宮廷魔術師と持ち帰り残業

 もともと彼女のことは好きでは無かった。

 平民の出自なのだろうと思っていたらとんでもない、親が誰かすらもわからないと来ている。ただちょっと高名な魔術師に弟子入りしており、成績も良いというだけ。

 それだけで私の姉に選ばれ、年上気取りで私に世話を焼くその人が苦手だった。

 他の姉妹は、姉のことを親愛を込めて『お姉様』なんて呼んでいたけれど、私は絶対にそうは呼ばなかった。


『せんぱい』


 いつだって皮肉を込めてそう呼んだ。

 その人がはじめて怒ったのを見たのは、入学して三ヶ月ほどした時のことで、目前には初めての定期考査を控えていた。

 その時の私は、初めて学ぶ魔法学にまるでついていけず、もともと無かったやる気もすっかり底をついていた。定期考査の成績次第では落第となるのだが、それは実家に帰る名目ができて非常に都合が良いと、そんな風に考えていた。

 しかし教諭陣はどうもそうは考えておらず、名門であるメイリープ家のご息女を万が一にも落第させるわけにはいかないと思ったのか、こっそりと考査に使う問題文が書かれた数枚の用紙を渡してきた。

 そのことに、彼女は激怒した。

 勉強を教えようとして寮の私の部屋を訪ねた彼女はその用紙を見るなり、それを持って職員室に突入した。

 職員室でその用紙をばら撒くと、声高に宣言した。


『そんな事されなくても、私の妹は誰にでも誇れる成績を取りますから!』


 その後に、彼女は私の腕を引いて寮に戻った。

 それからは地獄だ。

 毎日彼女は勉強を教えるという名目で寮の部屋に顔を出す。

 教科書を読ませ、わからない所はないかと問う。

 全てわからないと答えれば、端から端まで丁寧に教えられた。

 苦手な人と、苦手なことをしながら過ごす時間は、とても苦痛だった。

 ただ、私が簡単なところを少しだけ理解すると、彼女は嬉しそうに褒めてくれた。

 それが少しだけ嬉しくて、もう少しだけ頑張ってみようかなと思えた。

 結局、定期考査はなんとか合格点を取れた。

 決して『誰にでも誇れる成績』では無かったけれど、『せんぱい』は自分のことの様に喜んでくれた。

 それが嬉しくて、少しだけ自信がついた。

 この人がいるなら、この学院も悪くないかもと思えた。



 * * *



 ラオプ王国の王城敷地内、広域機動対策部執務室。すでに日は傾きかけており、窓からは夕日が斜めに射し込んでいる。五台の机が並ぶ執務室はオレンジに染まり、その部屋にいる四人もまた、同様にオレンジに染まっていた。


「えぇー、それでその女の子連れてきちゃったのぉー?」


 報告に来たリザに、驚いた様に返答したのはクレア。


「いや、それが、離れてくれなくて」


 報告に戻ったリザとフィオ、とリザとフィオの間には二人と手を繋いでいる少女がいた。ボロを纏った銀髪緑眼の少女。見るものを引き寄せるような白磁の肌は、今は所々汚れている。

 数時間前に調査に行った廃屋で出会った、五歳くらいの少女であった。

 リザとフィオは、廃屋での出来事をクレアに報告するためにも広域機動対策部の執務室に戻ってきていた。ただ、廃屋であった手品のような奇怪な出来事に関しては、クレアには話してはいない。ただ迷子の少女を保護した、とだけ報告していた。なんとなく話さない方が良いだろうという、リザの判断だった。


「お名前は、なんていうのー?」


 クレアは少女に尋ねる。リザもフィオも間にいる少女に目を向ける。が、少女は無表情でリザを見上げる。


「なに?」


 と少女はリザに尋ねる。


「いや、名前なに?」

「……わかんない」


 とリザに向かって、やはり無表情のまま回答した。


「じゃあどこから来たか覚えてるー?」


 クレアは再び少女に尋ねる。もう一度、同じようにリザもフィオも間にいる少女に目を向ける。

 が、またしても少女は無表情でリザを見上げる。少女は感情を顔には出さないが、リザはなんとなく少女に頼られている気がした。


「どこから来たか、どこに居たか、覚えてる?」

「いえ」


 と、リザに向かって回答する。


「どこの家?」


 クレアに三度問われ、またしてもじっと少女はじっとリザを見上げる。


「どの家か、覚えてる?」


 とリザが問い直すが、


「いっしょにきたいえ」


 といってリザを指差す少女。フィオは軽く吹き出している。


「いや、今日の一緒に出てきた家じゃなくて、あの家に来る前に居たところ。覚えてない?」

「……わかんない」


 んー、とクレアは唸る。


「じゃあ、ご家族は?お父さんかお母さんはどこに居るの?」

「……たぶんいないとおもう」


 少女の反応に、大人三人は押し黙る。


「……まあ、こんな調子で」


 しばらくして、リザが口を開く。

 ここに来る前に、一通り少女への聞き取りや廃屋周辺での聞き込み調査を二人は行なっているが、終始こんな調子で、本人を含めた誰一人として、少女がどこから来たのかを知らない。


「うーん、そーなんだぁ、困ったねぇ」


 そう言ったクレアの語調からは一切困窮の念を感じないが、本人は腕を組み困っている姿勢を見せた。


「警邏部には行ったのぉ?」

「行きましたけど、この子が離れてくれなくて、預かってくれませんでした」

「ふふ、そーなんだぁ」


 クレアはどこか可笑しそうに笑う。

 二人は執務室に戻る前に、行政側の警邏部と呼ばれる行方不明者や失踪人に関する情報などを広く取り扱う部署にも顔を出したが、この少女らしき情報はなかった。

 また警邏部はこの少女の様に、身元不明の未成年者を預かることもしているが、少女がリザから離れようとしなかったため、仕方なくリザが預かっている。

 リザの話を聞いて、クレアはうーんと唸る。


「とりあえず。今晩はリザちゃんかフィオちゃんが預かってくれる?」

「……まあいいですけど、フィオもいい?」


 今日泊まることになっているフィオに話を振ると、


「ええ、もちろん!」


 とフィオはにっこりと笑う。


「預かってる時間は時間外労働になります?」

「あー、勤務時間と残業に厳しい、真面目でいい子ねぇ」


 とクレアはニコニコと笑っている。


「うーん、あんまりない事だから一応経理部に聞いては見るけど、たぶん残業代は出ると思うから安心して預かってねぇ」


 部長の言葉を聞き、よし、とリザは小さくガッツポーズをした。そんな様子を見てか、フィオは苦笑いをしている。


「いやー、それにしても、せめて名前だけでもわかればねぇ」


 ちらりと、また三人で少女を見る。なぜ見られているのかわからないと行った風に、きょろきょろとあたり三人を順番に見回す少女。


「私はクレアっていうのよー、こっちがリザちゃんで、こっちがフィオちゃん。あなたは?」


 再度少女に名前を問うクレア。少女は相変わらずきょろきょろと三人を見回した。少女は首を傾げ、困ったように答えた。


「うーんと、りざ」

「それは私の名前な」


 くふっ、とフィオとクレアが吹き出す。


「じゃあふぃお」

「それは私の名前だよー」


 フィオがそう言うと、少女はうーんと唸り始めた。


「わかんない。それはないとおもう」


 と少女はクレアに向かって答えた。


「そっかぁ、じゃあ困るねぇ?」

「こまる?」

「そーよー、名前がないと自分のものに名前が書けないでしょう?するとねぇ、とっておいたケーキがいつの間にか無くなっちゃうのよー」


 その例えに、少女はぽかんとしていたし、ついでにリザとフィオもぽかんとしていた。


「あれ、何か変なこと言った?」

「……そうですね」


 呆れたようにリザは返した。

 三人がどうしようかと考えていると、少女がリザと繋いでいる手をくいくいと引いた。


「りざ、わたしもなまえほしい」

「ん?」

「みんなもってるから、わたしもほしい」


 綺麗な緑眼が、リザを見上げる。


「いーんじゃない?つけたあげたらー?」


 とクレア。


「いや、ダメだと思いますけど……。本当の名前があるかもしれないんですよ?」

「でもーこのままじゃ名前が呼べないしー」


 リザはうーん、と考えこみ、フィオをちらりと見る。リザはフィオの考えを聞こうと思ったのだが、


「いいなー、私もせんぱいに名前つけて欲しいですー」


 と完全に的外れなことを呟いている。

 ため息をつきながら少女を見ると、変わらず綺麗な緑眼で見上げている。


「だめ?」


 と小首を傾げる仕草が可愛らしく、リザの気持ちが絆される。


「……じゃあ、どんなのが良い?」

「なんでもいい」


 そーね、とリザは空いてる方の手を顎に当てる。少女を見ると、所々汚れてくすんだの銀の髪が目についた。それは、見るものによっては白く見えただろう。


「じゃあ、『シロ』は?」

「しろ」


 少女は復唱する。


「ど、どーかな?」


 少し遠慮がちに聞くリザに、


「犬みたいねー」

「さすがせんぱいです、素性の知れない子どもなんか犬同然の扱いってことですね?」


 クレアとフィオが口々に好き勝手なことを言う。

 しかし少女本人は、


「しろ、しろ、しろしろ」


 と、上機嫌で与えられた名前を連呼していた。

「わたしは、しろ」


 もう一度、シロはリザを見上げ、


「きにいりました」


 と言うのだった。







 すっかり陽が落ちた、王都城下町の住宅街。煉瓦の敷き詰められた通りに魔術灯が等間隔で並び、ゆらゆらと暖か味のある灯で路地を照らしている。


「ここですよ」


 リザは退庁し、フィオに連れられ、シロと三人でフィオが現在寝泊まりに使っているメイリープ家の別荘に案内されていた。

 メイリープ家は地方を領地としている貴族である。フィオの父親であるメイリープ家の現当主とフィオの母親は、普段は領地のあるメイリープ領内にて暮らしている。大陸のほぼ中央に位置する王都まで来ることはあまりない。

 ただし大公からの参集の詔勅があれば、臣下たるメイリープ家も当然王都に上ることになる。そんな時に使うのが、現在リザがフィオに案内されたメイリープ家の別荘である。

 フィオが王都で公務員として仕えている間は、このメイリープ家の別荘を寝泊まりに使っている。そのような形で王都で公務員をやっている者は多い。


「……でかくね?」


 片手にキャスター付きの大きなバッグを引いているリザが、呆けた顔で正直な感想を漏らした。

 案内された別荘は、周囲の家屋と比較しても非常に大きな屋敷だった。王都の中央からはやや離れているとはいえ、住むには良さそうな閑静な雰囲気の住宅街にありながら、敷地面積では周囲の家の十戸分ほどという広大さ。玄関前には立派な石の門柱が構えられ、中は水こそ出ていないが噴水と庭園が設えてある。屋敷そのもは石造りの二階建てで、外見からは一体何部屋あるのかが把握できないほどであった。


「貴族って見栄っ張りですよねー」


 とけらけらとフィオは笑っている。


「無駄にでかくて掃除も行き届かないし、使いにくくてしょうがないですよ。ささ、どーぞどーぞ」


 と促され、門をくぐり庭園の横を歩く。庭園には色とりどりのダリアやセージの花が咲いており、リザは思わず感嘆の声をあげる。


「庭すごくない?手入れしてんの?」

「まっさかぁ。月に一度、庭師が来るんですよねぇ」

「庭師」


 聞きなれない単語を、つい復唱するリザ。


「ええ、実家にはお抱えの庭師がいるんですけど、こっちをやってくれるのは年何回かこっちで雇ってる人です。そのせいで母親がたまに来ると、自分の好みの庭じゃないってうるさいんですよねぇ」

「はー、なるほど」


 リザは貴族の出身ではない。それどころか、わりと出自が怪しかったりする。そのため、このような大きな家に住んだ事がない。貴族の生活というものを話には聞いていたが、自分とはまた違う世界の話のような気がした。家賃にしたら一体幾らくらいになるのだろうかと、いかにも庶民らしい思考に頭を取られる。

 きょろきょろと辺りを見回すリザは、初めて王都に来た時のことを思い出した。シロは落ち着いたものだが、単によくわかっていないだけかも知れない。


「まあ。自分の家だと思ってゆっくりしてください、シロちゃんもね」

「うん、わかった」


 感情のわかりにくい表情でシロが頷くと、フィオは微笑む。


「ささ、入ってください。シチュー作りましょ?」


 フィオは買い物かごを小脇に抱え、二人の背中を押して屋敷に促した。





 小麦粉をバターで炒めただけで、食欲をそそる芳醇な香りに包まれる。


「もう食べたい」

「早いですよ」


 くすくすと木べらを片手に笑うフィオ。今はローブを脱ぎ、肩のところで吊った簡素な麻の白いワンピースに、上からフリルのついた白いエプロンを纏っている。リザもローブを脱ぎ、リザの持ち込んだバッグに入っていた白い襟のないシャツと、裾がまくられた膝下くらいの長さのズボンを履いている。


「いいにおい」


 後ろからシロが鍋を覗き込もうとぴょんぴょんと跳ねている。見かねたリザが鍋の中が見えるようにシロを小脇に抱えるように持ち上げた。


「おー、たかい」


 シロも元々纏っていたボロは廃棄され、今はメイリープ家のタンスに眠っていた小さなワンピースを纏っている。


「もーちょい待ってねー」


 フィオがシロに声をかけ、鍋の中に行くつかのブロックに常に切られた牛肉を投入すると、手際よく炒め始める。徐々に色付いていく牛肉をシロは楽しそうに眺めている。

 本日のメニューは牛肉のシチュー。連日寒い日が続いているので、温かいものをとリザとフィオで考えたメニュー。


「美味しそう」

「うん」

「食べたい」

「うん」


 シンプルな感想とシンプルな相槌を繰り返すリザとシロに、思わず吹き出して笑うフィオ。


「まだ時間かかりますから、先にお風呂は入ります?」

「やっぱりお風呂あるんだ」

「一応貴族のお屋敷ですからねー」


 王都といえど、個人邸宅にはまだそれほど風呂は普及していない。公衆の浴場か、お湯で温めたタオルで体で体を拭くのが一般的となっている。これだけ大きな家ならとリザは期待していたが、期待通りとなった。


「ふろってなに」

「すっごい気持ちいやつだよー」


 とフィオに教えられ、おー、とシロは感嘆の声を漏らす。


「まあ沸くまで時間かかるんで、先にバスタブに水だけ張っときますね」


 バスタブに水を張るだけで、時間はかかるが入浴に適した温度に調整してくれるという代物で、こちらもまだまだ普及してはいない。


「それやりたい」


 とシロはリザの腕の中で、自ら仕事を引き受けた。


「おー、ありがとう。シロちゃん偉いねー」

「うん」


 ちらりとシロはリザを見る。何かを訴えるようにちらちらと視線を送る。


「……自分も、水張りやります」

「おー、せんぱい偉いですねー」

「……うん」

「ついでにバスタブ磨いてもらえます?」

「……はい」


 リザが頷くと、フィオは可笑しそうに笑う。牛肉が良い色になった頃合いで、フィオは切った野菜類を手際よく鍋に投入していった。





「はー、美味しかったぁ」

「うん」

「喜んでいいただけてよかったです」


 といって、にこにこと笑うフィオ。

 メイリープ家の別宅のダイニングは三人で使うにはあまりにも広かったため、テーブルの端の部分に固まって食事をした。テーブルの上には、ビーフシチューの入っていた平型のスープ皿があるが、今は中身が綺麗に平らげられている。バスケットに乗せてあったパンや付け合わせのチーズも同様、綺麗に片付けられていた。


「じゃあ食器片付けちゃいますね」

「あ、手伝う」


 と、リザは立ち上がろうとするが、フィオはそれを言葉で制止する。


「いえ、大丈夫ですよ、やっちゃいますので」


 食事に使った皿やナイフ、フォークなど重ね、両手に持ってフィオはキッチンに向かう。


「……あの、それより、そろそろお風呂に入られたらどうですか?」

「あ、そう?」


 フィオはかちゃかちゃと食器類を重ね、運んでいく。キッチンに向かっているフィオの表情はリザからは見えないが、いつもより声が高くなっているような気がした。


「ええ、その、とても気持ちいいと思いますので……」


 フィオはダイニングの端にあるキッチンに続く扉を通っていく。


「着替えもこちらで用意しておきますし、その、今着ているものは、こちらで全て洗っておきますから」


 姿の見えなくなったフィオの声だけが、キッチンから聞こえる。


「おふろはいるの?」


 リザの隣の椅子に座っているシロが、リザに向かって声をかける。


「うん、シロは一人で入れないよなぁ……、一緒に入る?」


 カシャン、と高い音がキッチンから聞こえる。フォークでも落としたのだろうかとリザは判断した。


「……シロちゃんは、私と一緒に入りましょうか、せんぱいは疲れているでしょうし」

「そう?私は大丈夫だけど。ご飯も作ってもらったし」


 リザはキッチンに声をかける。


「いえ、私がシロちゃんと入りますから」


 珍しく折れないフィオを不思議に思いながら、シロに視線を送る。


「シロはどっちと入りたい?」


 シロは、んー、と唸り、少し考えてから、


「さんにんではいりたい」


 カシャンカシャンカラカラカラ、ともう一度、今度は纏めて三つくらいのフォークを落としたような音がした。


「フィオ、大丈夫?」

「……すみません、落としてしまいました。平気ですので」


 うーん大丈夫かなとリザは顎に手を当てて考えていると、椅子を降りたシロがリザの袖を引いた。


「さんにんではいれる?」

「まあ、あれだけ広ければ」


 先程バスタブに水を張ったときのことをリザは思い出す。一人で入るには明らかに大きく、二人でも大きく感じるのではないかと思っていた。そのせいで掃除が大変だったことも、ついでに思い出した。


「……どうかな?」


 とリザはキッチンに居るフィオに声をかける。


「ちょっと待ってください、その、それは考えてなかったので」


 キッチンから、やや早口なフィオの声が聞こえてくる。


(……なんか考えがあったのかな。フィオのことだから、もしかしたら何かサプライズ的なことを考えてたとか)


 とリザはよくわからないまま、フィオに申し訳なく思った。


「……わかりました、大丈夫です」


 キッチンから聞こえた声は、何かを決意したような声だった。





 魔術灯のランタンの灯が、揺れながら枕元を照らしている。

 リザにあてがわれたのは二階の客間。

 風呂上がりのリザは、襟のない木綿のシャツに脛くらいの丈のパンツ姿でベッドに横になっていた。

 客間はかなり広く、リザが下宿していたアパートメントの部屋の二つ分ほどの広さだった。大きな窓も四つほど設えてあり採光には事欠かない。

 大きなダブルのベッドに、脇にはこちらも大きめのサイドチェスト。現在は魔術灯のランタンが乗っており、煌々と枕元を照らしている。ベッドの脇にはロッキングチェア、壁際には火を使わない魔術用の暖炉も取り付けてある。

 リザは寝る前にメイリープ家の書庫にあった魔術研究に関する論文に目を通していた。

 リザが現在研究しているのは、いわゆる回復魔術についてである。手をあてがい、呪文を唱えるだけで傷が塞がり、離れた腕が再びくっつき、生まれつき開かないはずの目が開くという、奇跡のような力だと、寝物語で語られる力である。魔術により医療が進歩すれば、必ず困っている誰かの役に立つはずだとリザは考えていた。

 リザは体内エーテルを操ることで、医療に近いことができるのではないかと踏んでいる。動物に意図的に体内エーテルを流すことで傷が治ったという報告も、リザがたった今読んでいる論文には記載されている。回復魔術に関する論文ではないのだが。

 ただし体内エーテルに関する研究はまだ進んでいない部分も多く、手探りで動物実験をくりかえしていくしかないというのが現状だ。


「ふー」


 と、溜息をついて上半身だけを起こして、横で寝ているシロの顔を見下ろす。くすんでいた銀色の髪は、風呂で洗ったら随分と美しくなった。可愛らしい小さなネグリジェがよく似合っている。

 リザは起こさないよう優しくゆっくりと、シロの頭に手を乗せる。手にはシロの体温が伝わり、深い呼吸により小さく上下に動いている。


(人間、だよなぁ)


 リザは今日の出来事を思い出していた。廃屋でシロに出会った時のことだ。中空に浮き上がり、無数の火球を生成したのは、本当にこの少女だったのだろうかと、そんなことを考える。

 リザは同じことをやろうとしたらどうすれば良いかと考える。


(魔法陣をあらかじめ準備しておいてから、そこにエーテルを貯めておくための動物を乗せておけば出来るか……?小さな檻に入れて、火球ひとつにつき一匹、三十匹位用意すればあるいは……?)


 が、すぐにかぶりを振った。


(……決して不可能ではないけど、シロに出来るとは思えん。そこまでしてやる意味も無いし、そんな仕掛けも無かった)


 こんこん、とドアがノックされた。


「フィオ?入って」


 そう声をかけると、かちゃりとドアノブが回り、ゆっくりとドアが開く。そこから、こちらも可愛らしいフリルの付いた淡い桜色ネグリジェのフィオが登場した。普段は纏めている綺麗な金髪は、今は下ろされており、湿って艶やかに輝いている。


「せんぱい……」


 風呂上がりの為だろうか、顔を真っ赤に上気させ、どこかぼんやりとした、蕩けるような夢現の表情をしている。

 目線をリザに合わせたまま、ふらふらとベッドに近寄って来ると、


「せんぱい……」


 とうわ言のように繰り返す。


「フィオ、大丈夫?逆上せた?」

「ええ、大丈夫です。いえ、大丈夫では無いのかも知れません。これはそう、夢幻の出来事だとしたら、きっとせんぱいは受け入れてくれるはずです……」


 大丈夫じゃなさそうだ、とリザは判断する。そういえば風呂に入っている時からどこか様子がおかしかったようなとリザは思い当たる。

 覚束ない足取りでフィオはベッドの脇まで来ると、おもむろに掛け布団を捲る。そこで初めて目線を下ろす。


「……なんでシロちゃんが居るんですか?」

「ん、気付いてなかったの?」


 上気していた顔が、みるみると戻っていく。とろんとした表情も、あっという間にいつもの様子に戻る。


「いや、あの、あれ?」


 いつもの様子に戻ったフィオに一安心して、リザはベッドから立ち上がる。


「フィオ、ちょっといい?」

「え、あ、はい、あれ??」


 客間を後にするリザを、フィオは納得がいかない表情で追いかけた。





 寝室を抜け出した二人は、階下のキッチンで壁に背を預けて話していた。採光用の窓からの月明かりと、手提げの魔術灯のランタンが周囲を照らす。

 リザの右手には、水の入ったグラスが握られている。


「シロ、どう思う?」


 リザはフィオに率直に相談することにした。シロは一体何者なのか。どういう存在なのかということを。


「……羨ましいです」

「……ん?」


 しかし、フィオの思わぬ返答に、リザは思考がついていかない。


「私もせんぱいと同じベッドがいいです……」

「いや、そういうことじゃなくて」

「じゃあなんなんですか?」


 フィオの不服そうな態度が可笑しくて、リザは少しだけ笑顔を見せる。しかし、リザは今は真面目モード。


「昼間、見たでしょ?」


 廃屋での光景は、随分と衝撃的だったはずだ。下手に魔術のことを知らない者の方が、その衝撃は少なかったかも知れないが、その場に居たのは二人の宮廷魔術師。宮廷魔術師とは、つまりこの国で最高の魔術知識を持ち、魔術を使った戦闘を行える集団である。


「やばかったです」


 フィオの率直な感想は、リザも全く同じだった。あんな事が事前準備無しに行える人間が居るとしたら、魔術はパラダイムシフトを迎える事になる。

 今まで培ってきた技術や戦術、知識や文化が全て上書きされるかもしれない。もし、そうであったとしたら、そんな新しい時代への期待にリザの心は高鳴りそうになるが、事はそうではなさそうだ。

 リザの心に有るのは不安だった。


「シロは何なのかしら」

「……魔族じゃないですか」

「まさか」


 魔族とはお伽話の中にのみ生きる存在である。エーテルなどに囚われず、好きな時に好きなだけ、気分のまま欲望のまま魔術を行使する、人間の完全上位互換。凶悪ゆえに忌み嫌われ、最後は勇者に討たれるのである。

 まさか、とリザは言ったが、それは不安の半分だ。まさか本当にシロが魔族なのだとは、リザは思っていない。しかし。


「そーですね……。彼女はちょっと普通の人よりも沢山の魔術が使える。それ以外は、私達と同じ普通の人間です。……それって、魔族と何が違うんですかね?」


 フィオは静かに、リザの心の中の不安を言い当てる。


「もしも普通の人よりも沢山の魔術が使えるのが事実だとしたら、それは魔族に見えるんじゃないですか。本当は普通の人間だとしても」


 フィオの、普段とはかけ離れた冷徹な口調に、リザはむしろ誠実さを感じた。


「……そうだよね」

「まあ、少なくとも、私達よりは敵が多い人生になるでしょうね」


 魔術というものは、体系化され、確立された技術である。しかし魔術を悪魔の所業と考え、魔術師といものは魔族の下僕であると考える宗教がある。今では随分と信徒も減ったとリザは聞いているが、それでもまだ、王都に限っても数百人規模の信徒がいるらしい。そんな人達に、もしシロの事が知れたら。


「……私には、普通の女の子にしか見えない」

「この国の半分くらいの人は、シロちゃんが普通の女の子に見えると思います」


 しかし、シロが魔族に見える人たちがいるとしたら。その人たちが魔族を忌み嫌い、排除しようとしていたら、シロはどうなってしまうのか。

 それが、今リザの抱えている不安だった。

 リザの不安は、フィオによって言語化されたが、無論何かが解決されたわけではない。


「まあでも、それは私達が考えるべき悩みではないかも知れませんし」

「……そうね」


 シロに保護者が居るとしたら、それらの問題はリザやフィオが抱える問題ではない。だとしたら、今この問題に関して考えることは意味をなさない。


「とりあえず明日は、シロの保護者探し?」

「そうですね、出来ることをやりましょう」


 フィオの前向きな言葉に、幾分気持ちが楽になる。


「……もし、見つからなかった時は、どうします?」


 リザには重たい問いで、即答は出来なかった。しかし、心は決まっていた。


「……なんだか、他人事に思えないんだよね」


 リザは両親の顔を知らない。物心ついた時にはリザが師匠と呼んでいる人に魔術のあらゆる事を叩き込まれていた。だから、家族のことも自分の名前もわからないシロが、他人事には思えない。


「少なくとも、彼女が私を必要としなくなるまで、守ってあげたい」


 リザはそう言い切って、コップを一気に呷った。

 ふー、と長く息をついた時、


「りざー?」


 寝惚け眼をこすりながら、シロがキッチンに姿を現した。


「あれ、起きちゃった?」

「うん」


 リザはコップを流しに置くと、シロに向かって行く。


「ほれ、もう寝るよ。こっちは明日も仕事だよ」


 そう言って、寝室へ促すようにシロの肩を優しく押す。


「しごとってなに?」

「部長の意味わかんないお喋りに付き合う事だよ」

「たのしそう」


 なんでだよ、というリザの声がキッチンに一人残されたフィオの耳に届く。二人の姿は、フィオからはもう見えない。

 何やら楽しそうなリザとシロの話し声が、徐々に遠ざかっていくのがフィオにはわかる。


「やっぱり、羨ましい」


 そのフィオの呟きは、誰も聞いてはいなかった。







 翌日、客間のベッドの上。朝の光に刺されるようにリザは目を覚ますと、隣で寝ていたはずのシロの姿が見えなかった。


「……シロー?」


 まぶたをこすりながら、寝ぼけた意識で少女の名前を呼ぶが、反応はない。


「んー?」


 まとまらない思考で、リザはベッドから起き上がると、階下が何やら騒がしいことに気付いた。

 リザはもぞもぞとベッドから抜け出すと、部屋のドアを開ける。香ばしい匂いが鼻腔をくすぐる。

 ふらりふらりと階段を降りると、音はキッチンから聞こえてくる。音の正体が、なにやら調理をしているであろう音だとあたりがついた。


「おはよー」


 寝ぼけ眼でキッチンに顔を出すと、


「あ、おはようございます!」

「おはよー」


 その場にいた、フィオとシロに挨拶を交わす。

 フィオは寝巻きであろうフリル付きの淡い桜色のネグリジェに、これまた可愛らしいフリル付きの白のエプロンを着けている。ミスマッチのような取り合わせが、リザには何故か煽情的に見え、僅かに戸惑ってしまう。

 朝の眩むような陽射しの中、フィオの後ろにポニーテールのように束ねた美しい金髪がきらきらと反射する。


「せんぱい、もうすぐできますから、先に座っててくださいね」

「あーいや、何か手伝うよ」


 戸惑いを隠しながらリザは申し出たが、


「大丈夫ですよ、なんかせんぱい、ぼーっとしてるし。低血圧です?」


 とフィオはくすくすと楽しそうに笑った。


「りざ?」


 フィオの傍からシロが顔を出すと、リザに向かって小走りで寄ってくる。シロもフィオと同じようにネグリジェにエプロン姿だが、こちらは純粋に可愛らしいと感じた。

 シロはリザに抱きつくと、


「わたしもてつだった」


 と、いつもの感情の無さそうな表情でリザを見上げる。

 くいくいと服の裾を引っ張るシロに促されるようにダイニングに向かうと、広いテーブルの端に、パンやチーズ、スクランブルエッグなどが用意されている。


「これ、わたしがもってきた」


 パンの入ったバスケットを指差すと、シロは少しだけ自慢気に胸を張る。


「おー、偉いね」


 と言って、リザがぽんぽんとシロの頭を撫でると、シロは満足そうな表情となる。


「お待たせしました、食べましょうか」


 キッチンから焼いたベーコンを載せた皿を両手に持ったフィオが顔を出す。小走りで二人に寄ると、テーブルに持っていた皿を並べる。

 傍に立つシロが、リザに向かって無表情で両手をあげる。エプロンを脱がせとせがんでいるらしいく、リザはエプロンの肩にかかっている部分を引っ張ってあげる。

 おもむろにフィオに視線をやると、フィオもエプロンを脱いでいるのだが、それがなぜか扇情的に見えてしまい再び戸惑う。

 フィオはリザの視線に気づいたのか、にっこりと笑いかえす。


「せんぱい?」

「んーん」


 リザは首を横に振る。


「食べよっか」


 シロが椅子に掛け、その隣にリザが掛ける。シロの正面にフィオが掛けた。


「では、いただきます」

「いただきます」


 フィオとシロが続けて食前の挨拶を口にして食べ始める。


(……いい朝だな)


 ふと、リザはそんな風に思った。







 登庁したリザとフィオ、とシロ。三人でまっすぐに広域機動対策部の執務室に向かった。


「おはよーござまーす!」


 フィオが楽しそうに挨拶をすると、シロもつられるように、


「おはようございます」


 と声を上げる。


「おーおはよぅ、朝から元気だねー」


 と返したのは、既に登庁していたクレア。リザは挨拶もそこそこに、クレアの執務机の前に立つ。シロがその横に立ちフィオは少し後方。


「三人で来るなんて、仲良しさん?」


 クレアは相変わらずの細い目で、にこにこと朗らかに笑う。


「服もお揃いにしてるんだねぇ、かわいいー」


 リザとフィオは服務に従事するときの正装である深緑のローブを身に纏っているが、シロも同じ色の小さなローブを着ている。メイリープ家のクローゼットに眠っていたフィオのお下がりである。


「かわいい?」


 シロがクレアに問うと、


「うんうん、すっごいかわいーよぉ」


 とクレアは元々細い目をさらに細めた。


「まあ、そんなことはどうでもよくて」


 そんなやりとりを遮るように、リザはこほんと咳払いをする。


「今日はシロの保護者探しをしたいんです」


 あらぁ、と言って右手を右頬にあてるクレア。


「そーなの?優しいのねぇ。てっきり警邏に無理矢理にでも預けるのかと思ってたわぁ」

「いや、まあ、シロが離れてくれないので……」


 リザは苦笑気味に言う。嘘ではないが、本心でもない。昨夜フィオに話した本心は、クレアに話すことはリザには躊躇われた。


「つまり、お仕事としてこの子の保護者探しをしたいわけね」

「はい、そうです」


 保護した迷子の保護者を探すのは、一体どこが請け負う業務なのかと考えた時、それは殆どが警邏部なのだろうとリザは思っている。だがそこを曲げてまでも、最後までシロの面倒を見たいというのがリザの本音だった。


「本当は保護者見つからなきゃいいなー、とか思ってない?」


 とリザをからかう様にクレアは笑った。


「……そこまでは思ってないです」


 クレアの核心をついた言葉に、思わず本音で反論してしまう。


「そこまで『は』、ねぇ。リザちゃんは可愛いねぇー」


 クレアの言葉に、学生時代のリザなら拗ねていたところだが、大人気ないかと素直に認める。


「若干情が移っているのは認めますけど、さすがに保護者がいるなら見つかって欲しいと思ってます」


 クレアは変わらず微笑みを浮かべている。


「そーねぇ、ほんとは別の仕事も頼みたかったけど、リザちゃんが可愛いから良いかしら?」

「……すいません、ありがとうございます」


 別の仕事を頼みたかった、と言われて申し訳ない気持ちにもなりつつも、仕事としてシロの保護者探しが出来ることに感謝する。


「あの……」


 おずおず、といった様子で手を挙げたのはフィオ。


「保護者探しのついでに、簡単な仕事なら出来ると思います。定期調査の時期、そろそろでしたよね?」


 フィオの提案に、


「確かにそうですね。定期調査くらいなら同時並行も可能だと思います」


 とリザも乗る。

 しかしクレアの反応は芳しく無いものだった。


「んー、やめといた方が良いと思うなぁ。簡単な仕事でも、シロちゃん連れながらじゃ大変でしょう?」


 クレアは机の上に重なった書類の山から、一枚を取り出す。


「これねぇ、まあ簡単だとは思うけど」


 書類を弄ぶ様に、ひらひらと上下に動かす。

 書類の内容はリザからは見えないが、内容は知っている。

 昨日シロを保護した廃屋よりも、さらに少し西に行くと小さな森がある。その森は王都にほぼ隣接しているということもあり、昔からの王家の人間や王家に近しい貴族が狩猟を行うための狩猟場となっている。狩猟場なので当然管理されているのだが、管理項目の一つにエーテル含有量という項目がある。そのエーテル含有量の月に一度の定期調査が仕事の内容だった。

 木々が群生している森というのは、理屈はいまだに解明されていないが、中空に漂うエーテル量が他の場所よりも多い。また植物や動物も多く、生物に溜まる体内エーテルにより森全体のエーテルの含有量も多い。それを好んで森の奥深くに住む魔術師も世の中にはいたりする。

 だが、エーテルが多いということは、それだけ魔術的なトラブルや問題が起きやすい。リザ自身も、学生時代にフィオと一緒に森に迷い込み、魔獣と呼ばれる、野生動物に過度にエーテルが溜まってしまった動物に襲われたことがある。

 魔獣は突然変異の様なもので、通常の動物よりも痛みや死を恐れるといった本能が薄いため凶暴になる他、魔術による肉体強化などが起こっている時があり非常に危険な存在である。

 とはいえ、定期調査は毎月行っており、危険な目にあったことはこれまで一度もない。森に行き、三箇所くらいで『計測』の魔術を行うだけである。多少時間はかかるが非常に安全で楽な部類の仕事であるというのが、部内での共通認識となっている。


「うーん……」


 しかし、珍しく悩んでいる様子のクレア。


「森への行きがかりでシロのことを知っている人がいないか聞いて回って、調査して帰ってくるのならそれほど手間でもないですし」


 と、リザは若干早口になりながら語った。他の仕事を後回しにしている後ろめたさから、リザが必死で別の仕事をしようとしている。と、そんな風にクレアに見られている気がした。


「まあ、正直いうと定期調査なんて一回くらい飛ばしてもいっかー、と思ってたけど、定期調査をすればリザちゃんの気持ちが楽になるならそれでもいいかなぁ」


 正直すぎるクレアの言葉に若干顔がひきつるリザ。


「それ、私に言ったら意味なくないですか……?」


 あー嘘嘘、とクレアは両手をふる。


「とーっても大事な仕事だから、優秀なリザちゃんにお願いしようかしら」


 クレアがそう言うと、リザは苦笑する。


「でも、少しでも危険を感じたら、シロちゃん最優先で最良の判断をしてね」

「承知いたしました」


 リザはクレアに向かって小さく礼をした。







(まずいまずい)


 焦りが、リザの中でぐるぐる回る。


(部長の勘は、当たる)


 森の中、リザは走っていた。

 管理された狩猟場なので、足の踏み場もないほど木々が茂っているわけではないが、少し先は木々に邪魔されて見通せない。

 広く見通すためには、自身が走り回るしかない。

 いくつかに枝分かれした獣道を行ったり来たりしながら、目的の少女たちを探す。

 広域機動対策部の執務室を出た後、三人は城下町に出た。シロを保護した廃屋の方面、調査対象の西の外れの森に向かいながら、道ゆく人にシロを引き合わせながら情報取集を行なった。

 結果は、芳しくないもので、シロを知っている人はゼロ。五歳くらい女の子が行方不明になった、というような話も一切聞こえては来ず。情報は一つとして得られないまま、廃屋を通り過ぎ、森まで到着した。

 リザは落胆なのか安堵なのかわからない感情を引きずりながら、森の定期調査を開始した。調査は特に問題なく、三箇所中の最初の調査をすんなり終え、エーテルの量がいつもと変わらないことを確認した。そして、二箇所目にいく途中、気づくと、近くにいたはずのフィオとシロがいなくなっていた。

 すぐに声を上げながらあたりを見まわしたが誰もいない。

 なんとなく腑に落ちないまま、何度か声をあげたが二人は出て来はしない。

 時間の経過と共に気持ちが焦る。

 最初は冷静だったはずの気持ちも、どこかふわふわと浮つき始め、気付くと走り出していた。


(応援を呼ぶか?危険は少ない森だから、フィオがシロと一緒なら応援を呼びに行くくらいの余裕はあるはず……)


 焦るほどに冷静な思考ができなくなるとわかっているが、気持ちは急いた。


「シロ!フィオ!」


 一度立ち止まり名前を呼ぶが、反応はない。

 暑い時期ではないが、リザの額にはじっとりと汗の玉が浮かんでいる。

 正装となっているローブが鬱陶しくなり脱ぎ捨て、身軽になって再度リザは走り出した。

 リザは声を上げながら走る。先ほどより手足が露出しているので、木々の枝や葉で小さな傷が手足についていくが、気にしてはいられなかった。


「シロ!」

「せんぱい……!」


 少し離れtがところから、リザの耳に声の聞こえた。聞こえた方にリザが振り向くと、フィオが青い顔をして立ちつくしている。

 一瞬安堵したリザだが、駆け寄ったリザは傍らにいるはずの少女がいないことに気付く。


「フィオ!シロは一緒じゃない!?」

「すいません……すいません……」


 息も切れ切れにフィオは謝罪の言葉を口にする。


「すいません、どうしよう、ごめんなさい……」


 混乱したように、泣きそうになりながらフィオは呟く。

 フィオの様子を見て、リザは冷静さを取り戻すように深呼吸をする。


(落ち着こう……、今は私が冷静にならなきゃ)


 二度目の深呼吸の後、リザは状況を確認する。


(広い森じゃないけど、野犬や熊がいるかもしれない。フィオが一緒なら大丈夫だと思ってたけど、一緒じゃなければ危険もある。発見は早い方がいい)


 フィオの様子を確認する。

 怯えたように小さくなり震えている。顔は青ざめ、混乱して思考が定まらないのか、虚ろな表情をしている。こんなに取り乱しているフィオを見たのは初めてのことかもしれない。


(先ずはフィオを落ち着かせよう。混乱してるみたいだけど、今は戦力になってもらわないと)

「フィオ、落ち着いて」


 ゆっくりとフィオの肩に両手を置き、フィオの目を見つめる。縋るようなフィオの瞳に、リザは自分が写り込んでいることが確認できるほど近くまで顔を寄せた。


「落ち着いて、少し深呼吸しよっか」


 フィオの目を見つめながら、すー、はー、と繰り返しリザを落ち着かせる。


「大丈夫?」


 何度か深呼吸を繰り返した後に、リザはフィオに尋ねる。


「……すみません、取り乱してしまって」


 フィオは相変わらず泣きそうな顔をしていたが、少しは気持ちが落ち着いたらしい。


「ううん、こんな時だから、力を貸してね」


 リザはフィオの背中に腕を回し、抱きしめるような格好となる。お互いの胸がぴたりとくっつき、リザもフィオも相手の鼓動がわかるようになる。


「フィオは出口わかるよね?」


 リザは森の中からそれほど深くないところまでなら地図が頭に入っている。いくつかの目印を辿れば出入り口に出ることもできる。それはフィオも同じ。


「はい……」

「うん、いい子だね」


 背中に回していた片腕を頭に移動させ、頭を撫でる。


「だから、フィオは急いでお城まで行って、部長に連絡してくれる?」


 顔の見えないまま、フィオに指示を出す。


「わかりました」

「お願いね」


 顔を離しフィオの顔を確認すると、顔が上気しているのがわかった。少しだけ顔色が戻ったことが確認できたので、リザは一安心する。

「じゃあよろしくね」


 そういって、もう一度フィオの頭を撫でた。





 フィオと別れたあと、再び森の中を走り回る。


「シロ!」


 声をあげ、自分がつけてあげた少女の名前を呼ぶ。


「シロ!聞こえたら応えて!」


 何度も名前を呼ぶ。

 徐々に喉の痛みを感じ始め声が出なくなってきたが、手足の傷と同じく気にしてなどいられない。


(お願い、お願い、無事でいて……)


 汗だくになりながら、何度も同じ道を往復する。

 先ほどから何度も魔術による解決を思考しているが、一つとして有効なアイディアは生まれない。


(宮廷魔術師だなんて偉そうなこと言っても、魔術なんて何の役にもたたないな……)


 自嘲気味な思考で自身の無力さを恨み、先ほどのフィオの泣きそうな顔を思い出す。

 リザも、今自分が同じ顔をしていることを自覚した。


(もし、野犬にでも襲われていたら……)


 最悪の事態を想像する。今朝、甘える様にエプロンを脱がせと無言でせがんだ少女の顔が思い浮かんだ。

 折れそうになる心を必死に奮い立たせ、足を動かし、声をあげる。


「シロ!」


 少しだけ、自分の声が震えていることがわかる。

 徐々に足が上がらなくなってくる。

 それでも止まることができなかった。


(あれ?)


 出口の方に戻っているかもしれないと思い、何度か往復していたリザ。

 何度目かの往復中、先ほど脱ぎ捨てたローブが無くなっていた。


「シロ!」


 近くに居るかもしれないと、声をあげ周囲を見回す。


「……」


 近くから、シロの声がリザの耳に届いたような気がした。


「シロ!どこ!」


 もう一度、渾身の力で声を上げる。

 先ほどまで泣き出しそうに震えていた声は、小さな希望を見出したことで力強く周囲に響いた。


「……ざ」


 今度は先ほどと違い、はっきりとシロの声が届く。


「すぐにいくから、動かないで!」


 リザは聞こえた方に向かい、獣道を外れ藪の中を分け入っていく。


「シロ!」

「りざ?」


 シロの声が近くなっている。

 藪を分け入ることで、手足は今まで以上に傷ついていく。

 ところどころに走る痛みが、今まで以上に大きくなる。

 しかし、足は前に進む。

 草木をかき分けて、進んでいく。

 リザの眼前に、木の幹がなく背の低い草が群生しているような、開けた場所が見えた。

 その手前側の端に、見覚えのあるローブと、銀色の髪。


「シロ!」


 ピクリと頭が動き、こちらに向き直る。


「りざ?」


 いつもと変わらない、シロの表情がそこにはあった。両手には、先ほどリザが脱ぎ捨てたローブを持っている。

 駆け寄ろうと近づいたところでリザは気づく。

 開けた場所の中央付近、異常に興奮した野犬がシロを睨んでいた。

 荒い呼吸で体全体を上下させ、口からは涎が垂れている。

 そして、眼球は大きく見開かれ、紫がかったような色に染まっている。

 その紫の眼球に、リザには見覚えがある。


(……魔獣)


 数年前、学生時代に襲われた存在。

 リザがシロに近づくよりも早く、野犬の魔獣は地を蹴った。


「火攻!」


 リザが叫ぶと、魔獣の目の前で爆発音とともに火の手が一瞬上がる『火攻』の魔術。

 魔獣は左に飛んで躱し、ひるんで足を止める。

 その間にリザはシロの元に駆け寄り、シロと魔獣の間に入る。

 通常の野犬ならば、今の炎に驚きそのまま退散するだろうが、魔獣はその場にとどまりリザとシロを睨めつけている。


(厄介だな……)

「りざ……」

「大丈夫、任せて」


 心配そうなシロの声に、リザは力強く返す。大丈夫という言葉には根拠もある。

 本来は魔獣が発生する様な濃いエーテルに覆われた森ではないが、それでも周囲はエーテルは溢れている。魔術師にとっては戦うには好条件だ。さらにフィオが指示通りに動いてくれていれば、あまり時がかからずとも応援が来る。

 犬は基本的に人間よりも強い。足は人間よりも早く、爪や牙のような武器を装備しているのだから当然の事実でもある。


(けど大丈夫、今回は十分に生き延びるだけの条件は満たしている)


 先ほど違い、今は自分が魔術師であることが喜ばしかった。

 リザは魔獣を見据えたまま、一度深く呼吸をする。


「シロ、少し下がって」

「うん」


 シロはリザの指示通り後ろに下がり、ガサガサという音と共に茂みの中に潜っていく。

 魔獣もそれを追う様に一歩二歩と前に出る様な動きを見せたが、その動きにリザは違和感を覚えた。


(……シロを狙ってる?)

「シロ、少しだけ右に動いてくれる?」

「うん」


 というシロの声が先ほどよりも遠くから聞こえ、もう一度ガサガサという音が聞こえる。

 リザからはシロは見えないが、魔獣がリザから見て少し右に動いた。


(やっぱり……でもなんで?)


 リザには一つだけ思い当たることがあった。


(……もし本当にシロが魔族だったりしたら、そういうこともあり得るのか?)


 魔族に関する情報が少なすぎて完全に当て推量だが、それ以外の心当たりは今のリザにはなかった。

 魔獣から目を離さずに、一方で考察を巡らせるリザ。

 ジリジリと魔獣との距離が縮まる


(さっきは、左に飛んだ)


 魔獣はもう一度地を蹴り、シロのいる茂みのあたりに向かって飛びかかる。


「火攻!」


 もう一度叫ぶと、火の手は再び上がる。

 魔獣はリザの声に反応し、再度左に飛んで躱そうするが、躱した先で火の手は上がった。

 爆発と炎が直撃した魔獣は、音にならない叫び声をあげ、踵を返し茂みの奥に消えていった。

 それを確認し、リザは大きく息をついた。

 何度か肩での呼吸をしたあと、シロに声をかける。


「シロ、出たおいで」


 茂みをかき分けて、シロが顔をだす。


「平気?」

「……うん」


 シロの返事に、リザはふっと安心した様にため息を漏らし、ぽんと銀色の髪の頭頂部に手を乗せた。

 微笑むリザだが、シロは沈鬱な表情でリザの足のあたりを見つめる。


「どした?」

「いたい?」


 傷だらけの足には、何箇所か血が滲んていた。


「こうすると、いたくなくなる」


 シロはリザの足に手を当てる。

 何かのおまじないだろうかとリザは思ったが、不思議と痛みが引いていくような心地がした。


「どう?」

「ありがとう、良くなった、かな?」


 もちろんまだ痛みはあったが、最悪のシナリオを避けられた安堵感が大きく上回った。


「シロが無事でよかった」


 そう笑って、リザはシロを抱き寄せる。


「りざ、ごめんなさい」

「こっちこそ、危ない目に合わせてごめんね」


 合わせた胸でシロの鼓動が感じられたことを、リザは嬉しく思った。


「せんぱい!」


 しばらくシロに抱きついていると、フィオが到着した。

 フィオの顔を見たとき、リザは大きな安堵感とともに、奇妙な違和感を覚えた。


(……シロが魔獣に狙われた?)


 先ほどの魔獣の挙動を思い出すと、明らかにシロの動きに合わせ魔獣が動いていた。


(……なんでだ?)


 フィオとともに、この森には何度も足を運んでいるが、この森では一度も魔獣なんて見たことはない。エーテルの含有量もいつもと変わらない。危険な目にあったこともない。


(たまたまシロを連れている時に、シロだけが襲われた?)


 昨夜の不安が頭をよぎる。


(もしかして、考えられないけれど、本当に、シロは……魔族?)


 そんな疑念が、リザの中で生まれた。







 その日の夜、リザは昨晩と同じようにメイリープ家のベッドの中にシロと二人で入っていた。すでに灯は消され、窓からの月明かりのみが唯一の光源だった。

 シロは疲れからかすでに眠ってしまっていたが、リザは眠れず今日の疑念をひとり悶々と頭の中で捏ねくり回していた。


(……でも、おかしなところはないんだよね)


 フィオは帰宅後にすぐに寝てしまい、今日は二人で風呂に入った。その時にリザはじっくりとシロの体を観察したが、特に人間の子どもとの差異を感じることはできなかった。『計測』の魔術をシロの体内エーテルを対象に行ってみたが、特別多いとか少ないとかいったこともなかった。

 リザにはシロが普通の少女にしか見えなかった。


(でも昨日の事と今日の事を考えると、普通じゃない)


 昨日シロに出会った時シロは中空に浮きながら、常人では考えられないほどの魔術を披露したことがひとつ。今日危険の少ないはずの森で、魔獣がシロだけに襲いかかったことがひとつ。この二つの出来事がシロの異常性を指し示している。


(昨日の出来事は、エーテルさえ潤沢にあれば人間にも可能だと思う。実際シロも魔術を使った後はエーテル中毒のようにぐったりしてたし。まああの場にエーテルは潤沢には無かったんだけど……)


 ベッドの中で首だけ動かし、隣で小さく寝息を立てるシロの顔を見る。


(……かわいいな)


 綺麗な銀色の髪は、今日はリザが洗った。石鹸の匂いがしている。


(今日の出来事はよくわからないな。少なくとも私が知っているおとぎ話では、魔獣は魔族の下僕だったはずだけど、もしかして魔族が魔獣に襲われたりする話もあったりするの?おとぎ話の研究は民俗学とかそっち方面だと思うけど、知り合いにはいないなぁ……)


 おとぎ話を調査する必要があるだろうかと、本気で悩み始めるリザ。


(……正直、なんにもわからん。色々想像するのは楽しいけど)


 ふっと、リザは小さくため息をつく。


(もしシロが本当に魔族だったら、この先、辛い目にあったりするのかな……)


 自分はそれに気付いてあげられるだろうか、最後まで守ってあげられるだろうか、そんな懊悩がリザの内を巡る。

 考えても答えの出ない問いに悩んでいるうちに夜は更け、リザもいつの間にか深い睡眠に落ちていった。

 その頃から、外では雨が溢れ始めた。







 フィオの自室は客間と作りはほぼ同じだが、客間よりもやや広く、ベッドにも天蓋がついているという豪奢なものだった。


「体調はどう?」

「……すみません」


 布団越しにくぐもった声が部屋に響くが、すぐに雨音にかき消される。

 翌日、朝からフィオが体調不良をリザに訴えた。ベッドから起きられず、顔を見せたく無いのか頭まで布団を被っていた。フィオの部屋にて、リザとシロの二人でフィオのベッドの側で彼女の体調を慮っている。


「ふぃお……」

「……ごめんね、シロちゃん」


 体調不良というよりは精神的なものかもしれないとリザは感じた。昨日の出来事が相当堪えたのかもしれないな、とも。


「フィオ、今日は部長が休みをくれてるから、何かあったら遠慮なく言って」


 昨日、事件後に広域機動対策部に戻った三人。その時にクレアからリザとフィオに休暇取得の命令が下った。リザは昨日は気づかなかったが、クレアにはフィオの不調が見えていたのかもしれないと、リザはクレアに感謝した。


「……すみません、すみません」


 布団越しのくぐもった声には、すすり泣くような掠れた音が混じっている。いつもの明るく楽しそうな雰囲気のフィオが、こんな調子になってしまったことがリザには堪えた。


「謝らなくていいから、今日はゆっくり休んで」

「……はい、すいません」


 その言葉を聞いて、リザはシロを連れて部屋を後にしようとシロの肩に手を乗せる。が、シロは動こうとしない。


「シロ、行こっか」

「……もうすこしここにいたい」


 シロの言葉に、リザも戸惑ってしまう。シロは素直な子で、リザは自分のいうことを聞いてくれると思っていた。


「……ここに居ると、フィオが疲れちゃうからね」


 ゆっくりとシロがリザに向き直る。あまり感情が顔にでないシロが、とても悲しそうな顔をしていたのが、リザには印象的に映った。


「……うん」


 シロが頷き、二人で部屋を後にする。

 屋敷の外は、色々な音をかき消すように雨音が響いていた。





 外では秋雨が降りしきる。客間に戻ったリザは、いつもの部屋着だけでは肌寒く感じ、自分の持ち込んだキャリーバッグの中にあったニットのセーターをベッドに座っているシロに被せた。


「寒くない?」

「……へいき」


 シロは随分と落ち込んだ様子で、自分の足のつま先を見ている。


(フィオは、もう、シロの味方になってはくれないだろうか……)


 先ほどのフィオの様子を見てそう感じていた。

 約十年前、リザとフィオがまだ学生の頃に魔獣に襲われたことがある。学院の校外学習の一環として、当時も今回のような森に出かけた。当時は学院の側の、今回よりもずっとエーテルの多い危険な森ではあったが、何人かの教師たちも少し離れたところには居た。

 リザとフィオは学院での姉妹関係にあたり、何かあれば妹分のフィオの面倒を見ていた。その日の校外学習も共に行動しており、少し他の生徒や教師たちから離れた際に一緒に魔獣に襲われた。


(あの時は熊だったな……)


 紫色の瞳をした熊に遭遇した瞬間を思い出す。死を覚悟せざるを得ない場面だったが、たまたま教師が近くにいたこともあり、なんとか二人は無事だった。

 それ以来、フィオは魔獣の研究をするようになったのだが、ある種のトラウマになってしまったのだろうとリザは考えていた。恐怖の対象である魔獣を研究することで、彼女なりのトラウマの克服を行なっていたのではないかと、そう考えていた。

 しかし昨日シロがいなくなり、フィオは激しく動揺していた。


(あの時の恐怖が、戻ったのかな……)


 リザがベッド脇のロッキングチェアに腰掛けると、シロはベッドから降りてリザの膝の上に乗った。リザの目線から、銀色の頭のつむじが真下に見える。


(もしそうだとしたら、シロのことがというより、シロと一緒にいることが怖くなってもおかしくないよね)


 シロの存在が魔獣を呼び寄せたのだとしたら、そうフィオが考えているのだとしたら、フィオにとってシロは畏怖の対象となった筈だ。そうなれば、フィオはシロから離れてしまうだろう。そうなってしまうことが、リザにとっては悩ましかった。


(フィオがいなくなるのか……)


 学生時代から十年以上そばにいた少女が離れてしまうことを想像すると、リザにとってフィオがどれほど掛け替えのない存在かが浮き彫りになった。


(……もしフィオのそばを離れなくちゃいけないとなったら、どうすれば良いんだろう)


 掛け替えのない存在であるフィオ。

 もし、フィオがシロから離れることを選択したら、リザ自身はどうすれば良いのか。

 ふっと鼻からため息をつくと、つむじに吐息があたったらしく、シロが身をくねらせ、


「んー」


 と、どこか不快そうな声を漏らす。


(同じ境遇だから同情してるだけだと思ってたけど、この子自身のことが、結構好きなんだよね……)


 自分の気持ちを改めて確認し、リザはぽんとシロの頭に手を乗せる。

 それだけに、余計に悩みが深くなっている。

 フィオのこともシロのことも、どちらもリザには大切だった。

 ふーと、今度は口からため息を付いた。


(……シロもフィオのことが気に入ってるし、何かできることはないかなぁ)


 フィオとシロ、双方にとって良い方向になる様なアイデアがないだろうかと考えるが、答えは出ない。


(私も、多分シロも、フィオにはそばにいて欲しいけど、フィオが嫌がるのなら仕方ない、のかなぁ……。何か、良い方向に持っていく方法はないだろうか)


 どれだけ悩んでも、答えは出ない。リザは考えることを一旦諦めて、サイドチェストにある読みかけの論文を手に取った。


「なんのかみ?」


 シロに尋ねられ、論文の題名を読み上げる。


「『魔獣の人工的な生成に関する調査と報告』だって」


 かつてフィオが研究していたテーマに合致する内容だ。だからこそこの家の書庫に眠っていたのだろう。

 内容は通常の動物にエーテルを過剰に注入することによって、魔獣が人為的に生成可能かという内容だった。リザの興味としては、動物にエーテルを注入することで動物の怪我が治癒したという点に関する記述だった。


(回復魔術に応用できる、かなぁ……うーん、人間も魔獣みたいになったりするんだとしたら、倫理的に許されないよなぁ)


 シロは興味をなくしたのか、リザの膝から降りるとベッドに潜り込んだ。

 外ではまだ、雨音が続いている。







「今日はさ、三人で街へ買い出しに行かない?」


 翌日、昨日とは打って変わって快晴だった。リザとシロ、そして起き上がってきたフィオの三人での朝食中、リザは提案した。今日はもともと閉庁日で、リザもフィオも仕事はお休み。


「ほら、石鹸とか歯ブラシとか欲しいしさ、三人で街まで買い出しに行こうよ」


 リザの提案は、フィオの気持ちを案じてのことだ。昨日は結局一日中ベッドで過ごしており、今日はなんとか起き上がってきた様だが顔色は優れない。何かフィオのためにできる事はないだろうかと、考えた上での提案だった。


「……まち?」


 こくん、と食べかけだったパンを飲み込んでシロがリザに尋ねる。


「そ、楽しいよ。シロは行きたいところある?」

「けーきたべてみたい」


 数日前のクレアの言葉を覚えていたのか、シロはそんな要望をだした。


「いいね。そういえばさ、中央広場の東側の通りにケーキとシュークリームが評判の喫茶店があるんだよ、行ってみよっか」


 リザは、ちらりとフィオに視線を送る。


「……私はいいので、お二人で行ってきてください」


 しかしフィオの反応は、リザの期待してものではなかった。


「あー、そう?」

「ええ、私は待ってますから……」

「……そっか」


 力無く笑うフィオに、リザは気落ちするが、できるだけ顔には出さない様にする。

 シロの様子を伺うと、こちらもフィオの反応に悄然とした様子だった。それを気遣ってリザが声をかける。


「……あー、じゃあさ、シロ、二人で行く?」

「いかない、ふぃおといる」


 気落ちしたようなシロの様子は変わらない。普段はあまり感情を顔に出さないが、今は落胆し眉尻を下げて下を向いている。

 沈黙が、三人の間に落ちる。間に入るような雨音も、今日は存在しない。

 しばしの沈黙の後、


「あー、その」


 と声をあげたフィオに、リザとシロが注目する。


「急に、その、ケーキが食べたくなってきました。やっぱり三人で行きたいです!」


 シロの顔が、みるみるうちに明るくなる。


「ふぃお、いいの?」

「いいよー、シロちゃんとケーキ食べにいきたくなってきたからねー」


 楽しそうにフィオは笑う。


「それにせんぱいお金ないじゃ無いですか。あそこのケーキ結構いい値段しますよ?」

「そーなの?」

「ええ、なんで今日は私が出しますね」

「いやいや、後輩に奢ってもらうわけには……」


 フィオはくすくすと明るく笑う。


「今更そんなこと言ってるんですか?後輩の家に居候してるくせに」

「りざはいそうろうなの?」

「そだよー」


 とシロに向かって微笑むフィオ。


「ね、せんぱい?だから今日は私が奢りますね」

「……すいません」


 あはは、と笑うフィオ。


「じゃあ天気もいいし、洗濯したらいきましょうか」

「うん」


 といつもの無表情だが、どこかシロは楽しそうに返事をした。





 抜ける様な快晴の中、住宅街から商店街に向かい三人は並んで歩く。

 メイリープ家の別荘から東に少し歩くと商店街があり、商店街をまっすぐ抜けるとリザとフィオがよく昼食をとる広場へと抜けることができる。

 休暇ということもあり、本日は三人ともローブは来ていない。

 リザは襟付きの白のシャツの上から焦茶色のニットセーターをかぶり、下はくるぶし丈の細身の黒のパンツ。髪はニットの大き目な黒のキャスケットの中にしまっている。

 フィオはくるぶし丈の白のワンピースにカーキ色の大きめなカーディガンを羽織っている。美しい黄金色の髪は、風に遊ばせるようにまっすぐに垂らし、耳のやや上あたりに小さな白い百合の髪飾りを控えめにつけている。

 シロはシロで、大きめの黒のタートルネックのセーターをワンピースのように被っている。タートルネックの部分でマフラーの様に口元が隠れている。セーターの下には白い厚手のタイツを身につけている。頭の銀色の髪は、フィオがいつもしているように一纏めにされ、肩の前に垂れがっていた。

 三者三様の格好で、商店街を歩く。

 その日最初に顔を出したのは、商店街の中ほどにある雑貨屋だった。

 ファンシーな装飾と白や淡い朱色などの明るい色を基調とした店構えは、商店街の中にあってはかなり浮いていおり、ぱっと見は何の商売をしているのかわからない。

 からんからんと音を立てて入り口をくぐる。店内には所狭しと棚が置かれ、棚の間は人が一人通るのがやっとといった狭さだった。至る所にスプーンやティーカップ、木製のバケットやコルク栓のされている広口壜などの日用雑貨に溢れている。中には何に使うのかわからないようなカラフルな小物まで多数存在した。


「いらしゃいなー」


 帽子の左右に垂れ下がっている丸い装飾を揺らしながら、カウンターの奥から一人の女性が顔を覗かせる。フィオよりも背が低い、ファンシーな格好の女性の店主が挨拶をした。


「こんにちは、カノンさん」


 とフィオが挨拶をすると、


「おー、メイリープさんちのフィオラリアお嬢様ではないですかー」

「そうですよー、カノンさんは相変わらず素敵な格好ですね」

「あはは、さすがに貴族のお嬢様となると見る目が肥えてますねー」


 とても貴族のお嬢様と街の日用雑貨屋の店主のやりとりには見えず、リザは思わず吹き出してしまう。


「おや、後ろにおわす笑顔が素敵なお嬢様は、かの高名なリザ博士ではー?」

「カノンさん、こんにちは」


 リザも何度かあったことのある店主に挨拶をした。日用雑貨の類はこの店が最も品揃えが良いと評判で、リザはリザで何度かこの店に足を運んだことがある。


「お二人一緒とは珍しいですねー、もしやご成婚なされたとかですかー」

「いやいや、違いますよ」


 と苦笑まじりにリザは否定する。クレアよりも話しづらい相手はなかなか居ないが、ここの店主はクレア以上に話しづらく、それがリザにはなんだか可笑しくて笑ってしまう。


「今日はこの子の歯ブラシと、石鹸を買いに来たんですけど」


 笑顔のままそう言って、リザはカノンに見えるようにシロを両手で抱えて持ち上げた。

 シロは初めてみる相手に戸惑っているようで、リザとフィオの顔を交互に見上げていた。


「おや、可愛らしいー。お二人のお子ですねー?目元はお母さんそっくりですけど、耳の形はお母さんに瓜二つですねー」

「違いますって」


 もう一度苦笑しながら否定するリザ。シロの目元がどっちに似ているかはちょっと気になったがそのまま流すことにした。


「ちょっと預かることになった子なんですよ」


 リザの口からとっさに出た言葉は、まあ嘘ではない。


「なるほどなるほどー、歯ブラシはそちらですから、ごゆっくりどうぞー」


 そう言ってカノンは左手の棚を指差す。棚がありすぎて正確な位置はわからなかったが、リザは、


「ありがとうございます」


 とカノンにお礼を言った。

 リザはシロを抱えたまま、指さされた棚の方へ移動しようとしたが、前にいたフィオが動こうとしない。


「フィオ?」


 不思議に思ったリザがフィオに声をかけると、フィオは振り向きどこかのぼせたような顔でリザに尋ねた。


「あの、私たち、結婚しているように見えるんですかね?」

「……見えないと思うよ」


 リザは冷静に、フィオの疑問に回答した。





 木製の歯ブラシと石鹸を購入したあと、三人はそのまま商店街をしばらく歩く。雲ひとつない快晴で、ここ数日の寒さが嘘の様な暖かさ。

 しばらく歩き商店街の端までつくと、そこにあったパン屋が本日二件目の目的地。

 ログハウスのような暖かみのある外観で、入り口横には小さなイートインスペースがある。窓には『看板娘募集!』と求人情報が書かれた紙がはためいている。

 近くにいるだけであふれてくる芳ばしい香りは、三人が入り口のドアを開けると一層強くなった。内部は正面の大きな窓から光が注ぎ、壁際の木製の棚にはクロワッサンやベーグルが並んでいる。


「お、いらっしゃい」


 パンを並べていた白いエプロンを付けた初老のやや肥えた男性が三人に声をかける。


「店長さん、こんにちは」


 フィオは片手をあげて挨拶をする。

 リザもフィオも、外でランチを摂るときにはこのパン屋をよく使っている。店長とも顔なじみだ。


「二人とも、いつもありがとうね」

「いえいえ、ここのパンは美味しいのでー」


 そうフィオが返すと、店長は満面の笑顔を作る。


「いやーそれだけじゃなくてさ、最近よくここらでネズミ駆除してくれてるだろ?結構効果が出てるって商店街のみんなが言ってるよ」


 意外な感謝の言葉にリザもフィオも顔を見合わせる。効果が上がっているのは知っていたが、直接お礼を言われるとは思っていなかった。


「それは何よりです」


 リザが返答すると、店長は頷いた。


「まあ今日はゆっくり選んでいって」


 そういうと、店長はパンを並べる作業に戻った。

 意外な出来事に驚きつつも、感謝の言葉をもらいリザは嬉しくなってしまう。フィオの顔を見ると、フィオも満更でもなさそうだった。


「あはは、嬉しいですね」


 と、フィオは呟く。

 どこかふわふわとした心持ちで、店内の商品を見回すリザとフィオ。本当はいつもの朝夕に食べるバゲットを買いに来ただけなのだが、お礼を言われたのが嬉しくてつい見て回ってしまった。


「いいにおい」


 二人の間にいたシロが呟く。


「いつも食べてるパンはここで買ってるんだよ」


 とフィオはシロに解説している。


「シロちゃんもパン好きだよね」

「うん」


 シロが頷くと、いまの会話を聞いていたのか、店長がシロに声をかけた。


「ありがとうね」


 声をかけられたシロはキョロキョロと視線を迷わせてフィオを見上げる。フィオはシロに向かって微笑むと、


「シロちゃん、ありがとうって言われたよ?」


 と、シロに返事を促した。

 シロは特に表情を変えないまま、男性を見遣る。


「えーと、『くるしゅうない』?」

「いや、違うから」


 リザが否定すると、男性は破顔する。


「『こちらこそ、ありがとう』?」

「そうだねー、いつもありがとうございます」


 そう言って、フィオが頭を下げると、続けてリザとシロも頭を下げた。男性も頭を下げて礼を口にした。


「よく出来ました」


 フィオはそう言ってシロの頭を撫でた。

 普段あまり表情を変えることのないシロだが、この時は珍しく目を細めて心地よさそうに笑っていた。





 リザがパンの入った紙袋を小脇に抱え、シロを中心に三人で手を繋ぎながら商店街を抜ける。王都中央の広場に出ると、そのまま東の通りに入っていく。次の目的地は、朝食時にリザが話題に出したケーキとシュークリームが話題という喫茶店。


「でもせんぱい、よくあのお店知ってましたね?」


 あまりスイーツに縁が無いリザから話が出た事を、フィオは不思議に思い尋ねた。


「部長から聞いたんだよ」

「あー、部長は甘いもの好きですもんねー」


 フィオはクレアが職務中にクッキーをつまんでいる姿を何度も見たことがあり、クレア本人も甘い物好きを公言している。


「ぶちょうってだれ?」


 シロは小首を傾げ、先程から二人が口にしている人物の代名詞を口にする。


「シロも会ったことあるでしょ?クレア部長」


 シロは思い当たったのか、おー、と相槌を打った。


「くれあしってる、けーきになまえかくひと」

「おー、シロちゃんよく覚えてるねー」


 シロの覚え方が可笑しかったのか、リザは声を殺して笑っている。


「くれあはなんでぶちょう?」

「なんで……なんですかね?研究寄りの人じゃないですよね?」

「んー、よく知らないけど、昔はかなり強かったって聞いたことあるような……」


 シロの疑問の答えは、リザもフィオも知らなかった。

 そんな取り留めのない会話を繰り返しながら、三人は手を繋いだまま歩いていると白を基調とした喫茶店が視界に入った。


「お、あそこ?」

「そーですよー、結構混んでますけど、今ちょうど団体で出てきましたね」


 ついてますね、とフィオはリザの顔を見ながら嬉しそうに笑った。





 コーヒーの香りが店内に漂い、親子連れや男女のペアが楽しそうに話しを弾ませている。店舗正面の窓からは日光が差し込んでおり、頭上には魔術灯の光が揺れていた。

 窓際の円形のテーブル席に通された三人は、メニューの書かれた三枚綴りになっている木材紙を見ながら話し合っていた。


「せんぱいなに食べます?」

「……私は、飲み物だけでいいや。二人は好きなもの頼んでいいよ」


 そう言いながら、フィオにメニュー表を渡す。

 すでに陽は高くなっており、つまり朝食を採ってからはもう随分時間が経っている。一瞬だけ何かを躊躇うようなリザの表情をフィオは見逃さなかった。


「せんぱい、奢りますよ?」

「いや、それは、プライドもあるし……」

「せっかく三人で来たのに、みんなで楽しめない方が嫌ですよ」

「……ごめん」


 うぅ……とリザは小さく呻く。タイミングよく、空腹を訴えるようにリザのお腹が鳴った。


「けーきたべたい」


 シロは変わらず無表情で、ふらふらと足を揺らしている。


「わかる、私も食べたい」


 フィオは楽しそうに同意する。


「フルーツのタルト美味しそうですね、私はこれにしようかな……、シロちゃんどうする?」


 フィオはメニュー表をシロに渡す。


「よめない」

「そっかー、これが『王都の四季を彩るフルーツ、瑞々しさと揺れる光のタルト』、これは『涙色の紅茶、その柔らかな心のシフォン、純白を願う生クリームを添えて』、これは『はつこいの日、あなたに届けた気持ちとフィナンシェ。苦い思い出のマドレーヌとともに』、えーっと次が……」


 フィオはメニュー表を指差しながら、一つ一つシロに読み上げていく。が、説明されている方のシロは頭に疑問符を付けている。


「よくわかんない」

「……だよね、私も良くわかんないし」


 今度はリザがシロに同意する。


「まあ確かに独特のメニュー名ですけど……」


 シロはフィオを見上げる。


「ふぃおえらんで」

「……そう?」

「うん、えらんでほしい」


 うーん……と、顎に手を当てるフィオ。


「じゃあザッハトルテかなぁ、生クリームが付いてるみたいね」


 フィオはメニュー表の『陽は沈み、世界に闇は満ちて。禍時に輝黒のザッハトルテと、望白の生クリーム』を指差す。


「じゃあそれがいい」


 シロはこくこくと頷いて、フィオが指差している『陽は沈み、世界に闇は満ちて。禍時に輝黒のザッハトルテと、望白の生クリーム』を一緒に指差した。

「せんぱいはどうします?」


 フィオが持っていたメニュー表を、今度はリザに見えるようにテーブルの中央にリザの方を向けて置く。


「うーん、やっぱり私は……」


 リザはやたら長いメニュー名よりも、その横に書かれている値段の方が気になっていた。先に注文した飲み物の料金と合わせると、ひとり千五百円(日本円換算)は超える。お金の無いリザに対してフィオは奢ると言ったが、やはり先輩として、自身の飲食費くらいは出したいというプライドが邪魔をする。


「……せんぱい、私シフォンも食べたいんですよね」


 プライドと食欲の間で懊悩するリザに対し、フィオ微笑みながら声をかける。


「でも、タルトも食べたいので、半分ずつ食べてもらってもいいですか?」

「……あの、フィオさん、ありがとぅ」


 再度小声で呻くリザに、


「『こちらこそ、ありがとう』、です」


 先ほどパン屋でのシロの口調を真似て、フィオはお礼を口にした。





「あ、来ましたよ」


 メニューを決めて少しあと、三人のかけてるテーブルに、襟付きのブラウスと灰色のベスト、腰から下にエプロンを巻いた男性の店員が近づいてくる。


「コーヒーです。お待たせしました」

「ありがとうございますー」


 フィオとリザが頼んだコーヒーがテーブルに到着し、フィオがお礼を口にする。

 その時に、店員がテーブルにコーヒーを置こうとソーサーを持ち座げた瞬間、力の入れどころを誤ったのかカップがトレイの中で倒れてしまう。トレイの中はこぼれたコーヒーが溢れ、一番近くにいたフィオの右肘のあたりにかかってしまう。


「わ!」

「だ、大丈夫ですか!?申し訳ありません!」


 とっさに謝罪の言葉を口にしフィオの、コーヒーのかかったカーディガンの右肘のあたりを確認する。カーディガンにははっきりと黒いシミが出来ており、店員は顔を青くしている。


「フィオ、大丈夫!?」


 リザも驚きながらフィオの様子を確認するが、フィオはゆっくりとカーディガンを脱いでいる。右肘のあたりが僅かに赤くなっている。


「んー、大丈夫そうですね」

「ほ、ホントに?」


 フィオはリザに向けてひらひらと手を振る。


「大変申し訳ございません!弁償いたしますので!」

「いえいえ、安物ですからー」


 リザに向けていた手を、フィオは今度は店員に向けてひらひらと振る。


「それより二人は大丈夫ですか?」

「私は平気だけど、シロは?」

「へいき」


 リザとフィオ、そして店員の注目を浴びながら、いつもの無表情でシロは答えた。とりあえず火傷などは無さそうだとリザは胸をなで下ろす。


「大変申し訳ございませんでした、ただいま替えをお持ちいたしますので……」


 店員はいまだに顔を青くしている。カウンターの奥からは、控えていたのか初老の男性店員が慌てて駆け寄ってくる。


「申し訳ございません!汚してしまったお召し物は代金をお支払いいたしますので」


 駆け寄るなり頭を下げる初老の店員。店長と書かれた名札を腰に下げていることにリザは気づいた。


「あはは、良いですよー」

「ですが……」


 やたらと腰の低い態度は、もしかしたらフィオのことを知っているのかも知れないなとリザは感じた。メイリープ家といえば、大陸南方に広大な領地を任せられている名門だ。その一人娘に粗相があったとしては、店員としても必死だろう。

 もしそうでなくても、単純に金髪碧眼といえば良家の血筋を表すわかりやすい目印となっているので、そちらを気にかけているのかも知れない。


「うーん、確かに私は貴族の親族筋なんで、変な噂になっちゃうんでお金とか受け取るわけにはいかないんですよね」


 必死に平謝りを繰り返す店員に、フィオも困ったように笑っている。

 騒がしかった周囲の客が、先ほどから静かになっているのは、もしかしたらこちらに注目しているのかもしれない。

 困り果てたフィオが、じゃあこうしましょうかといって提案した。

 フィオが小さく息を吸う。

 纏う空気感が、近寄りがたいもの変わる。

 スイッチが切り替わった様に、フィオの雰囲気が変わったことがリザにはわかった。


「これは本当に安物ですわ。値段はここのコーヒーの一杯分ですの」


 優美さを帯びたフィオの声音が、静かな店内に響く。


「ですから、代金といたしまして、こぼしてしまったコーヒーのおかわりを頂けませんか?」

「ええと……」


 貴族のお嬢様が着ている服がコーヒーの一杯分のはずが無いと店員も困惑しているが、


「それ以上していただいても、こちらとしても困ってしまいますわ」


 フィオは優雅に微笑む。それは間違いなく貴族の令嬢そのものだった。

 困惑していた店員も、その雰囲気の変化に呆気にとられ、


「あ、えーっと、はい、承知いたしました。失礼いたします」


 と頭を下げて慌てて下がる。

 二人の店員が去った後、フィオは疲れた様にもう一度ため息をついた。

 スイッチが戻ったのだと、リザは感じる。


「いやー、疲れますね」


 つい数瞬前に見せた優美で近寄りがたい笑顔とは真逆の、人当たりの良さそうな笑顔。


「はー」


 フィオの行動に、リザは感心してため息をつく。


「初めてあんな貴族っぽいとこ見たかも」

「ほんとは嫌なんですけどね。まあ今回はあれ以上続けてもお互い不幸になるだけでしたからねー」


 軽い感じで語りながら、フィオは苦笑いした。


「この名前は好きじゃないですけど、使えるものは使わないと」


 フィオは貴族としての自覚が無さすぎると言われていることをよく耳にすることがあるが、フィオ自身も貴族の様に振る舞うのを嫌がっているふしがある。

 それでもスイッチを切り替え、見事に振舞ってみせたフィオにリザは感心していた。

 フィオの手慣れた振る舞いに、リザはもしかしたら自分の知らないところではよくあることなのではないかと推察する。その度に、今回の様に周囲の人間のために、自分ではない誰かを演じているフィオが容易に想像できた。

 その心労は如何程のものか、リザには測れなかった。


「改めて思うけど、フィオってめちゃくちゃ良い子だよね」


 リザは自分の考えを素直にフィオに伝える。


『そうですよ?』と笑うフィオを予想していたが、

「……そんなことないですよ、本当に」


 フィオの反応は予想外だった。


「ちなみに、それ本当はいくらなの?」

「千九百八十円ですね」


 フィオは楽しそうにくすくすと笑う。







 陽は傾いて、街全体が夕焼けに染まる。その様子が、王都東地区の小高い広場からは一望出来た。


「……いいですね、こういうの」


 隣に立つフィオが呟く。

 買い物や食事など、一通りの予定を終わらせた後、三人はこの広場に出ることにした。位置的には王都城下町の南東部にあたる。小高い丘の上に小さな広場のように赤い煉瓦が敷き詰められており、中央には噴水のある立派な広場となっている。


「今日はありがとうございました。楽しかったです。お金も、結局せんぱいに出して貰っちゃいましたね」

「いいの、今日は私が誘ったからね」


 にっこりと笑顔を作るリザ。

 結局、色々あったが最終的に喫茶店で支払ったのはリザとなった。内心では泣きそうになっているが、先輩としての矜持だけはなんとか保つことが出来た、とリザは思っている。

 少し離れた噴水を興味深そうに覗いていたシロが、こちらを振り向き手を振った。つられて二人で手を振るとシロは何かに納得したのか頷いて、再び噴水を興味深そうに覗き始めた。


「今日は、私が元気が無かったから誘ってくれたんですよね?」


 フィオは嬉しそうに上目遣いで尋ねる。


「あー、まあ、私だけじゃフィオを連れ出せなかったけどね」


 リザは先ほどから監視している、少し離れたところで遊ぶ銀色の髪の少女を見遣り、今朝の出来事を思い出す。普段あまり感情を出さないシロが、フィオと出かけられないことを悲しむ表情がリザには印象的だった。


「シロちゃん、良い子ですよね」

「……うん」


 フィオの意味深長な言葉に、額面通りに受け取り頷くしか出来ないリザ。昨日の懸念が頭を過ぎった。

 フィオはもう、もしかしたらシロと関わりを持ちたく無いのでは無いだろうかという、強い懸念。

 リザはフィオの次の言葉を聞くのが少しだけ怖かった。リザの覚悟を待つかのように、幾許かの沈黙の後にフィオは口を開く。


「……私はシロちゃん好きです」

「え……」


 その言葉が、リザにとってはすごく意外な言葉で思わず聞き返してしまう。


「それは、えっと、どういう意味?」

「んっと?」


 聞き方が良くなかったのかフィオはぽかんとした、と思ったら急に胸の前で右手を左右に振った。


「いや、違いますよ!?私ロリコンとかじゃないですから!!」

「え?え?どゆこと?」


 フィオの言葉に、今度はリザが動揺する。


「いや、だってせんぱいが変なこと聞くからじゃないですか!」

「あ、あー。違う違う!そういう意味じゃなくて!」


 ことここに来て、見事に会話が噛み合っていないことにリザも気付く。


「フィオがシロのこと好きっていうから、もしかしたらって思って!」

「もしかしたらってなんですか!?私はシロちゃんがいい子だなって思ってるだけです!」

「いや、そう!そういうことが聞きたかったの!」


 側から見るとまるで意味不明のやりとりを大声でしていると、噴水から大きな水音が聞こえた。

 嫌な予感がして二人が噴水を見ると、そこに居たはずのシロの姿が見えない。先程までシロがいたあたりには、水が跳ねたように濡れている。


「シロが落ちた!」

「シロちゃん!」


 二人で噴水に駆け寄ると、全身ずぶ濡れのシロが浅い噴水に足をつけて立ち上がる。

 シロは駆け寄ってきた二人を見上げ、


「おちた」


 と、ずぶ濡れのまま妙に冷静な口調で状況を説明する。


「いや、知ってるけど、大丈夫か?」

「シロちゃん、痛いとこない?」


 ふるふると横に首を振るシロ。


「よかった」


 そう呟いて胸をなで下ろすと、フィオは濡れたシロの身体を抱き抱えるように持ち上げて救出する。

 濡れたシロを抱えたことで、フィオの着ていた白いワンピースも濡れてしまっているのだが、フィオは気にした様子もなくシロの髪をハンカチで拭っている。


「ふぃお、ありがとう」

「どういたしまして」


 夕陽に照らされ、橙色に染まった頬を緩ませながら微笑むフィオ。

 その様子に、リザは先程まで頭の中にあった懸念がスッと消えていくような心地がした。

 フィオがそばに居てくれることが、とても心強かった。


「せんぱい、もう帰りましょう。シロちゃん濡れたままにできないし」

「うん、帰ってまたお風呂入ろうね」


 フィオが心配そうに提案したが、リザの声は弾んでいた。


「……?」


 楽しそうなリザにフィオは不思議そうな顔を作った。




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