第2話

「アイサ……いや、千里」

 初老の男性がそう呼ぶと、10代半ばの少女が振り返った。年頃にしては飾り気のないシャツとズボンの上に、深緑色の上着を羽織っている。

「もういいんじゃないか?」

 男性がそう言った先には飯盒があり、火にかけられたそれは黒い煙を出していた。少女が慌ててぬれた布巾で火からおろし、ふたを取る。米は見事に焦げていた。

「どうした、千里らしくないな。朔ならやりかねないが」

 責めるどころかおどけた口調に千里はくすりとする。

「ほんと、でも朔って誰に似たんでしょう。――やっぱりけ……リウでしょうか。雑ですし」

 二人は少し離れたところで遊んでいる男の子を見ていたが、男性はうなだれた。

「……すまなかったな、思い出させてしまって」

「いえ。櫻児さんが気にすることではないですよ。もう戻る事もないんですから」

 笑みを消した千里は炎に目を落とす。

「……千里は悪くないのにな」

 千里は答えなかった。ただ炎を見たまま、複雑な顔をした。


 あそこにいたころ、いつもなにかに追われていた。呼吸することが苦しかった。消えたかった。溶けてしまいたかった。

 そんなときは空を見た。上を見ると、いつだって雲はゆっくり流れていた。その流れと対比して、自分がどれだけ急いでいたか分かる。空を見ることは、どうかすると忘れてしまいそうで――。

「おーい。風無いるか?」

 その言葉で風無は我に返った。やや高めの声の先には一人の少年がいる。

 長袖長ズボンに手袋。ベルト通しには、風満と同じような茶色い紐。服装だけ見ると、風無の基準で普通の人だ。無造作にはねている髪の少年は、風無の自炊の跡に目をやる。

「おい、火消えてる。ちゃんと見ないと。つけるの大変だろ?」

 屈託無く世話を焼く少年に、風無は飲み込まれ口を挟めない。マッチを使ったので、火はほんの1、2分でついたのだが。

「――それにしてもこの金物実用的じゃないな。全然材料入らねえじゃん。しかも薄いし。なにでどう作ったんだ?」

 風無はスチール缶を真剣に観察しはじめた少年を唖然としてみていた。

「あ、あの……」

 遠慮がちの呼びかけで少年は我に返る。

「あ、そうそう。いろいろ持ってきたんだ。忘れるとこだったー。他にいる物あるか?」

 少年が出したものは、火打ち石、木製のさじ、干し肉。ここにもやはり風無の暮らしとはかけ離れた物体ばかりが出てくる。自然製品だけで自活しているのか?聞きたいことは山ほどある。が、風無は瞬きをすると、質問の答えをつとめて平静に言った。

「服と、毛布……かな」

「ああ、それだったら中にあったと思う」

 少年先導の元、虚の中の木箱を開けた。二人がほこりにむせながら中を見ると、入っていたのは穴だらけの毛布とハンモックのようなもの。

「……」

「……」

 少年がそれをつまむと、さらにぼろぼろになった。

「見なかったことにしてくれ」

 少年はばたんとふたを閉めた。

「……あの、ここって――?」

 入れ替わり立ちかわり人がやってくる。まさかここが家というわけではないだろう。

「ああ、ここは昔、俺と風満と若葉が見つけた秘密基地だよ。事情があってもうちょい快適な場所に案内できないけど勘弁な。で、その名残で生活できそうな道具がちょこちょこそろってるってわけ」

 風無が観察した結果、端切れでできた人形や木製のおもちゃなどが隅のほうに置かれていた。生活、というより遊び場としての空間色が強い。

「聞いたんだけどここ御神木なんだよね。人が入っていいの?」

「…………」

「…………」

「――まあ細かいことは気にするな」

 少年は軽く笑うと、はりきった声を出す。

「にしても最近放ってたからぼっろぼろだな。まだまだ持ってこなくちゃ生活できないだろ。家で使えそうなもの探してくる」

 風無の返答も聞かず、彼は虚から勢いよく飛び出す。陸上選手並みの瞬発力。

「――待って!」

 その言葉に、少年は立ち止まる。風無も虚から出て、彼を見て口を開いた。

 聞かなければならないことが、たくさん。

「名前、まだだよ。……聞いてないよ」

 言ってしまってから、風無は後悔した。なんで今名前なんだ。あと……どうして聞いてしまったんだと。

 少年は少し考え、振り返った。

「シナト。赤松科戸。若葉には――あの着物着てるやつだよ。あいつに名前、呼べたら呼ぶとか言ったんだってな。聞いたからにはちゃんと下の名前で呼べよ、風無」

 軽い足音が遠のくと同時に、風無は楠にもたれかかった。軽い動悸で頬が赤くなる。緊張が解け、どっと肩が重くなる。風無は大きく息を吐いた。

「……言えた」

 自分から。はじめての。拒絶されなかったことに、風無はまだ動悸をおさえられないでいた。

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