保護者の独白
壱
──前にこの場所からこの光景を眺めたのは、いつの事だっただろう。リフェルダの成人の儀の時であったか、ハイトの成人の儀の時であったか。
部屋の奥の壁が取り払われ、中庭と水路がのぞめる儀式の間。
その壇上の台に置かれた『
階下には中心に走る絨毯敷きの通路を挟んでアクアエリアの重臣達がズラリと並び、壇上にはアクアエリア王トルヴォートと第一王子のイゼルセラン、そして台を挟んだ反対側には正装姿のサラと宰相の姿を借りたフローライト王サエザル、お付きとしてキャサリンが立っている。
──帰国が間に合ったというのに、結局遅刻ではないか、ハイト
いつ儀式が始められてもいい状況なのに、残念なことに肝心な主役がまだ現れていない。きちんと朝、定刻通りに起床し、予定よりも早く支度部屋へ入った事まで確認していたから安心してこちらに顕現してしまったのだが、どうやらそれが大きな間違いであったらしい。
「ハイトリーリン殿下は一体どうなされたのか……」
「アヴァルウォフリージア姫をこのようにお待たせするなんて……」
周囲に注目されないよう密やかに顕現した水龍は、皆の視線にはさらされない天井の装飾に腰掛けて広間を眺めている。だから誰も水龍の姿には気付いていないのだが、神の耳には臣下のどれだけ小さな囁きでも聞こえてくる。先程からこうしてヒソヒソと不安や不満が囁かれている事は分かっていた。
「フローライトはアクアエリアよりも格上だぞ。その直系の姫をこのようにお待たせするなんて……」
「ロベルリン伯とマイスト将軍も姿を現さないじゃないか。まさか殿下が后を迎える事にあの二人が反対しているんじゃ……」
「よしんばこの場に現れたとして、あの二人がそう容易くハイトリーリン殿下以外の人間に向かって膝を着くものなのか……?」
「場合によっては陛下にすら膝を着かない筋金入りの殿下馬鹿だぞ……」
「いざ儀式となった場でアヴァルウォフリージア姫に無礼な発言をしだしたらどうすればいいんだ……」
囁きはさらに続いていく。その主な内容は、ハイト個人にというよりも、どちらかと言えば二人の従者に対する疑問や不安だった。
やはり興味関心はそちらなのかと思いつつも、水龍としては本日の主役がまるで二人の添え物のように論じられている事が面白くない。
──ハイトのために二人が努力した結果とはいえ、いささか二人が突き抜けすぎたと言うべきか
「…から………だね」
どう黙らせてやろうかと水龍は緩やかに指先を上げる。
だが水龍が力を振るうよりも、広間の外から微かな声が聞こえてくる方がわずかに早かった。
「案の定遅刻だなー。やっべ、怒られるんじゃね?」
「お前らがいつまでもあーでもない、こーでもないって
「だってさぁ、ちゃんと指示しておいたのに違う事やってんだもん。あれなら最初から僕とヴォルトでやった方が早かったよ。ねぇ? ヴォルト」
「おーよ、やっぱ俺達の方がハイトの事を良く分かってるって事だな!」
「女中達の仕事が普通で、お前らが考えたこっちの方が異常なんだからなっ!?」
言い争う声は段々大きくなっていくと、扉の外で動くのをやめた。まだまだ続きそうだった口論は、扉の外に立つ衛兵の咳払いによって止められる。
「……クスッ」
広間の臣下達が何とも言えない表情で沈黙する中、壇上のサラがわずかに笑い声を零した。人の耳では拾い切れない微かな笑い声に視線を向ければ、サラは慌てて笑みを引っ込めると澄ました表情を取り繕っている。だがその表情は、先程までに比べてわずかに緩んでいた。フローライト一行が微笑ましそうな表情を浮かべる中、壇上のアクアエリア一行は呆れた風情でわずかに天を仰いでいる。
「ハイトリーリン殿下、及びロベルリン伯、マイスト将軍、御入来でございます」
その表情が、衛兵の声によって引き締まる。
広間に詰めた人々が視線を集中させる中、儀式の間の扉は静かに開かれた。その視線を物ともせず、腹心二人を引き連れたハイトが広間の中へ足を進めてくる。
『……ほぅ』
その姿を見た水龍は、感嘆の息を零すのと同時に衣装で揉めたという理由を察した。
波打つように長く床へ広がる衣は、濃い青を表にして白に近い水色へ色を変える
涼青の襲は、王子の身分で纏える最上位の襲色目。重ねた衣の枚数と長さも同じく。だが冠を乗せない姿は略装に分類され、配された玉などの小物も襲色目の格に合わせるならば
衣を管理する女中にこんな揃えで衣装を整えよなどと命じたら卒倒するに違いない。それくらいハイトが纏っている衣は突拍子もない組み合わせがされていた。婚約式という一生に一度の大行事。主の恥とならぬよう命に反してきちんと衣を整えようとする女中と、指示を出した従者二人が揉めるのは火を見るよりも明らかだ。
だが。
──なるほど、ハイトに似合う物だけで揃えたか
アクアエリアの王宮装束は、地位や季節、行事の格によって、衣の丈、使える色、小物の格などが変わる。きっちりそれを遵守して装束を整えると、どうしても全てを着る者に似合う品で揃える事は難しい。ハイトの場合で言うと、正装用の金糸織物よりも準礼装用の銀糸織物の方が顔に映えるし、涼青の襲には同色になって沈む青玉の小物よりも差し色になる藍玉の方が映える。
それを分かっていながらも、女中達は格を揃えた衣装を今まで用意してきたし、ハイトも疑いもなく揃えられた衣装に袖を通してきた。
だが今回装束に事細かく煩く口を出したという従者二人は、そんなちっぽけな決まりよりも、一生に一度のこの舞台でハイトの魅力をいかに引き出すかを優先したのだろう。現にこの場に詰めた人間は皆、衣の不一致を指摘できる教養がある者ばかりだというのに、それをあげつらうことなく誰もがハイトに見とれている。それどころか、ハッと我に返った者達は、自ら進んでハイトのために膝を折った。
あれだけ第二王子一行への不安を口にしていたというのに、今この場にそんな空気は微塵も残っていなかった。純粋に敬意を示す彼らに二心は存在していない。
海が割れるように人々が
人々の視線を集めたまま壇を登ったハイトは、長い裾を器用に捌いて整えるとサラと向かい合うように台の傍らに立った。その後ろに続いて壇上に立った従者二人は、優雅に裾を捌くとサラに敬意を示す形で膝を着く。
その姿に広間の空気が静かにざわめいた。ここに詰めた者達は、ハイトの腹心二人がこうもあっさりと新参者の后候補に膝を折るとは思ってもいなかったのだろう。
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