第16話 酒と泪
真夜中に来訪者あり。
ヒューゴは不審に思いつつも、考えなしにドアを開けてしまった。
一般論で言えば不用心である。
だが、こんな迂闊な対応をしてしまうのも、彼が常人離れした武力を誇るがゆえだ。
ドアが開ききる前に、相手は隙間から体を滑り込ませてきた。
そして受け身もロクに取れぬまま、床に倒れ込む。
髪の長い女性で、まだ若い。
背中にコウモリに似た羽のあることから、魔族である事は間違いない。
その女性には立つだけの余力が無いのか、そのまま動けないでいる。
口からはうわ言のような、正体の怪しい声。
酷く酒臭い息だった。
「魔王ちゃぁん。遊びぃに来たろぉ」
「あなた、リリアムさんじゃないですか! こんな時間にどうしたんですか!?」
「別にぃ。どーでも良いじゃん理由なんてぇ」
「……こりゃあ大分酔ってるなぁ」
彼女は夢魔リリアム。
絶世の美女の容貌で、服装は扇情的で布面積が乏しい。
背中の禍々しい羽も、見ようによっては良いアクセントとなっている。
それにしても、とヒューゴは思う。
なぜ突然、しかも夜中にやって来たのかは見当もつかなかった。
「ともかく、そんな所に寝転がってないで、まずは上がってよ?」
「アアン!? 何だぁこのボロ小屋はぁ! アタシをこんら所に連れ込んで、一体なにするきらろ!!」
「あぁもう……面倒だなぁ」
悪い酒である。
泥酔状態に近く、もはや対話など不可能であった。
その頃、チーサとカリンは身を寄せ合いながら、不安げに成り行きを見守っていた。
「あ、アニィ。その方はもしかして、恋人か何かでやす?」
「もももっ」
「アハハ、違う違う。この前の撮影で共演しただけだよ。顔見知りって感じの……」
「そう! アタシら愛しあっちゃってんの朝から晩までイヤらしく!」
「……この人、大丈夫ですかね?」
「酔いが覚めれば普通のヒトだから。うん……」
この時、ヒューゴはふと思い出す。
夢魔リリアムは、魔族の中でも驚異的な人気を誇っている役者だ。
なので別作品にも多数抜擢されており、近々撮影を控えているはずなのだ。
そうなると遊んでいる暇などない。
役作りに台本の読み込みと、やるべきことは多くある。
にも関わらず、遅くまで飲み歩くとは、一体どうしたことか。
当の本人に問いただしたい所ではあるが……。
「おう、そこの猫みてぇなの! 水持ってこいよ水ぅ!」
「へ、へい! こちらをどうぞ!」
「気が利かねぇヤツ……。うん? これ、酒じゃねぇじゃねぇかぁ! アタシの事舐めてんのかぁ!?」
「ええぇ?! 理不尽しかない!」
このザマである。
ヒューゴは肩から大きな溜め息を吐き出し、リリアムの額を指先で触れた。
それから僅かに魔力を放出させる。
すると、彼女の額に一瞬だけ感電したような光が走り、相手の意識を奪い去った。
その場で白目を剥いて倒れるリリアム。
カリンは声を青ざめさせて、小さく尋ねた。
「あ、アニィ。もしかして、殺っちゃいやしたか?」
「いやいやいや! 人聞き悪いなぁ。眠らせただけだってば」
「あぁ、そうでやすか。ふぅ……」
「ビックリしたなぁ。ほんと災難だったよねぇ」
「もっ」
嵐は過ぎ去った。
部屋に残るのは徒労感と酒臭さだけである。
ヒューゴたちはリリアムを部屋の端に寄せ、自分達はその反対側に固まって寝ることにした。
貞操観念がそうさせるのではない。
臭いが辛すぎて眠れないからだ。
それでも消灯するなり、皆は寝入る事が出来た。
翌朝。
大家より新聞が届けられる。
スッキリしない頭のまま、ヒューゴは恭しく受け取った。
「今日のトピックスは……えぇッ!?」
芸能記事を見るなり、彼は驚愕した。
というのも、でかでかとリリアムについて書かれていたからだ。
主旨も酷いもので、彼女は軒並み降板させられ、代役が既にたっていると書かれていた。
記者の目線は批判的であり、厳しくリリアムの事を断じている。
その時になってようやく合点がいった。
昨晩の荒れ模様について。
ヒューゴは被った迷惑などすっかり忘れ、同情の気持ちと共に読み進めた。
「おはよう、魔王ちゃん」
「おはようございます……」
リリアムが小屋から現れ、ヒューゴの方へと歩み寄ってきた。
彼女は新聞に目線を送ると、何かを察したように微笑み、それから並び立って朝日の方を見た。
「アタシの事、色々と書いてあるでしょ?」
「え、ええ。まぁ」
「こないだねぇ、社長と大喧嘩したんだぁ。枕営業してこいって言われてさぁ。そんで断り続けてたら、この結果だよ」
「そんな……酷い話ですね」
「まぁね。この業界じゃ珍しい事じゃないらしいけど、アタシはどうにも嫌でね。だから全部捨てて来たよ。ちっちゃい頃の夢と一緒にね」
リリアムの顔が朝日に染め上げられる。
少し憂いを秘めてはいるが、どこか解き放たれた様子だ。
ヒューゴはその横顔を見て、素直に『綺麗だな』と思った。
その相手はというと、視線を赤い空に向けたままで明るく言った。
「昨日の晩のこと、覚えてるから」
「そうなんですか?」
「うん。だからさ、責任とってよね?」
「責任って……あぁ」
彼女の額には小さな赤みが出来ていた。
眠らせる時に出来た腫れである。
ヒューゴは指先に回復魔法を出現させ、それをリリアムの額に乗せた。
半球状の光の玉が閃光を放ち、消える。
それで額は元通りとなり、本来の美しい肌が取り戻されたのだ。
「えっと……今のは?」
「治療したんですよ。昨晩はごめんなさい。起きてるのも辛そうに見えたから、魔法で眠らせちゃったんですよ」
「いや、それは別に良いの。問題はその後でしょ」
「その後って? すぐに寝ましたけど」
「は?」
「え?」
互いに顔を見合わせて硬直した。
どちらも『何言ってんだコイツ』という表情である。
自然と言葉も早口になり、トゲトゲしいものへと変わっていく。
「いやいや、嘘でしょ? アタシはこれでも絶世の美女って言われてんのよ? 何もしないだなんて有り得ないじゃない」
「そう言われましても……。いつも通り寝ちゃいましたよ」
「いーやいやいや! 手頃な女が無防備よ、揉むでしょ? 揉みしだくでしょ? 揉み会でしょ!?」
「何ですかそれ! 僕の中の常識じゃ有り得ない……」
「ゴチャゴチャ言わずに揉めよオラァ!」
「ひぃーーッ!?」
逆上して襲いかかるリリアムを、持ち前の身体能力で回避した。
それからヒューゴは空高く飛び立ち、安全圏にまで待避しようとしたが。
「逃がすかぁーー!」
「うわあぁーーッ!」
「揉めっつってんだろぉーー!」
「怖いぃぃーーッ!」
リリアムは瞬間的に魔王の能力を凌駕し、散々に彼を追い回した。
恐るべき女子力。
空はにわかに戦場の様相となり、早朝の静けさを破壊した。
ツバメなどとは比較にならない速度にて攻防戦が勃発し、低空から果ては雲の上に至るまで、広大なエリアでの追いかけっことなった。
「はぁ、はぁ。いい加減諦めてくださいよぉ」
「諦めっかよぉ、未来の旦那さま……ぁ」
「うん……?」
激しいアップダウンを繰り返した直後だ。
リリアムの動きがピタリと止まり、それから全身を震わせ始めた。
そして彼女の口から多量の胃液が噴出した。
酒の抜けきっていない体には負担が大きすぎたのだ。
「ちょっとぉ! こんな所で吐かないで!」
「無理っす。マジ無理っす」
「せめて河! 河の方まで行こうよ!」
朝陽に照らされた吐瀉物は割と綺麗に見えた。
それは光輝きながら、地上の各所へと散らばっていくのだった。
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