクレア。


(部長って、結構チョロくてかわいいな……)


 クレアの意外な一面を発見し、リザは微笑んだ。


「あーじゃあフィオちゃんにやってもらう?」

「いや、フィオだけじゃ無理ですよ……。それって結局私も一緒にやるってことじゃないですか……」


 あー、そうだっけぇと冗談めかして笑うクレア。


「でもでも、フィオちゃんて魔獣関連詳しいんでしょ?」

「ええ、そうですね、学生時代に研究していたので」


 頭の中で、何かが引っかかった。


「ってことはさぁ、何か弱点とかわかるんじゃない?」

「えーっと、そうですねぇ」


 リザは、その引っ掛かりを逃さないように慎重に手繰る。


「……リザちゃん、どーかしたの?」


 一瞬頭が引っかかりに取られ、反応が遅れてしまった。それを心配したのかクレアが気遣ってくれるような言葉を掛ける。


「ああ、いえ、なんでもありません。確かフィオが魔獣のに詳しいって話でしたっけ」

「そうそう、確か卒論もそんなだったよねぇ」

「……ええ、確かタイトルは『魔獣の軍事転用に関するレポートと考察』でした」

(確かにそうだ。フィオは魔獣に詳しい。多分私よりもずっと魔獣に関する知見があったはずだ)


 学生時代、二人で魔獣に襲われたことがあり、それ以来トラウマを払拭するようにフィオは魔獣の研究を行なっていた。


(フィオの家で読んだ論文も、確かに魔獣関連で、あれは普通の動物に人工的に多量のエーテルを注入する実験だったはず……タイトルは『魔獣の人工生成に関する報告と考察』)

「あー思い出してきたわぁ、確か魔獣を軍事転用できないかって論文だったっけ……。結論としては、確か転用可能という結論を出したって書いてたような気がするけど」

「そうですね……」


 魔獣の人口生成については、すでに先行研究によって生成可能であることが証明されている。普通の動物に、多量のエーテルを人為的に注入することで魔獣化する事ができると論文には書いてあった。

 それを軍事転用できないか、というのがフィオの論文の本旨だった。軍事転用とはすなわち、本来凶暴化する魔獣に指示を与えることで、兵器として使えないかということだ。


(……いくつかの手順が必要と書いてあった気がするけど、結論は『犬程度の脳の大きさを持つ動物であれば、ひとつの指示であれば忠実に実行させることが可能』だったはず)


 そう、例えば、銀色の髪の少女を意図的に狙うような指示も、可能なはずだ。

 外の鐘楼からは、業務時間の終了を告げる鐘が鳴り響いていた。




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